ばあばのよもやま話

大家族のばあばです。趣味は写真を楽しんでいます。
3世代と、世代間の物の見方や感じ方が最近気になっています。

植え込みの中の夏水仙。

2023-09-13 21:04:49 | 日記

 

  この夏水仙の花にも思い出がある。目の悪い母の大好きな花で、自宅の庭で、増えてくると、これを近所の神社の、裏口から少しずつ、足元の歩道のわきに植えていく。ささやかな母の楽しみ、もちろん許可を得てである。何年もかかって、本殿の近くまで植えて行ったものが、何十年も経ったある日に、この神社で見つけた。なんか母に会ったような、懐かしさを!感じた。母も旅立ち今は思い出の中で、、、

   

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

時代が変わりすぎて、目が回る。

2023-09-12 20:38:38 | 日記

   

  毎朝空を眺めながら、昔のことを思い出していることが多い。こんな雲に乗って、孫のところに行ったら、新幹線よりも早く、東京に着くだろうなとか、想像をしている。

 今の子供たちは自分のやりたいことをやる、という意思で自宅を出て、それなりの人生を生きていく。自分たちの子供の頃には、親の言うことを聞いて、自分は母親代わりに、弟や妹の面倒も見ながら、仕事もしたり、と、子供の頃は自分がということはなく、皆が仲良く親を大事にと努力をしていた。

 今は時代が変わり、迷惑にならないようにと、自分を抑えることも多い。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

抜糸の日の事。

2023-09-08 15:35:28 | 日記

 その後に日を改めて手術。小学生の私が立会人。「大丈夫だからと」。目の前でまつ毛の上を切りつまんで、「これが治れば見えるかも」と、怖いもの見たさで、立ち尽くしていた。終わってから金具の眼帯をしてくれて、母を電車で連れて帰りました。

 抜糸の日に眼帯を外して、「そうっと眼を開いてごらん」そう言われた母は、静かにそうっと眼を開けて、「ぼやッとしているけど、見える」と、私は母の顔を見て「見えるの」?と聞いた。「見えるけど、ぼーっとしているから」。その時の私はとても嬉しかったのを覚えている。今でも嬉しそうな母の顔を。帰りの電車の中で、幼い弟と妹の顔、どんな顔をするかしら。嬉しそうな母と想像しながら帰った。

 家について、家の裏で遊んでいた子たちが、「お帰り」と出て来た。「お母ちゃん」と泣きながら、淋しかったであろう。「片付けてこないと、おかあちゃんが、ツツかかると危ないからね」。声をかけて座敷に上がる。「帰って来た、帰って来た」と二人が母に、飛びついてきた。母が「ダメでしょ、かたずけておいで」というと「お母ちゃん見える」!と聞いた。そうっと眼帯を取って、顔をなでると、、「見ィえる、見える」と踊りだして喜んだ。どんなに嬉しかっただろうね。まだ二人とも幼稚園位だった。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

その後の事。

2023-09-07 13:23:16 | 日記

  母が眼医者に行くように,勧められて、日赤静岡病院に。叔母がそのころ耳鼻科にお勤めをしていた。だけど当時の眼科の先生の見立てでは、これは「1級の視力障害」と言われ治らないと、宣告をされて、二人で泣きながら駿府公園の、お堀端を歩きました。自分にはどうしていいのかわかりません。母の気落ちは如何ばかりかと、今もその時のことは、思い出そうとしても、想像もできませんでした。夜仕事から帰った父に報告をして、皆で泣いた。途方に暮れて、どうしたらいいのか、小学生の私には、行く末の事など考えることは出来ず、、、

 そのうちに市の方か,障害者の会からかは、分からないけど、連絡があり再診を受けることになり、祖母(母の親)から、「いろいろ探したら、清水の高良医院がいいようだ」との事で、母の手を引いて、電車で「桜が丘」まで行き、ホームから改札迄の、急な階段を手を引きながら、上って行き、人に聞きながら、到着をしてみて貰えましたが、「ひどいねえ」と言いながら「でもね、まつげを上げる手術をすれば、少し楽になるかも」と言われました。そのころの母の目は、両目とも、まつげが目を覆い、真っ赤でした」これでは痛かっただろうなと、帰りの電車を待つ間、涙が出て、出て仕方がなかった。

   

    

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小学校時代の事。

2023-09-01 20:49:08 | 日記

 復員をしてきた父には仕事が、大工さんで雨の日や、天気やいろんな事情から、月に半月ほどしか仕事がなくて、足りない分は母の内職代、祖父や、叔父さんや、腹違いの姉など、家族が多くて、母の苦労は並大抵のことでは、なかったかと今は思うけど、皆背一杯の仕事を探しながら、暮らしたが、6畳2間の家では狭くて、一組のお布団に二人で、自分は父の先妻の子(腹違いの姉)と寝ていた。足が触ったとか、布団を引っ張りっこしたりして、アルバイト先のパン屋さんから、貰ったパンをちぎってくれて,食べさせてくれたりした、楽しい思い出、ひばりの越後獅子の歌などを、教えてくれた。

 その姉は暫くして東京に出た 叔母さんを頼り家を出た。叔父さんも電車の車掌をやっていたけど、やはり東京に出て行った。その叔父は東映に入り京都撮影所に勤めた。お爺さんも病から亡くなり、家族は少なくなる。いま考えれば、狭い家に大勢で暮し、楽しかったことも多いけど、母にしたら苦労の連続だっただろう。

 母の目は、自分が小学校の、2年生になったころには、ほとんど見えなくなり,やにった目をお湯で拭いていたのを、思い出したが、それでも内職や頼まれ仕事で、お金に変えていた。内職の手伝いをしたり、近所のおばさんたちと,粘土を切り、学校に届けたりすることも、自分もリヤカーを押したり手伝う。夜はお茶の袋張りなど。母を助けた。この頃は弟や妹も増えている。兄弟の世話をしながら、学校、食事の支度を手伝いと自分の仕事も増えた。勉強する間はほとんどなし。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする