【“善人”の心にトゲを刺す!「序章」 ~ あなたの胸にチクリ ~ 諫言か 忖度か の巻】
■「趣味の世界は、職業・地位など関係ない。上下関係もない。だから『平等』だ」
というヒトがいる。
わたしは、首を傾げる。
平等?
本当に、そうだろうか?
■100人規模の趣味の会に3年半もいると、
おぼろげながらに「人間模様」が見えてくる。
現役時代は何をやっていたかとか、
カネ持ちだとか、
それほどでもないとか、
どんな毎日を送っているとか、
そうことも少し「知ってしまう」ようになる。
遠慮して訊かないヒトもいれば、ストレートに尋ねるヒトもいる。
あまり語りたがらないヒトもいれば、明け透けなヒトもいる。
偉そうなヒトもいれば、腰の低いヒトもいる。
気難しそうなヒトもいれば、気さくなヒトもいる。
知る限りにおいて
概ね社会的に成功したヒトに限って
意固地あるいは頑固な傾向がある。
諫言を遠ざけ、忖度を好んだのだろうか。
■さて会則に基づき、年会費4000円を払い、
会場設定・撤収等の当番義務などを果たせば、
「囲碁を楽しめるという権利」を等しく得られる、
ことになっている。
この辺が平等を下支えしている。
そして会費は、概ね楽しみのために使われ、余れば還元されもする。
このあたりも、まずまず平等に近い状態で運営されている。
■しかし、その実相はといえば――
高段者と低段・級位者の階層に目に見えない線が引かれている。
いくつかのグループらしきものが自然形成されている。
元会長たちには隠然とした発言力がある。
ほのかに、しかし確かに、“複雑な階級のようなもの”が存在する。
これはこれで、人間社会の常であろう。
■「自分を少しも語らないヒトは、ヒトとの触れ合いを拒絶するヒトだ」
と、わたしは思う。
「碁を打ちにきているのだから、私生活は訊ねない」という空気があるにはある。
だが近しくなれば、世間話も交わすし、その流れで互いのことが分かってくる。
それを「詮索」というヒトもいるが、ちょっと違うのではないか。
わたしは意見表明癖があると指摘されるが、好ましい人間関係を作るためでもある。
そもそもブロガーなどという人種は「問わず語り癖」があるのだ。
■昔から「ノンセクト・ラジカル」と決めている。
気の置けない仲間の遊びでつるむのは別として、
「何かをなすための野合」は願い下げである。
党派・組織の類いは、当初の思いからほど遠い行為を、必ずやらかすものだ。
ある目的で集まっても、一定の成果が出ると、驕りや退屈が蔓延してくる。
放っておくと、いつかは、必ず堕落・腐敗する。
わたしのような無党派から見ると、右派も左派も似たようなものである。
学生時代も、職場も、基本的に「全方位外交」の方針でやってきた。
特定グループに偏して「色付き」になる(される)のはゴメンである。
■なお、一点。わたしのブログでは、趣味の碁の記事で「ヘボのわれら」などと表現することもある。
だが政治・信条・思想等の記事については「単数一人称」で語るように心掛けている。
「わたしは」であって、「われわれは」ではない。
それが「意見表明」の正道ではないか、と思う。
短歌の世界も全く同じだと思いながら読ませていただきました。
短歌も詩の世界なのだから、歌人は平等だと思うのにヒエラルキーが存在するのは何故かなあと常々思っています。
有名になって威張るのなら有名にならないで無名でいるほうが歌人として清いと思いながらも、しかし、それも少々寂しい?😅
このあたりの話は、いずれ書いておかねば、
と思っていました。次の投稿は、もう少し
だけ踏み込む(と言っても大したことはなし)
つもりですが、気が小さいのでどうなりますやら。<笑>