
私は雨の日の暁天坐禅(朝の坐禅)が好きだ。
うちの寺には坐禅堂がないため、本堂の一室(東序室中)を坐禅堂と兼用している。
晴れた日の坐禅は、早朝と言えども農家のお檀家さんが訪ねてくることもあり、どことなく落ち着かない雰囲気で坐の時間を過ごしている。
また、早くから本堂に日が射し、今日一日の日天作務の予定など、あらゆる雑念が湧いてくる副作用もないことはない。
しかし、今朝のような雨降りの日の朝は、そういった来客の可能性も殆どなく、またいくら時が経とうとも本堂は薄暗く、非常にゆったりとした時間のなか暁天坐禅を楽しめるのだ。
老朽化が激しい本堂のため、雨の雫が地面に滴り落ちる音や、銅板の屋根に打ち付けられる雨音も直接耳に入ってくる。
しかし、その微妙とも言える喧噪も私にとっては非常に心地よい時間なのだ。
本来、坐中に雨音が気になるようでは半人前なのだろう。しかし、その半人前の自分を楽しむように時の流れに身を任せて坐る自分がいる。
雨音が気にならないと言っても、雨音そのものが消せる訳では決してない。その雨音にも囚われない境地を指して「気にならない」と評するのだ。であるならば、私の言う「心地よい」という境地も、衆生を坐悦に導く際の方便(教化の術)としてご海容いただけないものか

雨音に包まれる坐の時間は、我々にとって自然の営みを肌で感じる心地よい時間でもある。
どうか皆さんも、雨の日の坐禅に独自の楽しみを見出してみませんか?




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ようやく、秋を告げる雨音の中での坐禅、さぞかし心地よかったものと存じます。
これから、いよいよますますの好時節になりますね。
甘露の法雨を雨音に見出した次第です。
雨音が気になるようでは半人前ですが、その半人前の自覚をモチベーションに変えて何とか坐悦にひたっています(笑)