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一歩ずつ

視覚障害者の主婦です。ブログをとおして、皆さんとの出会いを大切に一歩ずつ、絆を深めたいと思っています。

感動と多くの涙の一万人第九

2010年12月06日 | 合唱
昨日は8月末から練習していた再結集「サントリー一万人の第九」が大阪城ホールで開かれました。

朝、8時30分に家を出て、幸い近くだったので順調に開場に到着。
今回、日曜日に私の前のクラスで練習されていて、お友達になった全盲の双子の親子ご家族にお会いできた。
一度だけ電話でゆっくりお話ししたが、それ以外は入れ替わりの時間でなかなかお話しできずじまいだった。
会場入り。民族大移動がおこなわれたが、私は幸い関係なく。

リハーサルが始まった。
発声練習、ジュピター、第九とお昼の休憩をはさんで、いよいよ本番。
リハーサルから感動ものだったが、本番はやっぱりまた違う迫力。
表現できない、これが1万人の合唱なんだと感泣した。

プログラムはワールドカップの日本代表の曲、Jupiter、威風堂々、第九の第三楽章に歌詞をつけ平原綾香さんが歌ったラブストーリー、ジョイフルジョイフル、そして第九第一楽章から第四楽章の合唱まですべて。最後にペンライトを持って蛍の光をみんなで歌い終了。
さすがに一日、トイレ以外動かないのは疲れた。
そして涙と感動の第九が終わり、打ち上げに。
一度、家に速攻で帰り、出直した。

半ビュッフェ方式で、前回の親睦会より人数も多かったせいか、とても移動が狭くて大変だった。
でもmixiで同じクラスアルトで最後のほうに知り合った友達が大半そばにいてくださり、色々助けていただいた。
友達も私も第九初参加。友達は親睦会も出られるのはじめてで不安に思われていたので私もご一緒におれて良かったと思う。
色々な方とお話しできた。前回の親睦会で知り合った方、その方を通じて知り合った方、いろんなかたちでマイミクになった方、トピ内でお世話になった方・・・普段お話しできない本当に多くの方と知り合いました。
皆さん、ありがとう♪

出会いと別れは不思議なもので、今回残念なこともあった。
私はこうやって健常者の皆さんのなかで、自然と誰かだけに負担をかけることなく、不自由な部分だけ気楽にヘルプして、助けれるときに助けれる人に構えることなく自然に支援していただくことを目標にいつも生きている。
でも今回、それが後半うまくいかなくなり、練習に通うのも最後はつらかった。
佐渡連も本番もあきらめようとまで考えた。
でも同じクラスの若い青年に佐渡連の日に背中を押してもらい、すべての練習、リハ、本番を終えることができた。
でも最後の最後まで、ある方には、この想いは届かなかった。
詳しい話しはこのブログでは書けないが、去る者は追わずだけ。

障害者にかぎったことではないが、人は一人では生きていけない。ましてや障害があるとなおさら。一人でも多くの仲間を作り、 「一歩ずつが困ってそうだから助けてあげよう」と自然に思ってもらえるような環境を私自身が作ってもらいたいのもあり、今回も幹事さんの足を引っ張りつつ(苦笑)名簿をさせていただいた。
できるときに、できることを、積極的にする。これも私のモットー。

第九からかなり話しがそれましたが、
最後に幹事のお二人に。 
本当にこんな大人数の幹事をいつもしてくださり、ありがとうございました。
これからも生きている限り、クビになるまでは(苦笑)名簿=一歩ずつを浸透させるために、がんばってお引き受けさせていただければと思います。

なんか昨日、皆さんと話していて、「初参加です!」と言ったら、驚いていた人が多かった(汗)正真正銘の(笑)初参加です!

ちなみに公式パンフレットにも掲載されていたみたい。
お恥ずかしいです(^^ゞ






一万人の第九初練習に参加して

2010年08月29日 | 合唱
今日、夢であった「サントリー1万人の第九」の初レッスンに参加してきました。
ガイドヘルパーさんにお願いしていた時間の30分早くにお迎えに来てもらい、余裕を持って会場に到着。良かった。予定通りに行っていたら、ロビーは受付の人でごった返していて長蛇の列。
受付を済ましたあとに、事務局の方に視覚障害者であるがゆえの不安や疑問点などを相談させていただいた。
電話ではあまり良い感触がなかったが、現地の責任者の方はとても快く対応してくださった。
やはりこれも総監督である、佐渡裕さんの方針でもあるのかなと。
佐渡裕さんといえば、あの全盲のピアニスト、辻井伸行さんと交流のある方。
そのような温かい総監督のもとで開催される「1万人の第九」。
老若男女、障害の有無にかかわらず、誰もが安心して安全に、一万人の声を一つにして第九を奏でられることでの、今回の細やかな配慮に感謝した。
私たちの前のクラスの練習が終わった。
しばらくすると会場入り。
中はクーラーはきいていたものの、やはり人数と熱気で暑かった。
準備をしているあいだに、あっという間に練習開始。
説明や先生の紹介などがあり、さて練習開始。
今回は一番メジャーな部分をしたので、私的には楽だった。
でも改めてちゃんとドイツ語の発音、そしてアルト音源を確認しながら、思い切り声を出して歌えた。
普段30人未満の合唱団で練習している私には一つ一つのパートの迫力にも感動した。
あっという間に休憩時間。
mixiのコミュニティに参加している人に会いたくて、指示があった黒板の場所に行ってみた。すると何人もの人が集まっていた。
その中で数名の方とお話ができた。今日、来た甲斐があった。
そして休憩後、引き続き練習をして、あっという間の2時間が終わった。

私は今回、これに初参加して本当に多くの意味で良かったと思っている。
それは第九を習得できるのもあるが、私が常に理想としている、健常者の中に障害者が参加していくことの意義。
私の考え、今まで見てきた障害者の姿。
もちろんすべての人に当てはまるわけではないし、私なんて足下にも及ばないぐらい健常者のなかで活躍している人はたくさんいてる。
しかし、視覚障害者団体のなかで、傷をなめあい、苦労を自慢して今の成果をアピールしたがる族、私は嫌なのだ。
だから私はそういう視覚障害者の団体には入っていない。
自ら、視覚障害者の中でも心身ともに自立できている人、自立しようとしている人しか、接触はしない方針。
障害者の権利を主張するのも大切だし、そういう存在の人も必要だとは思う。
そうではなくて、ただ障害者をかわいそう、特別扱いしてほしいと思っている人は嫌なのだ。
そういう意味で、私は自ら障害を隠すわけでもなく、武器にするわけでもなく、自然にありのままの自分を出して、それを受け入れてくれる、そういう仲間と出会いたいと思っている。
晴眼者のなかにはいっていくことは勇気がいる。
しかし今日も思い切って、それらしきmixi仲間の人たちに声をかけてみた。
わからないことはわからないので、視力やパソコンをどうやって使っているかなどを聞かれたが別に不快に思うことなく、正直に現状を伝えた。
そうやって交流をもてることにより、広く多くの世界が広がることを期待している。
そして障害があろうとなかろうと、同じ目標に向かって練習していくことの大切さ、意義を実感した。

来週以降も週1のペースで、12月5日までの本番練習がある。
主婦の私には家族に負担をかけるが、温かく送り出してくれる家族のためにも頑張って練習していきたい。

今日は本当に充実した有意義な一日だった。
今日、私と接触した、会話した皆さん、本当にありがとう♪
これからもよろしくお願いします。


作曲家、中田喜直

2010年08月01日 | 合唱
今日から8月ですね。
皆さん、これから夏の思い出を作られていくことでしょう。
「夏の思い出」といえば、中田喜直作曲の名曲がありますね。
亡くなられて10年経ちました。
今、合唱で多くの童謡、唱歌などを歌っている私にはちょっと懐かしい歌で、そして中田喜直さんに関する記事がYAMAHAに掲載されていたので、ご紹介します。

作曲家、中田喜直誕生(1923~2000)

1,000曲以上も作った、日本のシューベルト

 「ちいさい秋みつけた」「夏の思い出」など誰にでも愛される多くの名曲を残した、作曲家の中田喜直。「早春賦」の作曲家・中田章を父にもち、自然に音楽に親しんで育ちました。小学2年生のときからピアノを正式に習い、まもなく作曲を始めます。小学生時代の記念すべき第一作は、西条八十の詩「怪我」に曲をつけたものでした。その後、東京音楽学校(現・東京芸術大学)ピアノ科に進学。終戦後、1947年に歌曲集「六つの子どもの歌」を発表し、本格的に作曲の道に。20代後半には「夏の思い出」「雪の降るまちを」「めだかの学校」といった今なお愛唱される名曲を次々に生み出します。

 中田作品の素晴らしさは、日本語のニュアンスを生かした叙情的なメロディと、ハーモニーを重視した曲づくりにありました。「夏の思い出」も、尾瀬の美しい景色が目に浮かんでくる名曲ですが、彼は尾瀬を見たことがなかったのにスラスラと作曲できたそうです。ところが、そばで聴いていた母親に「ちょっとお粗末なんじゃないの?」と注意され、メロディを大幅に書き直した、というエピソードがあります。数ある作品の中で母親から注意されたのはこの1曲だけ。彼にとっては「母の思い出」とも言える、特別な曲だったのです。

 作曲活動以外に、日本童謡協会会長としても童謡の振興につとめ、またフェリス女学院大教授として長年教鞭をとりました。他に、手の小さい日本人や子供向けの、鍵盤の幅が狭いピアノの普及に尽力。大のたばこ嫌いで嫌煙運動にも精力的でした。彼の旺盛な創作意欲は生涯衰えることがなく、病床でもなお五線紙に向かい童謡を作りつづけたそうです。童謡や歌曲、合唱曲からピアノ曲まで1,000曲以上も作り、親しみやすい名曲を数多く残した中田喜直は、“日本のシューベルト”と言うにふさわしい作曲家でした。

(記事、以上)

小学校の頃などはこのような歌がよく教科書に掲載されていました。
今の教科書はだいぶ事情が変わっているようですが(汗)
ちょっと8月になり思いだした夏の歌でした。

楽聖ベートーヴェンの母親、マリア・マグダレーナ没(1746~1787)

2010年07月17日 | 合唱
昨日、第九の当落発表がありました。それにちなんで、今日はにベートーヴェンにまつわる話を見つけたので、ご紹介します。
今日は、楽聖ベートーヴェンの母親、マリア・マグダレーナ没(1746~1787)

(以下、記事)
「結婚生活は、悩みの連続よ!」

 身分や教養は高くないけれど、情が深く心優しい女性だったといわれるルードヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェンの母、マリア・マグダレーナ。旧姓をケフェリッヒといい、ドイツのエーレンブライトシュタインという町の葡萄酒製造業者(または宮廷料理長という説も)の家に生まれました。17歳で結婚した相手とほどなく死別。21歳のとき再婚したのがベートーヴェンの父となるヨハンでした。

 宮廷のテノール歌手だったヨハンは大の酒好きで、家庭をかえりみなかったので家計はいつも火の車。マリアは体が弱いのに5男2女を産み、うち4人を亡くしています。貧しさに耐えながら3人の息子をとても可愛がり、面倒見のよい母親だったようです。少年ルードヴィッヒの演奏旅行に船で出かけたおり、寒かったのでスカートで彼の足をくるんで暖めた、というエピソードが残っています。でも笑顔は少なく、「結婚なんてしないほうがいいわ。はじめはちょっと楽しいけれど、あとは悩みの連続だから」と、隣人にこぼしていたとか。とはいえ彼女の誕生日には、家族そろって陽気なダンスパーティーを開いていたといいますから、けっして暗いことばかりではなかったようです。

 そんなマリアが肺結核のため40歳で亡くなったとき、ルードヴィッヒはまだ16歳。彼の悲しみは深く、「母の懐かしい名を呼ぶことができ、それが母に聞こえた頃、私以上に幸福な者はいなかった」とある手紙に書いているほどです。以後ますます酒に溺れる父に代わり、彼が宮廷オルガニストなどの仕事で一家を支えるようになっていくのでした。

