【多数が正しく、少数が間違っているのか の巻】
ぎ・ぜん【偽善】うわべをいかにも善人らしく見せかけること。
また、そういう行為。
ぎ・あく【偽悪】《「偽善」に対してできた語》わざと悪を装うこと。
――デジタル大辞泉
表面(うわつら)に悪を装うこと
つまり本性は善でありながら
ことさらにやむを得ず
悪をテラウことを意味する。
こういう二重人格的な人間を
偽悪家というが、これは
偽善に対する新語だった。
明治の文豪、夏目漱石が創ってから
広く一般にも用いられることになった。
少数派が発明し、多数派が使用する好例。
◇
最終的には多数決で物事を決める
という民主主義の前提となるプロセスを
金科玉条とばかり絶対視するあまりに
不正や大衆迎合が幅を利かせているのが
この国の十年である。
我執のまま思い付きで評論するばかりの無責任派と
声を聴き、悩み、考え、覚悟を持ってする実行推進派と
その二つが「同じ1票」というのが民主主義かといえば
それは違うのではあるまいか。
日本の重大事となっている五輪開催可否の論議しかり。
私が世話人をしている地域碁会の改革しかり。
いつの時代にもトンチンカンな多数派は存在する。
沈思黙考の少数派は出番を持たないのが奥ゆかしい。
それが、この時代、この国の不幸を固定化している。
5年後、10年後になって
大きな反省と後悔にさいなまれた
かつてのドイツ国民から
何を学ぶべきなのか。
多数派(大衆)は
過ちから学ばないことを
歴史が証明している。
大衆とは良い意味でも悪い意味でも、
自分自身に特殊な価値を認めようとはせず、
自分はすべての人と同じであると感じ、
そのことに苦痛を覚えるどころか、
他の人々と同一であると感ずることに
喜びを見出しているすべての人のことである。
今日のヨーロッパ社会において最も重要な一つの事実がある。
それは、大衆が完全な社会的権力の座に登ったという事実である。
大衆というものは、その本質上、
自分自身の存在を指導することもできなければ、
また指導すべきでもなく、
ましてや社会を支配統治するなど
及びもつかないことである。
常に自分に課題を課していく人が思考的貴族である。
優れた人間とは自分自身に多くを課す者の事だ。
――オルテガ・イ・ガセット「大衆の反逆」(1930年)