囲碁漂流の記

週末にリアル対局を愉しむアマ有段者が、さまざまな話題を提供します。初二段・上級向け即効上達法あり、懐古趣味の諸事雑観あり

明治維新と大相撲㊦

2021年07月12日 | 雑観の森/芸術・スポーツ

 

【土俵の周辺 むかしばなし あれこれ の巻】

 

 

維新の頃からの悪評を跳ね返し

明治の世も安定した頃

年寄の数は江戸時代より増えて

88人にもなった

お江戸の相撲は消滅寸前までいったが

土俵際でなんとか持ち直し

かろうじてV字回復へと向かった

 

主だった者は部屋を構え

若い士を育てていった

高砂、雷(いかずら)、尾車、友綱、

伊勢ノ海、井筒、出羽海あたりが

有名どころであった

 

相撲取りの待遇改善も始まった

給金は最高45円とされたが

それでも東の大関・梅ケ谷は41円

西の大関・常陸山は36円

ひと場所ごとに

幕内は50銭ずつ上がったが

依然として安かった

人気役者の市川団十郎は、

ひと芝居に1万円

を取っていた時代である

 


   *  *  *

 


本場所以外にも

「花相撲」という小さな興行もやった

粗末な見世物小屋でだった

四方は板囲い、桟敷は縄囲い

天井はスノコだから

雨が降ったら中止

公園や神社でやると

人は集まるようになっていた

 

ファンは熱心だった

ひいきの力士が勝つと

声援だけじゃ物足りず

羽織や煙草盆を投げ付ける

土俵の上はいろんな物で

埋め尽くされた

 

客の数はうなぎのぼり

艶っぽい芸者の姿も多かった

それがさらに客を呼んだ

昔の相撲も男尊女卑の例に漏れず

男の裸を見せるのは、いかがなものか

と一部期間を除いて

女性の相撲見物を禁じていたが

のちに禁止が解かれた

 

新聞も夕刊が珍しかった頃だが

1日の勝負が終わると

すぐに番付を刷って

市内を売り歩いた

飛ぶように売れた

 

とても客を収容しきれなくなり

晴雨にかかわらず興行できる

常設館が必要になってきた

初代の両国の国技館である

 

閑院宮殿下のご来臨を仰ぎ

委員長の板垣退助

開館の辞を読んだ

これがまた格調が高かった

 

「これ相撲は

日本古来の国技にして

国民的娯楽たり

これをして

社会の武育に稗益せしむる

それ本協会の責務なり」

 

以前の百円札の肖像は

この頃の顔を撮って

仕上げたもの

といわれている

 

 

 



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