同時代を生きる あっぱれな若者たち。
白眉は、最年少将棋棋士、藤井颯太七段(17)。
その活躍は、昏い時世に灯る一筋の希望の光のよう。
勝っても勝っても、こちらはいつもどきどき。
しかし勝って勝って勝ちまくるのである。
そして勝ってもカメラの前では喜びを内に秘める。
キャラクターも含めて世代を超えて愛され、
人気・実力もはじけ、群を抜いている。
願わくばトップランナーにライバルを。
切磋琢磨でさらなる高みを期待したい。
そんなこんなで、今回は将棋を主役にした話題。
【将棋最強と囲碁最強は幼馴染だった の巻】
■将棋の巨星・大山康晴は、
半生回顧録で、
「高川さんと私は、幼な馴染である。
こういえば、本当だろうか、
と疑問を持たれる方が多いであろう」
と書き始めた。
高川とは、囲碁・本因坊戦V9を達成した
「二十二世本因坊秀格」のことである。
■昭和十年秋、
大阪の松坂屋7階に関西で初めての
高級大娯楽場が開設された。
茶道や活花、碁、将棋など日本固有の趣味を
市民だれもが楽しめる場だった。
当時、高川格は三段で20歳、大山が三級で13歳。
囲碁と将棋は同じ部屋で、アマに教えていた。
毎週水曜日の教室だったが、
どちらも無口だったことから、
会釈するだけで
話を交わすということはなかった。
ともに頭髪は みどりなす、といった年頃で、
「やせぎすの高川と、ふとっちょの私(大山)がいた」
と述懐している。
その後の消息は、新聞雑誌で互いの活躍を知る程度だった。
■時は流れ、二人はそれぞれ棋界の第一人者の地歩を確立し
二十余年ぶりに雑誌の座談会で、昔話に花を咲かせる。
囲碁と将棋で関西から最高位を出したのは
棋道始まって以来の出来事であり、
世間にいろいろと話題をまいたものである。
この頃から、互いの専門領域を自らの趣味にする
ことになる。
大山は、旅には「碁の本」と「携帯碁盤」を持参する。
「囲碁の方は、なかなか上達しない」というが、
日本棋院四段の免状を貰っており、
今なら六段格だったろうか。
高川も、将棋では初段。
呉清源、木谷実が三段、坂田栄男が二段だった。
プロ碁打ちは将棋を、プロ将棋差しが囲碁を
それぞれ趣味にしていた。
■それだけでなく、大山は人間高川のファンであり、
兄貴のような気持ちを持っていたようだ。
こんなことを書き結んでいる。
「噂に聞くと、
高川さんは“たぬき”とかいう
ニックネームがあるようだ。
如何なる意味か知らぬけれど、
呉清源氏をもだますような
真の“たぬき”になってもらいたいものだ。
(1960年の執筆当時)囲碁、将棋を通じて、
八期王座を占めた記録を持っているのは、
木村十四世名人ただ一人である。
お互いにそれぞれの道で、
最高位の座を占めることとなった今日、
盤面以外のことでも、
人間として恥ずかしくないような
健全な生活を営み、
思想を鍛えるとともに、
この木村十四世名人の成し遂げた
偉業の上を越す記録を目標として、
一層の努力をしてゆきたいと思う」
高川格(たかがわ・かく、1915~86年) 昭和の名棋士。本因坊戦9連覇により名誉本因坊として秀格と号し、後に二十二世本因坊を贈られる。本因坊位の他にも、名人、十段等タイトル多数。「流水不争先」を信条とし、平明流と言われる、合理的で大局観に明るい棋風。和歌山県田辺町(現在の田辺市)生まれ。1926年に大阪で光原伊太郎五段(当時)に入門。
大山康晴(おおやま・やすはる、1923~92年) 昭和の最強棋士。十五世名人。名人・十段・王位・棋聖・王将の五つのタイトルで永世称号を持つ。現役トップ棋士のまま日本将棋連盟会長も務め、将棋の普及・地位向上に大きな功績を残した。岡山県河内町(現・倉敷市)生まれ。1935年に大阪で木見金治郎八段(当時)に入門。
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