クロ騎士物語

某画像掲示板画像レスラー派生SS集(試行)

わたしってかなりアレっぽくみえるっぽくて

2014-07-19 00:53:51 | Weblog
 例えば,とある学校のとあるクラスでイジメが行われる瞬間を想定してみよう。
 この際,君は誰が犠牲者になるのかを予め予見はできない。何故なら,クラスの構成員についての情報を持たないからだ。

 では,幾人かについての情報を開示しよう。

 成績がとりわけ不出来な者がいる(彼は「ばか」なのだ)。
 太って動作の鈍い者がいる(「デブ」で「ノロマ」だ)。
 毎朝,寝癖を髪につけてくる者がいる(「生活習慣がよろしくない」,或いはさらに進んで「不潔」なのだ)。
 ハーフだ(肌の色が異なる)。

 以上,イジメの対象として選ばれそうな属性を数例挙げてみた。他にも例を挙げることができるだろう。クラス全員について何かしらの“欠陥”を挙げることもできるだろう。何故なら,完全に「平均的」な人は存在せず,誰しも,いずれ何らか平均からの逸脱の印をその身に帯びているからだ。

 例えば,「成績が良い」という一見プラスの属性も,平均の見地から見れば「ばか」と同様に基準からの逸脱である―過剰である。
 なぜ成績が良いか? ああ,それは先生におべっかをつかっているからだ!と考える・曲解する余地がある。してみると,彼は「ずるい」のだ!
 そこまで悪意に曲解しないでも,ほかのマイナス属性によって説明づけることができる。成績の良い子は,本の虫かもしれない。やや「体力に劣り」,「気弱」であるかもしれない。

 ではイジメを始めよう―では,誰を?
 ここで気づくことだろう,この「誰」は,典型的(原則的)には単数,一人である。イジメ行為が特に集中する者は一人なのだ。

 そして誰か一人の犠牲者を選定する=排除を行うと,その次の瞬間,その排除は初めから合理的にそうであったかのように偽装される。つまり,排除を合理化するのにふさわしい物語を付与される。
 あるいは,合理性をすり抜けて,自然に・皮膚感覚的に「そぅ」であるように,私的に・詩的に説明される。そして,その説明が「尤もだ」と信じられる限りの時空に,この排除の物語は流通する(※1)。

 この哀れな状況に陥った彼/彼女の罪を数えてみよう。排除の理由はいくつもあり得る。

“奴は臭いから”(風呂に入れ!)
“彼奴は仕事ができないから”(俺の指導に従わない,俺の指導を聞かない!)
“此奴はバカだから”(教えても無駄だ!)
“ひとの気持を理解しない,空気がよめない”(何らかの精神的欠陥でもあるんだろう!)

 この当の標的がこの文脈から脱しようとすると

“逃げるのか”(無能なだけでなく,根性なしだ!)

 こうして
 その場にいれば能力を否定され,
 逃れようとすれば人格を否定され,
 留まることを決すれば能力と人格とを否定される
 ―さらに排除の論理は周到になる。

 逃げようとした根性なしだから,何か技術を持つために・身につけるために根性を出したことがないのは明らかだ,無能の理由はこの根性の無さに因る。さあ,此奴に根性を入れてやろう!
 ―逃げるなよ。この根性込めを受けることが,お前が今後生きていくための必須条件だ。少し大事なことを教えてやる,お前のためを思ってやってやる,逃げるなよ!

 このサイクルには,幾つかの終わりがありえる。

 最も望ましい?のは,この当人の大化けにある。蔑視等々に耐え,遂に主力級の能力を発揮する。


 ―ところで,全く組織的でなく,ましてや教育的でもない小言やなんかは,私の能力養成の役に立っていませんからね? 
 個々の発言としては組織的ではなくとも,理論的であったり反省的であったりした,折に触れての言葉は有益でしたけど,そういうことを言えるひとはデキるひとでしたからね?


