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縁の下の眠り猫 ~寝言は寝て言う~

縁の下の眠り猫こと中野泰祐の小休止ブログ
只今フィリピン赴任中!!

なにか違う

2014-01-25 15:35:56 | 小言
こんにちは

引っ越しの目処が立ち

一安心の猫です





今回は少々小言チックです

私はブログの他にもツィッターなどもやっています。

今日はそんなツィッターでの話。

始まりは私がフォローしている人がリツィートした一連の書き込みです。

便宜上ここではK氏とします。

このN氏、どうやら公共の交通機関のサービスに不満があり

その原因は市場に競争原理を取り入れていないからという考えを持っているようでした。

「JALなんて助けないで外資企業を誘致すれば国内線は安くなる」
「だからJRはサービスが悪いままなんだ」

JALやJRをゴチャゴチャに言っていますが、とにかく国内の移動手段に文句がある感じでした

その内に話はJRに一本化。

EXICのサービスについて熱く語ります。

「ICカード付のSuicaがなんでないんだ」
「つい最近までiPhoneで使えなかった」
「なんでこんな複雑なシステムにするんだ。アホなのか」

K氏としてはこれらサービスの問題は全て競争原理を取り入れていないからのようです。

そして最後は自身の体験談。

EXICを使ってネットで新幹線のグリーン券を購入した時の話です。

「ネットで買ったけど当日EXICカードを忘れた」
「登録してあったクレジットカードで発券して乗った」(EXICはネットで買えて発券の必要のないサービス)
「その発券したカードを車内に忘れたら全額払えって言われた」
「クレジットカードの控えや(調べれば)購入履歴もあるのに」
「JRのシステムって本当にクソだな」

こうしてK氏のツィートは終わりました。

如何ですか?

ツッコミどころ満載ではないですか?

政治や経済について熱く語っているK氏ですが

規定のカードを忘れ、臨時購入のチケットも忘れている時点で

まずは自身の脳内システムを改めた方がいいと思います。

まともに論破するのも馬鹿馬鹿しいですが

チケットを紛失した時点で全額払うのはごく当たり前のシステムです。
(控えや購入履歴があろうとも、それを許しては不正利用に繋がるからです)

むしろ、路線の始発駅からの支払いにならなかっただけJR社員の慈悲です。
(高速道路なら問答無用で最初のインターからの金額になります)

なによりも、

「iPhoneでの利用を可能にする」
「ICカード付のSuicaを作る」
「ドジが忘れ物をする度に履歴を調べる」

これらを簡単で無料提供が当たり前のサービスなどと言い放つ

コスト意識の無い人が経済や政治を語り、

毒をネットで吐き散らす。

これはネットの有害性というより

ネットを使いこなせていない人間性の問題ではないでしょうか?

成長しなくてもいいなどと、

お花畑な事はいいません。

技術進化が速いのなら

主である人は更なる成長速度が必要ではないでしょうか?

そんなことを考えた週末です

体罰

2013-02-23 13:04:02 | 小言
こんにちは

円安も93円で落ち着きだし、

株価は11,500を超えないな。

なんて、経済気にしてます的な猫です。


さて、今日のお題は「体罰」についてです。

このような評論(?)は

このブログでは人気がないのですが、

猫の性格上、言わずには居れません。



一つの小さな命の犠牲から始まった今回の「体罰」問題。

柔道界やその他教育現場でも大小様々な「体罰」が問題となっています。

皆さんは如何お考えですか?

報道を見る限りでは「体罰絶対悪」という考えが多くなっている気がします。
(情報操作かもしれませんが)

猫の意見は

「体罰」は悪ではありません。

「体罰」が「暴力」となったことが悪なのです。

といったものです。

「体罰」とは「動機・目的」が生まれ「肉体的」な「ペナルティ」を与える事です。

これ自体には問題はないのではないでしょうか?

極端な例ですが、

通り魔が無関係な人を刺し殺す事



その通り魔を殴って止める事

という行為は「体罰」という点では同義です。

通り魔だって理不尽ながらも「誰でもいいから殺したかった」という「動機・目的」があります。
(決して通り魔を容認するわけではありません)

では違いはなんでしょうか?
(ここを間違えると問題を履き違えてしまいます)

