
仏教では「人は決して死なない」と説いている様な気がする。
もう少し踏み込んで言えば、「人を決して死なせはしない」という意味でもあろうか。
葬儀やご法事など、人の生死(生き死)の現場に携わっていると切にそう感じる時がある。
人はこの世に生を受けた以上、遅かれ早かれ必ず平等に死を迎える。
では、「決して死なない、死なせない」とは一体何を意味する言葉であろうか。
我々は、退職後の人生を「第二の人生」と呼ぶのであれば、死を迎えた後の故人の人生(!?)とは「第三の人生」とも呼びたい。
もちろんここで言う「第三の人生」とは、この世で過ごす人生を指して言うのでは決してない。
残された人たちの心の中で育まれる、いわば「亡き人への想い」に支えられる人生とも言える。
人は亡き人に想いを馳せる時、まるで生きているが如くの故人に接する自分がいる事に気付かされる。
命日の日などは、故人が生前好きだった食物を仏壇に供えたり、菩提寺で法事を営む時なども、故人が生前愛した花などを献華として持参する。
そこに無の存在と帰した故人の姿など何処にもない。
そこにはまさに生きているが如くの故人が存在しているのである。
言い換えれば、残された遺族の心の中に生き続ける故人の存在があるとも言える。
これを亡き人の「第三の人生」と呼ばずして何と呼ぼうか。
その意味を踏まえて言うならば、亡き人の「第三の人生」とは平等に訪れるものでは決してない。
なぜなら、そこには一つの条件が課せられるからだ。
悲しいかな、残された人たちの心の中からも、完全に「想い出」として消え去ってしまった時、故人は本当の意味で悲しい死を迎える。
亡き人が「第三の人生」を安らかに過ごさんためにも、故人に所縁の深い人たちの「想い」が不可欠となるのだ。
そういう意味で、亡き故人は残された人たちと共に生きているとも言えよう。合掌



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たしかゴッホなんかも「死人を死んだと思うまい。生ける命のある限り、死人は生き、死人は生きていくのだ」というようなことを書かれておりましたが。。。布教師様、ちょっとご質問です。
ある宗派では、亡くなった方は阿弥陀仏になるのか否かということがしばしば議論されます。また「没後作僧」という考え方をとる宗派もあります。いったい故人の葬儀を行ったご導師様にとって、亡き人はどのような存在として、その心の中に存在するようになるのでしょうか?
當寮へのご訪問、並びにコメントありがとうございます
ご紹介頂いたゴッホの言葉には、まさに今回の私の想いが集約されているものと感じました。大変参考になりました。ありがとうございます。
その後に指摘をなされている各宗派の考え方は、浄土宗系と曹洞宗の取る立場でありましょうか。
誤解を恐れずに言うのであれば、亡くなった人が阿弥陀様となるのか、作僧されて成仏したのかは、見送る側の私たちが決める問題だと思っています。
言うなれば、形而上学的な滅後の世界とは、私たちの「信」の部分でしか規定できないと考えるからです。
仏教の立場で言うなれば、死後の有無に関する議論は意味をなさないものであり、畢竟「無記」はその立場に拠るものだと考えます。
私が導師を勤める場合も、まずはその立場をご理解頂いてから葬儀を勤めるようにしています。
極論を言えば、喪主の方の「信」に対する納得がなければ、いくら厳かに葬儀を勤めたとしても故人は決して浮かばれないという事です。
ましてや、そのやり方に疑問や反感を抱くような状態であれば、勤める意味さえも喪失してしまう事になるでしょう。
もちろん時と場合によりますが、ご遺族の方にその「信」の部分が欠けている場合には、やんわりと他の送り方を勧める場合もございます。世間体だけで葬儀を執行しても、故人のためにはならないと考えるからです。
「信」の部分でしか規定できない滅後の世界とは、畢竟そういう世界観に支えられるものであり、そのような状況下において、科学的な判断基準はあまりにも意味をなさないものと考えます。
私個人としては、記事にも触れたように、亡くなった故人はご縁の深い方々の心の中に永遠に生き続けるものだと考えています。
息を引き取った瞬間や、荼毘に伏して遺骨となった瞬間に、生死(しょうじ)の際断がなされる訳では決してありません。
たとえご遺骨となられてからも、ご遺族の心の中に生き続ける故人は生前のままのお姿でしょうし、ご遺骨と化した故人を思い浮かべる人は皆無かと思われます。
その遺族と故人との別れの現場に、僧侶(導師)という身で携わるのであれば、その喪主の悲しみを組んだ上でしか葬儀というものは成り立ち得ないと考えます。
そういう意味では、我々僧侶の中にはご遺族の悲しみとともに故人が存在するのでありましょう。
P.S.