 悲劇的には,この者の人格的破綻か,または自殺(つまり精神的破滅か,肉体的破滅か)に終わる。つまり「だけどこのままじゃ「生きジゴク」になっちゃうよ」(昭和61年2月1日,鹿川裕史)に典型的な反応だ。生き地獄になっちゃったので,死ぬか壊れるか,殺されるかしか陥り先がない。

 この際,「イジメに打ち勝て」というのは実際上不可能な要請である。イジメの積極的プレイヤーが4~6人だとしても,この圧力に打ち勝つのは一人の人間には相当な無理である。ましてや消極的同意者,局外者らのつくる「空気」がそこにある。

 そこでこの状況の大逆転の契機は,「別個の系統のルール」の導入にでも求めることになろう。

 問題が学校内のイジメであれば,転校がその一つだ。これは“ゲーム板をひっくり返す”行為に例えることができる(※2)。

 ところでここで,転校に意義を認めない見解が,相当の妥当性を持ってあり得る。何故なら転校自体によっては“その当人の資質”は変容しないからだ。

 例えば「バカだから(~学校の成績が悪いから)」犠牲者となったのならば,テストの出来・成績は,転校しても変わらない(※3)。

 そういうわけで,苛められる側には,そう選ばれるに至った何らかの属性があることは認めざるを得ない。この点を捉えて,「でも苛められるほうも悪いんですよ」と世間では言う。

 しかしこの「過失」「欠点」は,わずかなものであって―頭悪い,空気読めない,云々―なるほどそれは空気のように滑らかな日常をささくれ立たせる過失,罪ではあろうが,やはり全人格・生命をもって償うべき大罪ではない。

 ならばいじめをする側は免罪されるのか? ―されるとしても,いじめられた側の「犯した」微罪に相当するほどに過ぎないだろう。

 いじめをする側は問答無用で悪い。

 ではなぜ悪いのだろうか?

 暴力だから悪いのか? それが実力行使という意味なら,悪事を働きつつある者・生徒を平手で叩いて制止するのも悪いことになる(※4)。

 イジメ(等の暴力)が悪いのは,まず,その対象者の成長の機会を奪うところにある。
 さらに,不要に多大なエネルギーをイジメ行為に浪費することで,苛める当人の成長の機会をも奪うことにもある。

 双方に悪く,利益なく,これでどうして「よい」と言えるだろうか。
 これは利害得失の観点からみた場合だ。

 他方,倫理的な面からみてみよう。
 イジメ,イビリをするのはなぜかと問えば,一応,それが快楽を齎すから,と纏めることができるかと思われる(もしそれが苦痛そのものなら,なぜすることがあるだろう?)。これはしかし,積極的な快楽ではないこともある。ただの気晴らしであるかもしれない。それどころか,“ただなんとなく”であるかもしれない。

 君は,その辺の道路脇等で,数人で立ち話をしている人々を観察してみればいい。4~5人の,彼らは常に皆が話しているわけではない。1人ほどは一時,話の流れから外れて手持無沙汰にしていることがある。彼はふと,足元に蟻をみつけ―段差のうえから,車道へけり落としたり,踏みつぶしたりすることがある。
 これは別に,彼に特に目覚ましい喜びを与えるわけではない。ただの暇つぶしだ。正確に蟻だけを蹴ることができるかどうか,ちょっと試してみたとか,その程度のことに過ぎない。

 そのように,“ただなんとなく”,ひとをいびることもあるのだ,おそらく。


 というか『イジメというのはそういうものなのです!』と熱烈に主張されても,あの,私だってそれなりに覚えはありますし,そういうのは数多あるイジメの形態の典型的な一種に過ぎないので,自分の経験をもとにイジメの定義を方向づけようとされましても,話が一面的になりましてですね,ええ。嫌がらせ事例疑い例(※教育現場的用語)の状況を把握しようという話の時にですね,あなたの経験談を熱烈に話されましてもですね。私が自分の経験を話さないからって,私が苛められっこの気持ちを理解しないひとだということは結論されないのでありましてですね。


 閑話休題。
 こういう場合,相手は蟻ではなく,人間なのだ。
 人間を―気晴らしなり,なんなりの―道具として使用するのは,よくないことだ。我々は相互に,手段としてではなく,目的として取り扱われるべき,尊厳を持った存在として認めあうべきだから。