決定的な違いは「動機・目的」ではなく、

「動機・目的」に対する「ペナルティ」の重さです。

バランスと言ってもいいかもしれません。

「ペナルティ」が重過ぎれば「暴力」となり

逆に軽すぎれば「罰」にならず、目的も果たせません。

通り魔を止める為に動いた正義の通行人Aも、

「体罰」を躊躇して制止できなければ、悲劇を回避できないし、

相手が悪いからと、故意に殴り殺してしまえば、

「暴力」となり、

逆に過剰防衛になってしまう可能性もあります。

この例は極端ですが、

通常はこのバランスがとても難しいのです。

「動機・目的」は人によって差異があり、

「ペナルティ」の重さも受け取る側で違います。

文章や数字にには決して表すことのできない、

基準の無い問題なのです。

だから、

力を行使する人も罰を受ける人も

毎回、そのバランスを考えなくてはいけないのです。

では、この考え方で

話を教育へ戻します。

今回のバレー部の顧問の行動。

報道では、

彼は長い間顧問を続け、強豪と呼ばれる部活動を支えてきた熱血教師。
幾度も過度な「体罰」が問題となったこともあるが、
結果を出し、卒業生からは感謝されているという面もある。
本人も長年このやり方で強豪校を支えてきた自負があり、
今回の生徒にも強い期待を持っていた
(個人的に嫌いならキャプテンにはしないだろうという私の考えです)

といった感じではないでしょうか?

私の見方では、やはりこの顧問はバランスを考えることを怠ってしまったのだと思います。

毎年違う生徒を相手にしているにも拘らず、

指導方法は変えなかった。

もしかしたら、彼なりにフォローはしていたのかもしれません。

しかし、そのバランスを間違えてしまった(結果論ですが)。

とても難しい問題です。

だからこそ、指導者と呼ばれる立場の人間は

成功の上に胡坐を掻かず、

常に研鑽していかなくてはならないのです。

良い結果だけを生むバランスを。

「罰」を使わなくても導ける道を。



少々長くなったので、

今回は指導者側からの「体罰」についてだけにします。

何事も「中庸」つまりバランスが大切です。

しっかりと指導される側や第三者の立場からも考えなくては

歪が必ず生まれます。

実際、今の日本では「体罰」問題による歪が新たな問題を起しているのではないでしょうか?

近いうちに、他の視点での「体罰」についても書こうと思います。

ジャーナリスト辛坊治郎氏

2013-02-09 18:14:11 | 小言
本来は、

このブログではあまり否定的な事を書きたくはないのですが、

ネットで日本のニュースを読んでいて、

その身勝手な言い分に黙っていられなかったので、

投稿します。

ご注意ください




YAHOOのネットニュースから


「犠牲者の実名報道」がなぜ必要か 辛坊氏が言及〈週刊朝日〉
dot. 2月7日(木)7時12分配信

 日本人10人が犠牲となったアルジェリアのテロ事件。大手メディアが犠牲者の名前を報じたが、ジャーナリストの辛坊治郎氏が「犠牲者の実名報道」がなぜ必要か、本質に迫る。

*  *  *
 アルジェリアのテロ事件の犠牲者の人生、残された家族の慟哭に接し、それを伝える新聞紙面を涙で濡らした人も少なくないだろう。しかしその一方で、メディア各社が政府に犠牲者の氏名公開を求める要望書を提出したことについて、「被害者のプライバシーは守られるべきである」という批判が一部ネット上で提示され、大手メディアの中で最初に犠牲者の名前を報じた朝日新聞などに少なからぬ批判の声が寄せられた。

 私は、一連の論争を聞いていて、メディアもネットの住民たちも、本質的な視点を欠いているのではないかと強く思う。

 犯罪被害者は社会的に保護されるべき存在だし、犠牲者本人、遺族のプライバシーは最大限守られなくてはならない。しかし、例えば、殺人事件の犠牲になったのが暴力団員か、警察官か、あるいは政治的スキャンダルにかかわりのある人物か等で、事件の様相は全く変わってくる。

 これを、「被害者のプライバシー」を盾に、警察が発表を「被害者A」とした場合に、市民の知る権利は守られるか? かつて多くの共産主義国でそうであったように、被害者名どころか、犯罪そのものが隠されたり、あるいは一定の政治的意図を持って犠牲者数が水増しされたりした場合でも、被害者が匿名のままでは、市民は真実にたどり着くことは不可能だ。

 なぜ、被害者のアイデンティティーが明らかにされなくてはならないか。市民は、「伝えられること」自体が辛い情報でも、社会の意思決定権者として、「真実」を入手できなくてはいけないということなのだ。だからこそ「伝える側」は、今ペンの先にある事実が本当に「報道価値」があることなのか、厳しく自省しなくてはいけないのだと思う。

(週刊朝日2013年2月15日号「甘辛ジャーナル」からの抜粋)


>例えば、殺人事件の犠牲になったのが暴力団員か、警察官か、あるいは政治的スキャンダルにかかわりのある人物か等で、事件の様相は全く変わってくる。
>犯罪そのものが隠されたり、あるいは一定の政治的意図を持って犠牲者数が水増しされたりした場合でも、被害者が匿名のままでは、市民は真実にたどり着くことは不可能だ。

この下りだけなら、私も賛成です。

しかし、これが「本質的な視点」ですか?