 マリアがルードヴィッヒを生み育てたボンの家は現在、世界中からたくさんの見学者が訪れる記念館「ベートーヴェン・ハウス」となっていて、彼女はそこから徒歩10分ほどの墓地で眠っています。「私にとって本当によい、愛すべき母親であり、最良の友でした」というルードヴィッヒの暖かい言葉を墓碑に刻まれて‥‥。なお、マリアの実家では今も“ベートーヴェン・ワイン”を作っているそうです。
(記事、以上)

これまで正直、このような話などは興味がありませんでした(^_^;
でもクラシックの素晴らしさ、そして第九を歌うことで、また違う視線で音楽だけでない、その音楽ができた経緯や背景など、少しずつ自分の中に吸収していきながら、第九も歌っていけたらと思います。

サントリー1万人の第九に当選

2010年07月16日 | 合唱
今日、12月5日に大阪城ホールでおこなわれる、「サントリー1万人の第九」への当選が決まった。
朝から時計の音声をしょっちゅう確認しては、12時になると同時に当落のページを開けた。やったぁ~\(^O^)/
第二希望だったけれど、日曜日の練習。

これに、ミクシィで知り合った友だちと一緒に行くことになりました(≧∀≦)
二人ともこのイベントには初参加。
そしてまだ、この方ともお会いしたことがありません。
マイミクを私がはじめた当初から、密にやり取りをしていて、やっとやっとお会いできる日が実現できることになりました♪
第九に当選したと同時に、そのお友達とお会いできることが嬉しくて今から楽しみです。

練習は8月末から、1週だけない週がありますが、それ以外は毎週日曜日練習。
まあ第九はどないかなるやろうと、ほとんど心配していない私(^_^;

その方にはこれから移動面や視覚での情報面で色々助けて頂かなければなりませんが、また私にできることは私が積極的にするということで、これから二人で12月5日の本番まで仲良く楽しく練習していければと思います♪

ミクシィをはじめて、こうやってお会いできること、本当にネットって危険なことも多いし、嫌なこともあります。でも顔も名前も知らない方とこうやって会えるまでに信頼関係を築け、ネットを離れて現実世界で同じ時間を楽しく共有できる素晴らしさ。

私が理想に描いていた、障害の有無関係なく、障害者は障害を理由に不必要に甘えることなく、健常者は構えることなく自然に障害者への理解が深まること。
第九だけではない、素晴らしい多くの意味での夢の実現に今から楽しみです。

皆さんも温かく見守って応援してくださいね(#^.^#)

合唱に見学に来られた方

2010年05月28日 | 合唱
昨日は合唱練習だった。
実は昨日、ミクシィコミュニティーの合唱で私がお声をかけた方が見学に来られた。
火曜日に連絡があって昨日まで先生との連絡などでバタバタしていた。
でも反面楽しみではあった。
お仕事のご都合で遅刻されるかもしれないという旨も先生にお伝えし、彼女からお聞きしていたこれまでの合唱経歴などもメールで先生にお伝えしておいた。
先生からは「さすが中村さん、そんなんでスカウトするのハイテクやなぁ~」と褒められているのか、「パソコンで遊んでる間に歌のほうももっと頑張りや!」というメッセージなのかはさだかではなかったが・・・(笑)
ぎりぎりに到着された。周囲の団員の方には「インターネットで私がスカウトしてん」とだけ話していて、練習開始。
私の横があいていたので、そこに座っていただいた。
彼女はもともと話をお聞きするに、ソプラノを希望されていて第九でアルトを一度歌われている。
私はアルトの新人劣等生でいつもベテランアルトさんの横でマイクを傾けながら音取りを録音させてもらっている。
先週と今週その方がお休みで、もう一人お隣の方の声を聴きながら歌っていたのだが・・・。その見学に来られた彼女は経験があるだけに楽譜も読めて、早速声を出されていた。
たまにアルトだけの時も声は出されていたが、混声のときはソプラノを歌っていた。
やめて~!!! そうでなくても私はまだまだ未熟で歌によってはソプラノにつられてしまう。だからいつもテノール側に座っているのに、真横でソプラノを歌われたときは「勘弁してよ~!」
休憩時間に先生への挨拶を促し、そのあと席に戻ってこられたので感想を聞いた。
差し障りのない返事だったが、これからまだ2カ所ほど見学に行かれるらしい。
また先生への返事とは別に私にも率直な感想を聞かせてもらうことで昨日はお別れした。
帰り道、いつものメンバーで途中の駅まで帰宅。
みんなが口をそろえて言っていること、それはうちの合唱団は雰囲気は一番の自慢。
もちろん私をのぞいて皆さん実力はあるが、昨日も先生も含め笑いが絶えない練習だった。私は他の所の経験がないが、やはり場所によってはピリピリしているらしい。
そういえば私は見学二日後に新年会に誘われて2次会まで行くほど、すっかり中に溶け込んでいた。
彼女が何を基準に選ぶかによって選択肢は変わってくる。
私は歌はさておいて、団員の方々の温かい人間性で今の合唱団にずっといてたい。