 そう,イジメは,他者を使い捨ての道具としてすりつぶす点で倫理的に悪なのだ。


 さてそうして,いじめ行為が停止したとき,そこに残っているのは,イジメの標的に選ばれてしまった,廃棄可能な資源としての「私」である。イジメの標的として格好な程度に,可塑性に富む彼の精神は加工されてしまった。そうしてそこにわだかまっている。今この瞬間にいじめっ子が消滅してしまったとしてもだ。


 世間のいう“ありのままの自分を受け入れて”云々が微妙に嘘くさいのはここだ。
 イジメの犠牲者の『私』は,そこにそのように存在しているだけで銀河聖天使だというわけではない。まったくない。
 可哀想な犠牲者ではある。しかしいかにも“苛められっこオーラ”を帯びた,どうも冴えない『私』である。
 この『私』は,はたして,そのままそうであるだけで受け入れられるべき者なのだろうか。いや,この『私』は社会から排除されていたわけで,すると社会へ再統合される必要があるだろう。

 この際,恐らく,なにか“立ち直る”ことが必要なのだろう。だが立ち直るための資源がそこにはない。学校での学習は阻害されていることがしばしばで,そこは安心な学習場所ではない。放課の時間は逃亡するか捕えられるかで費やされ,社会的スキルを学ぶなり,自習するなりのプラスアップの可能性もない。してみると,“立ち直り”でさえ,資源に富んだ者に許された贅沢なのだ。


 学校の生徒の場合は,この“立ち直り”のための資源を調達することが難しい。彼らには実際には移動の自由がない。経済的に自立していない。だから自発的な学校の異動などは相当に困難だ。

 他方,大人―社会人―の場合は多少,事情が異なる。経済的自立が一応果たされたので,社内のイジメから自発的に逃れることができる。そうして“立ち直り”のための,時間的資源を確保することができる(真っ当な部類の会社なら,失業保険もあるだろうし,多少の金銭的自由も確保できる)。そうして,彼の(充分な)活動を阻害している要素を摘出し,対応することができるだろう。そのためにはまず精神の柔軟性,可塑性を取り戻す必要がある―「まず,休め」。そして我が精神と,それを包む人間関係と,物質的諸要素を分析して,対案を練り上げるのだ。


 で,まあ。諸要素を勘案して自分のスキルを投入するポイントを見極め―結果,トラブルシューターとして頭角をあらわしたりしてるっぽい私の昨今があるのだったり。

 まーわたしったら、外見からしてふわふわしてゆらゆらしてあうあういってて、かなりアレっぽいのね。でもいったん仕事にはいると…ってことが続いちゃってそろそろいろいろ逃げにくくー。仕事を詰め込まれてあうあうになっちゃうのです。なので無能扱いされてるひとは今のうちだぞっと思ったりする。今のうちにスキルをつけるのだいろいろ考えて作戦立てていつでも発動できるようにしておくのだー。

 無能扱いはとってもありがたいことのひとつなのだ、って、『越天の空』をうんうん頷きながら読んでたりしたよ。あうあう。





※1 安倍現首相が“子供っぽい”ことの証明に,イチゴをスプーン/フォークで半分に切ったことを例示した“評論家”が存在する。恐らくこの―私は「珍妙な」と言いたくなる―理屈は,ある範囲の人々には流通するのだろう。

※2 会社員の場合は転職に相当する。但し,転校と異なる条件が多々あるので,パラレルとは言えない。

※3 転校生の美少女/美少年が温かく迎え入れられたとして,その“おつむが残念”なことが早々に明らかになった場合,流石に恋の熱を冷ます向きがあろう。

※4 体罰,実力行使が正当化されるのは,結果としてプラスポイントが大きかった場合だろう。不良少年が金八先生の一撃で更生した場合,これは良い指導,と言われ得る。但しこの場合も,実力行使否定論者は,ことばによる説得が可能であることで留保を付けなければならない。

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