最後に、先に触れた阿弥陀様の議論、門外漢の私が敢えて答えるのであれば、ご遺族の安心(あんじん)がそこにあれば故人は阿弥陀様になれたのでしょうし、そこに安心(あんじん)がなければそこに阿弥陀様は存在しないものと考えます。
宗教として、それ以上の議論は意味をなさないものと考えますが如何でしょうか。
この度は、早速に、そして懇切なご返答有り難うございました。貴重な学びと感受の時をいただきましたこと重ねて御礼申し上げます。
>亡くなった人が阿弥陀様となるのか、作僧されて成仏>したのかは、見送る側の私たちが決める問題だと思っ>ています。・・・(中略)・・・言うなれば、形而上>学的な滅後の世界とは、私たちの「信」の部分でしか>規定できないと考えるからです。
私自身も布教師様のお考えに賛同致します。乱暴な言い方をすれば、宗教とは、ある意味科学的な判断基準によってその正しさが証明されたから信ぜられるものではなく、個人の「信」によってその個人にとっての「正しさ」というものが顕現するものでありましょうから。
実は、布教師様の文章を読みながら次のようなことを考えておりました。例えば、曹洞宗様のご葬儀では、亡き人に授戒をし、ご導師様のお弟子様(み仏のお弟子様)とした上で、亡き人は成仏へとつづくいわば「はるかなる仏道」へと晋まれるものとお聴き致します。
となれば、ご導師様の心中には、ご遺族の悲しみとともに故人が存在するのと同時に、ご葬儀を通じ、自らの弟子として、そして今後は共に「はるかなる仏道」を歩む一人の仏弟子として故人の姿が存在することもあるのではないか。また、ご導師様のお師匠様が授戒をし見送られた人々は、仏法の上ではご導師様の兄弟姉妹弟子として存在するともいえるわけですから、ご法事等では故人のご家族の方々とはまた違った立場からご導師様は故人を受け止めることもあるのだろうか、等々と考えていたものですから。お忙しい中、貴重なご教示をいただきましたこと改めて御礼申し上げます。
こちらこそ再びコメントありがとうございます
>乱暴な言い方をすれば、宗教とは、ある意味科学的な判断基準によってその正しさが証明されたから信ぜられるものではなく、個人の「信」によってその個人にとっての「正しさ」というものが顕現するものでありましょうから。
私も「乱暴な言い方をすれば」という前置きをしながら
これもまた乱暴な括りかもしれませんが、宗教と科学は交わり得ることはあっても、立つ位置が根本的に違うものと考えます。
これはもう是非の問題ではなく、まさしく「信」の部分に拠るところでありましょう。
>ご導師様の心中には、ご遺族の悲しみとともに故人が存在するのと同時に、ご葬儀を通じ、自らの弟子として、そして今後は共に「はるかなる仏道」を歩む一人の仏弟子として故人の姿が存在することもあるのではないか。また、ご導師様のお師匠様が授戒をし見送られた人々は、仏法の上ではご導師様の兄弟姉妹弟子として存在するともいえるわけですから、ご法事等では故人のご家族の方々とはまた違った立場からご導師様は故人を受け止めることもあるのだろうか、等々と考えていたものですから。
鋭い指摘ですね。正直、その視点は私に欠けていたかもしれません。
まさに角田泰隆師が標榜する「はるかなる仏道」の立場を、没後作僧における師資の関係に当てはめれば、我々の心の中に生き続ける弟子としての故人がいるという訳ですね。
大変参考になりました。
しかしながら、私個人の立場としては、葬儀とはあくまでも「故人と遺族」の関係より先立つものはないと考えております。
本来、私の立場でこのような事を言ってはいけないのかもしれませんが、いくら滅後の授戒を以て師資の関係が故人との間で成り立ったとしても、私にとってはあくまでも目の前の遺族あっての故人であり、その遺族と私との関係(菩提寺住職と檀家)を介しての故人の存在でしかありません。
もちろんこれは、生前のお付き合いの度合によって変わってくることは言うまでもありません。
もし、亡くなった故人が生前私から授戒を受けていたりとか、仏教への信仰を媒介とした特別な信頼関係を築いていた場合は別です。遺族ほどではないにしろ、やはり特別な感情を抱きながら払子を振ることは間違いありません。
戒法とはあくまでも生前に相続されるべきものであり、そこに遺族の悲しみが媒介するか否かで、私の中での「生前授戒」と「没後作僧」の線引きをしています。
極論を言えば、遺族の悲しみがそこにあるから、自分の中での「没後作僧」(滅後の授戒)の納得が得られている様な状態でもあります(この考え方はあくまでも私個人の立場であり、曹洞宗の没後作僧を代表する見解では決してありません。念のため……)。
仏教には「方便」という言葉がありますが、極論すれば「没後作僧」とは遺族の悲しみに主眼を置いた方便の儀式でもあると個人的に考えています。
もちろん中国の『清規』に基づく伝統的な喪法儀規でもあるのですが、やはりどこかで「生前授戒」との一線を画しておかなければならないものと考えます。
それこそ、「信」の部分があって初めて成り立つのが、滅後の授戒を採り入れた現行の葬儀法だと思います。
そういう意味でも、葬儀の場においては、私と故人の師資の関係よりも遺族の悲しみが先立つものと考えるのです。
話をかなり端折りますが、「嘘は方便」であっても「方便は嘘になってはいけない」という立場で葬儀を執行しています。
葬儀における没後作僧を嘘にするのか方便にするのかは、導師を勤める僧侶がどれだけ遺族の悲しみを組めるか、という部分に掛ってくるのではないでしょうか。
最後は、まとまりのないコメントで申し訳ありません
しかしながら、今回は大変有意義な問題提起を頂けたような気がします。本当にありがとうございました