「リンゴの唄」(1903年 サトウハチロウ誕生)

2010年05月23日 | 合唱
今日は、『リンゴの唄』のサトウハチロー誕生(1903)

FMNHKを聴いていると、ときたま流れる曲。

「暗い時代だから、明るい歌が欲しいと思って」、戦後まもない頃、庶民から圧倒的支持を受けて愛唱された『リンゴの唄』の作詞家はサトウハチロー。
赤いリンゴと青空の明るい対比が、人々のすさんだ心を癒した。
同曲は映画『そよ風』(1945年10月11日封切)の挿入歌。
ラジオの公開録音で、並木路子はリンゴを配りながら歌ったといわれている。
リンゴは闇市で1個5円、巡査の初任給60円の時代だったようだ。

これが私の知っている一番、古い歌。
と言っても実際に生まれていたわけではないが、この歌を耳にするたびに戦争での悲惨さ、復興への道のり、そしてせめて歌だけでも明るい歌が欲しいと願う庶民の気持ちが手に取るようにわかる。

今度の発表会では歌わないが、「宵待草」や「カチューシャの唄」「ゴンドラの唄」などを最近、練習した。
正直、このあたりの世界は知らなかった。
夫(50代)は知っていた。
合唱で歌うと難しい歌ではあるが、歌詞一つ一つ見ていると、「恋」や「乙女」という言葉がよく出てくる。
この時代、恋愛しか楽しみがなかったのだろうか。
恋する乙女の切ない心情。
今どきの歌も良い歌が多いが、こうやって改めて昔の曲を勉強していると時代背景が目に浮かんでくる。

「1万人の第九」に応募するにあたり

2010年05月21日 | 合唱
数日前に年末におこなわれる「1万人の第九」の詳細がアップされた。
これまでも興味がなかったといえばウソになるが、今年は合唱団に入団したこと、来年6月に先生がご指導されているもう一つの合唱団が主催の「第九を歌う会」でも私たちもかりだされるので、どのみち覚えないといけないなら今年参加してみようかなと思った。
でも1万人、人混みが苦手な私にはクラクラっときそうな人数と迫力。
逆にいえば少しぐらい間違ってもわからない(笑)そんな大規模なコンサート。
今年のゲストは誰だろう・・・去年は槇原敬之さんでした(行きたかったなぁ・・・)
そして私にとっては参加に応募はインターネットから簡単にできるのだが、誰と行こうかを考えていた。身近に意外といてないものだし、合唱団のメンバーはすでにもうイヤというぐらい練習させられているから、今さらだと思うし・・・ということで、ガイドヘルパーさんにお願いするついでにお誘いしようと何人かの方にお声をかけたのですが「ガイドはするけれど歌うのは勘弁させて!」と。
さてどうしたものかと最後は一人で参加しようと。
でも問題点がいくつか。まず中での移動の問題、トイレや本番の更衣室など、とにかく知らない場所での一人での移動がわからない私にはそのあたりが不安だった。
そして第九のお問い合わせ事務局に相談してみた。
結論だけいうと、本番ガイドさんが一緒に参加しないなら横にいることは不可能だが(そんなこと当たり前)移動やトイレ、更衣などのためにガイドさんが中に入ることは許可してくれた。別にウロウロすることもないし、場所まで連れて行ってもらったら歌うのは私自身。その回答を聞いて、心置きなく6月からの申込みができそうだ。
こういう心配を今からしないといけないのも悲しい話だが、障害者が健常者の中で一緒に第九という一つの音楽を歌うことに意義があると思っている。
暗譜をしないといけない私には難しい課題だが、あえて挑戦したい。

