囲碁漂流の記

週末にリアル対局を愉しむアマ有段者が、さまざまな話題を提供します。初二段・上級向け即効上達法あり、懐古趣味の諸事雑観あり

ライバル友情物語

2020年07月17日 | 雑観の森/芸術・スポーツ

 

同時代を生きる あっぱれな若者たち。

白眉は、最年少将棋棋士、藤井颯太七段(17)。

その活躍は、昏い時世に灯る一筋の希望の光のよう。

勝っても勝っても、こちらはいつもどきどき。

しかし勝って勝って勝ちまくるのである。

そして勝ってもカメラの前では喜びを内に秘める。

キャラクターも含めて世代を超えて愛され、

人気・実力もはじけ、群を抜いている。

願わくばトップランナーにライバルを。

切磋琢磨でさらなる高みを期待したい。

 

そんなこんなで、今回は将棋を主役にした話題。

 

 

 

 

将棋最強と囲碁最強は幼馴染だった の巻】

 

■将棋の巨星・大山康晴は、

半生回顧録で、

「高川さんと私は、幼な馴染である。

こういえば、本当だろうか、

と疑問を持たれる方が多いであろう」

と書き始めた。

高川とは、囲碁・本因坊戦V9を達成した

「二十二世本因坊秀格」のことである。

 

■昭和十年秋、

大阪の松坂屋7階に関西で初めての

高級大娯楽場が開設された。

茶道や活花、碁、将棋など日本固有の趣味を

市民だれもが楽しめる場だった。

 

当時、高川格は三段で20歳、大山が三級で13歳。

囲碁と将棋は同じ部屋で、アマに教えていた。

毎週水曜日の教室だったが、

どちらも無口だったことから、

会釈するだけで

話を交わすということはなかった。

ともに頭髪は みどりなす、といった年頃で、

「やせぎすの高川と、ふとっちょの私(大山)がいた」

と述懐している。

その後の消息は、新聞雑誌で互いの活躍を知る程度だった。

 


■時は流れ、二人はそれぞれ棋界の第一人者の地歩を確立し

二十余年ぶりに雑誌の座談会で、昔話に花を咲かせる。

囲碁と将棋で関西から最高位を出したのは

棋道始まって以来の出来事であり、

世間にいろいろと話題をまいたものである。

 

この頃から、互いの専門領域を自らの趣味にする

ことになる。


大山は、旅には「碁の本」と「携帯碁盤」を持参する。

「囲碁の方は、なかなか上達しない」というが、

日本棋院四段の免状を貰っており、

今なら六段格だったろうか。


高川も、将棋では初段。

呉清源、木谷実が三段、坂田栄男が二段だった。

 

プロ碁打ちは将棋を、プロ将棋差しが囲碁を

それぞれ趣味にしていた。

 

■それだけでなく、大山は人間高川のファンであり、

兄貴のような気持ちを持っていたようだ。

こんなことを書き結んでいる。


「噂に聞くと、

高川さんは“たぬき”とかいう

ニックネームがあるようだ。

如何なる意味か知らぬけれど、

呉清源氏をもだますような

真の“たぬき”になってもらいたいものだ。

(1960年の執筆当時)囲碁、将棋を通じて、

八期王座を占めた記録を持っているのは、

木村十四世名人ただ一人である。

お互いにそれぞれの道で、

最高位の座を占めることとなった今日、

盤面以外のことでも、

人間として恥ずかしくないような

健全な生活を営み、

思想を鍛えるとともに、

この木村十四世名人の成し遂げた

偉業の上を越す記録を目標として、

一層の努力をしてゆきたいと思う」

 

 

 


高川格(たかがわ・かく、1915~86年) 昭和の名棋士。本因坊戦9連覇により名誉本因坊として秀格と号し、後に二十二世本因坊を贈られる。本因坊位の他にも、名人、十段等タイトル多数。「流水不争先」を信条とし、平明流と言われる、合理的で大局観に明るい棋風。和歌山県田辺町(現在の田辺市)生まれ。1926年に大阪で光原伊太郎五段(当時)に入門。

 


大山康晴(おおやま・やすはる、1923~92年) 昭和の最強棋士。十五世名人。名人・十段・王位・棋聖・王将の五つのタイトルで永世称号を持つ。現役トップ棋士のまま日本将棋連盟会長も務め、将棋の普及・地位向上に大きな功績を残した。岡山県河内町(現・倉敷市)生まれ。1935年に大阪で木見金治郎八段(当時)に入門。  

 

 

 

 

 

 

 

 

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