野球小僧

真田昌幸

戦国時代~江戸時代初期の武将、大名。武田信玄さんに仕え、「攻め弾正」という異名を持った謀将・真田幸隆さんの三男。

武田家家臣の時代から信州上田を本拠地としており、信玄さんにして「我が眼がごとく」と言わしめ、豊臣秀吉さんには「表裏比興の者」と言われました。

しかし、徳川チームに対して二度も勝利し、1585年(天正13年)年度以降の徳川家康さんが最も恐れた男ランキング常連であり、この時代きっての武将と言われました。

1547年(天文16年。前の年に足利義輝さんが室町幕府13代将軍に就任)生まれ。主な同級生には、お市の方(織田信長さんの妹、浅井長政さん・柴田勝家さんの奥さん)、織田有楽斎さん(信長さんの実弟)、浅野長政さん(元大名)、蘆名盛興さん(元武将)らがいます。

幼いころに信玄さんの母方の一族の武藤さんの養子となって「武藤喜兵衛」と称し、足軽大将等を務めました。しかし、長篠の合戦(1575年(天正3年)に三河国長篠城(現;愛知県新城市長篠)をめぐり、織田信長・徳川家康連合チーム約38,000人と武田勝頼チーム約15,000人との間で勃発した戦い)で長兄の信綱さん、次兄の昌輝さんが亡くなったため、真田家に復帰して、名を「昌幸」に改めます。

武田家滅亡後、信州上田の独立リーグとして信長さん、家康さん、北条氏直さん、上杉景勝さんの勢力の中で幾度となくオーナーを変えながら、その勢力維持に務めました。

これは、当時の信州は越後(新潟)、甲斐(山梨)、駿河(静岡)、尾張(愛知)、美濃(岐阜)などに囲まれている要所とともに有力大名に囲まれており、絶えず勢力争いが起きていました。当時、信州を領地にする豪族、大名は時と状況に応じて主を代えており、生き残るすべとしていたからです。

■第一次上田城攻防戦

1585年(天正13年)、家康さんが武田家滅亡後の甲斐へ着陣して、昌幸さんに沼田領(現; 群馬県沼田市)を北条さん家へ返すように求めるが、昌幸さんは家康さんから与えられた領地ではないことを理由にして拒否。さらに家康さんと仲の悪かった景勝さんと仲良くなったため、家康さんがキレて昌幸さんに対して総攻撃を仕掛けます。徳川チームは実に7000人と迎え撃つ1200人の昌幸さんを本気で潰すつもりでやって来ました。

しかし、昌幸さんを甘く見ていたのか、上田城はビクともせず、奇襲や追撃戦で家康さんたちは総崩れになり、さらに昌幸さんが石川数正さんをたぶらかして秀吉さんに出奔させるなど嫌がらせした上に、次男の信繁さんを景勝さんに人質として送って、景勝さんも無理矢理巻き込みました。

最終的に死傷者21~40人(真田)対1,300~2,000人(徳川)と多大な損害を出した家康さんたちは完全撤退することになり、この合戦によって家康さんの昌幸さんに対する評価は高まり、本多忠勝さんの娘である小松姫さんを長男信之さんへ嫁がせて懐柔することとなりました。

その後、秀吉さんが天下統一をすると、景勝さんの家にいた信繁さんを秀吉さんの人質としました。さらに信之さんを家康さんの下へ出仕させて、家康さんとも仲良くしました。

こうした抜け目の無さから、秀吉さんに「表裏比興の者」と評されたと言います。

■第二次上田城攻防戦

1600年(慶長5年)に関ヶ原の戦いが勃発します。昌幸さんは信繁さんと西軍(石田三成チーム)、信之さんは東軍(家康チーム)に分かれます。これについては「東軍西軍どちらが勝っても真田家は存続する」という昌幸さんの狙いがあったとも言われています。

関ヶ原の戦いでは、家康チームは2チームあり、家康Aチームは東海道から、秀忠Bチームは中山道から関ヶ原方面に向かいました。そしてこの秀忠Bチームと昌幸さんとの間で第二次上田合戦が勃発します。

この時の秀忠Bチームは、本多正信さん、榊原康政さん、大久保忠隣さんら 約38,000人の大軍。一方の上田城籠城の昌幸さんは 約3,000人。

この戦における昌幸さんの目的は時間稼ぎ。上田城に一週間ほど釘付けし、途中で秀忠Bチームは上田城攻略を諦めて関ヶ原に向かいますが、時すでに遅し、信州木曽の馬籠にて関ヶ原の戦勝報告を受けました。この後、秀忠さんは家康さんにこっぴどく叱られ、「自分も15年前に負けたくせに」と不満を持ち、後々の徳川お家騒動のきっかけになったとか、ならないとかです。

「上田軍記」に拠れば二度に渡って痛い目に遭った家康さんは天下を手中に収めた後、昌幸さん、信繁さん父子に死罪、真田さん家の所領である信州上田の没収を言い渡しましたが、信幸さんと忠勝さんの助命嘆願によって、信州上田は信之さんに譲渡、昌幸と信繁さんは高野山の麓である九度山(当初は高野山に配流であったが、共に流された信繁さんが奥さんといた為、高野山の「女人禁制」の規則を配慮して麓の九度山に変更したという)に配流され、昌幸さんは大坂の陣が起こる直前の1611年(慶長16年)に九度山で波乱の生涯を閉じました(享年65)。

後日談として、昌幸さんの死後、九度山から脱出した信繁さんが大坂の陣にて大坂城に入城した際、昌幸さんはすでに亡くなってたにも関わらず、家康さんが思わず「親(昌幸)の方か、子(信繁)の方か」と体を震わして問いただしたという逸話が残っています。

「子(信繁)」とは別名「幸村」の事です。

家康さんがこの「子」によって、大坂冬の陣と夏の陣で、どのような目に合ったかはご存じのとおりです。

コメント一覧

まっくろくろすけ
eco坊主さん、こんばんは。
どうりで。大河ドラマ云々ののぼりなどが目についたのは、そういう訳ですね。

真田家って好きなのです。
「信長の野望」というゲームでは真田昌幸さんか幸村さんをいつも選びますから。

ちなみに、上田市は松本市と長野市を結んで三角形を作った頂点付近です。
eco坊主
おはようございます。

真田家できましたかぁ~
来年の大河で盛り上がっているんでしょうね!?
昌幸は草刈正雄さんでしたよね。
結構楽しみにしているんですよ~~
花燃ゆも面白いんですけど、視聴率が・・

上田市って松本と長野の中間あたりですよね?
中信でしたっけ?それとも東信?
来年は大河に御柱祭で大盛り上がり・・長野の時代ですね!!!

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