童謡、唱歌の温かさ

2010年05月09日 | 合唱
今度の定期演奏会に向けて、たくさんの曲を練習しているが、その中に「混声合唱のための童謡メドレー いつの日か 源田俊一郎編曲」がある。

http://www.fureai.or.jp/~t-mura/itsunohika.html

この中には13曲収録されていて、今先輩の音を拾って自己練習に励んでいる。
正直、数曲は知らなかった。
それと主線は知っていても、アルトパートの私には一から覚えないといけない。
ある意味、知らない曲のほうが主線にひきずられることがないので良い場合もある。

これまで学校を卒業してから、このような童謡、唱歌などに出会う機会がなかった。
あらためて、こうやって聴いていると、練習していると本当に昔の素朴な音楽の温かみを実感する。

今の小学校などは卒業式に「蛍の光」も「仰げば尊し」なども歌わないらしい。
今時の歌を歌うことが多く、保護者が隣席しても一緒に卒業というムードにはなれないらしい。
昔は「仰げば尊し」を歌って、女の子はみんな泣いたものだ。
卒業式前にはサイン帳をお互いに書いていたものだが、時代の流れとともに、そういう風習もなくなっているらしい。

30年近い月日でこんなに時代が変わるとは、その頃誰が想像しただろうか。

確かに今の卒業ソングに限らず、いい歌はいっぱいある。
でも昔から歌われてきた歌も大事にしたいなと思うのは私だけだろうか。

ブラームスの過去

2010年05月07日 | 合唱
母の日を前に、音楽に関する雑学を見つけました。
ドイツの作曲家、ヨハネス・ブラームスです。
1833~1897 64歳の生涯だったブラームスの意外な素顔。
ブラームスと言えば有名な曲では「ブラームスの子守歌」があります。


Yamaha Corporationより、以下抜粋

ブラームスはマザコンだった!?

 バッハやベートーヴェンと並び称せられ、19世紀後半のドイツ音楽界をワーグナー=リスト派と二分した大作曲家ブラームスは、その作品に似て、地味で峻厳、社交嫌いで恋愛下手な性格でした。

 それは厳格な母親の影響かも知れません。両親が結婚したのは父24歳、母41歳の時。ブラームスが生まれたのはその3年後ですから母は44歳、当時としては高齢出産もいいところです。この母は、若い母親の愛情というより、祖母のような威厳と教育的配慮でもって幼いブラームスに接しました。彼がいつも若い乙女のハートを射止め損ね、14歳も年上のクララ・シューマンに憧れを持ち続けたのも、また初期のブラームスの作品がいやに年寄りじみていて、反対に晩年の作品になるほど若やいでくるのもこれが原因だ、という説もあります。

 20歳の頃、リストの超絶技巧の演奏を目の前で聴かされながら居眠りして親友ヨアヒムを激怒させ、晩年のシューマンに見出されてその死後未亡人クララを慕い続けたブラームス。1859年にピアノ協奏曲第1番を初演するものの不評で、作曲家として芽が出ませんでした。そんな彼が名声を確立するのは、1868年に「ドイツ・レクイエム」の初演が大成功を収めてからですが、この曲には、1865年に76歳で亡くなった老母への思いが込められているといわれています。

 1870年代後半に「ハイドンの主題による変奏曲」(1874)、交響曲第1番(1876完成)、同第2番(1877)、ヴァイオリン協奏曲(1878)、「大学祝典序曲」(1880)、ピアノ協奏曲第2番(1879-81)など立て続けに名作を発表した彼は、1880年以降はさらに円熟して、人生の秋を感じさせる交響曲第3番(1883)、交響曲第4番(1884-85)、クラリネット五重奏曲(1891)といった作品群を残します。しかし最後まで伴侶には恵まれず、クララ・シューマンが1896年に亡くなると、その後を追うようにして1897年に息を引き取るのです。ブラームスは常に亡き母につながる母性を追い続けたのかも知れません。

(以上)

久しぶりにブラームスのCDを聴いてみようかなと思いました。