これが本質的な視点というのなら、

この辛坊氏の本質とは

「全ての事象には陰謀の【可能性】があり、報道はそれを暴くことができる【かも】しれないので、市民の知る権利の名の下に全ての事実を公表するべきである。そして、それは被害者のプライバシーより優先される」

ということになるのでは?

今回の実名報道は何かしら別の犯罪でも内在していたのですか?

実名報道したことにより何か陰謀でも暴けたのですか?

全ての事柄に於いて、

何かしらのチェック機能を果たしたいというのなら、

メディア側が実名を入手した時点で

各自精査すべきであり、

その結果、責任を持って報道すべきです。

情報を入手⇒犯罪に関わるか精査⇒関わるなら被害者へ説明及び説得⇒被害者の承認のもと公表

これなら私も大筋賛成です。

しかし、

「我々は知る権利の為に情報を【垂れ流しました】。あとは市民の皆さんの責任で意思決定してください」

なんて、無責任です。


>「伝える側」は、今ペンの先にある事実が本当に「報道価値」があることなのか、厳しく自省しなくてはいけないのだと思う

って、そういうことなのではないですか?

嘘をつくときは言葉の中に真実を多く含むべきだそうですが、

辛坊氏のこの発言は

被害者のみならず、本当のジャーナリズムさえ貶める

最悪の物だと私は思います

自然エネルギーを2割に

2011-05-26 21:05:44 | 小言
「20年代に自然エネルギーを2割」 菅首相が国際公約(朝日新聞) - goo ニュース

経済協力開発機構(OECD)で日本の菅首相が「公約」として「20年代に自然エネルギーを2割」を発表しました。

設置可能な屋根全てに太陽光パネルを設置することを目指すそうです。

方向性としては猫も賛成なのですが、

どうも言っていることが「小学生の絵日記レベル」に思えてなりません。

はたして、国家の代表が「公約」と言えるほどの具体性のある内容なのでしょうか

設置費用や電力の権利などの問題はもちろんのこと、

天気に左右される自然エネルギーで全体の2割を賄って平気なのでしょうか?

猫が少し考えただけでも、

・今以上の高発電力のパネル開発
・普及可能な低価格パネル
・家庭及び企業向けの高性能蓄電池の開発と普及
・悪天候時の代替エネルギー

など、多くの課題があると思うのです。

果たして、これだけの課題を残り20年弱でクリアできるのでしょうか?

ただ「発言しただけ」の様な気がしてなりません。

あまり悪口は言いたくありませんが、

もう、いい加減にして

尖閣映像流出

2010-11-11 16:55:51 | 小言
久しぶりにPCから投稿している猫です

さて、今回のお題は世間を騒がせている「尖閣映像流出」についてです。

昨日、犯人が逮捕され、新たな局面を見せているこの問題ですが、

私はどうにもしっくりとしません。

今、国会やマスコミで盛んに責任問題が議論され、

ネットでは犯人の擁護が叫ばれております。

しかし、そのどの意見にも全面肯定できないのです。

そもそも、今回の一連の事件の問題はなんなのでしょう。

機密資料の不正流失?
機密管理の不備?
中国船の衝突?
中国との領土問題?

どれもが問題なのですが、

犯人も国会もマスコミもネットも全て、その一部だけを取り上げているだけに感じるのです。

そこで、私の考える今回の事件とその問題点を述べようと思います。

まず、犯人はなぜ罪を犯したのか。

これは一貫して「政府の対応に不満があったから」です。

私もこの点では犯人に賛成です。

曖昧な態度で他国に好き勝手言われている現政権には憤りを感じます。

しかし、だからと言って現段階で犯人を擁護する気にはなれません。

なぜなら、例え如何なる大儀や正義があろうとも、罪は罪です。

そして、犯人は自首もしていなければ「罪の意識はない」と供述しています。

犯人は「罪を犯してでも現政権に訴えたい」ではなく、

「相手が悪いんだから、俺は悪くない」という気持ちでいるのです。

切腹覚悟で殿様に意見する老中ではなく、

仲間のために盗みを働くコソ泥に過ぎないのです。

犯人は決して大石内蔵助ではないのです。

だから、私は犯人にもそれを擁護するネットにも賛同できません。

では、管理責任問題なのでしょうか。

当然、管理者の責任もあります。

しかし、問題発生の原因は先ほども述べたように「政府の対応に対する不満」です。

つまり、管理責任を理由に誰かを更迭しても、

本質の解決にはならないのです。

その点で、国会の論争もマスコミの視点も、

私には見当違いに見えるのです。


私の今回の事件に関する見解は、

犯人は潔く罪を認め、

政府はその行為(直訴)をどの様に受け止め、

行動するのかを示すべきです。

つまり、尖閣問題をはじめとする外交問題にどの様に対応していくのか、

もう「粛々」や「適切」なんて曖昧な言葉で逃げてはいけません。

普天間から始まった民主政権の外交問題。

そろそろピリオドが近いのではないでしょうか。