冴木はきゅっ,と,うつむいたまま両こぶしを握って言った,「―そう,ですか」。彼女は少し,涙ぐんでいたのかもしれない。
いや,涙ぐんでいたのだ。実際,「よく,わかりました―とっても!」と顔を上げた彼女の目には涙が浮かんでいた。
はっきり激怒もしていたけど。
「そういう―ことだったのねッ!」
でもって,なんでワタシが睨まれなきゃいけないのかなとかなんとか。
さすがボス,小娘の激怒程度には慌てず騒がす,
「そういうこととはどんなこと?」
ひょうひょうと言ってのける。口元には笑みを浮かべたままだ。
「お分かりでは? ないですか?」
冴木は,長身ゆえの見下ろすような視線で言う。まー,これは『見下げている』のかもしんない。
「さて?」
東洋人の笑みが似合う,「えらいさん」。ワタシの知る限り,社会的な「エラさ」のランクが一定程度以上になると,みんなこんな笑みが得意になる。
「―失礼しますッ!」,たからんは憤然と踵を返して教授室を出ようとする。
その背中に,「冴木君」とボス。
瞬間,立ち止まったたからの背中に「君には期待してるよ」。
さらに,扉のノブに手をかけて,親の仇の襟首をのように捻るたからに,さらに「次も,ね」。するとたからは,心もち大きく扉を開いて―
バタンッ!
文字通り,扉を叩きつけて,去って行った。
その間,ワタシはわたわたと踊るしかなかったわけで。
事情もわからず,あうあうなわけで。
「どういうことです?」
「あれ,おわかりでない?」
「おわかりでないです,ので,このとおり,わたわたわた,と」
ボスは,『あれ? 君は事情を知ったうえで仕込んできたんじゃないの?』という顔をするんだけど,知らないですそんなの,という気持ちを両手の不思議な踊りでアピール。
「―君ね,せっかく正規助手なんだから,ってゆーか,研究室の事情,掌握してなさいよ,君」,ボスはややあきれたような風に言う。
「職務怠慢と言われるよ,それ」。
「えーでもー何を掌握してろってー」
「冴木君。彼女,母子家庭」
「はい?」
「―君のところに個人調書行ってたでしょー…あのね,だからね」
なんてことかというとだ。
ボスの言う「ただの夢」「優しい子」って,冴木さんにばっちり当てはまるのだったり。
母子家庭とか,そゆ事情の家庭は比較的収入水準が低くなる傾向がある。勿論進学が厳しくなり,その結果として,端的には,将来受け取れる給料の期待値は総じて統計的に下がる。
ところが,こういう動向には「親の収入レベル」のほかに,ジェンダー的な要素が介入するのである。
まあ,とはいっても,「高収入の親+好成績の男子」「高収入の親+好成績の女子」の場合,動向に差異はそう見られない。
けれども―言いにくいのだけども―「低収入の親+低成績の男子」と「低収入の親+低成績の女子」のところにあからさまな差異が出る。前者の場合,初任給と将来の収入のよさを期待して無理にも大学に行かそうとするが,後者の場合,高卒に留まる場合が多い。女子は(早期に)結婚して家計を離れ,投資のリターンをさほど期待できないからだ。
むしろ「さっさと片付く」か,玉の輿にでも乗ってくれれば御の字だ。
では「低収入の親+好成績の男子」と「低収入の親+好成績の女子」の間では? ―奨学金を借りれば進学できるにも関わらず,この場合の女子でも寧ろ高卒に留め,「さっさと片付ける」ほうが家計負担は少ない,それゆえにこの戦略を採る家庭が一定数出る。
―「学びたい」と思っていても。
―「男女平等です」って教えられていても。
ぼんくら男子が私学に押し込まれている一方で,より高収入の男子の嫁になって実家により多額の仕送りを送り込ませるべく―媚を売らざるを得ない,売らせられる,「家事手伝い」の,「良妻賢母」になる資質をもった,女子。
他のなにかに,なりえた資質をもった女子。
「―まあ,ジェンダー学の基礎的了解事項だけど。その観点からみて,冴木さんのところは,彼女自身が出来の好い学生で,その分,進学も可能だった―ワケ。だけど,流石に家計が続かず耐えきらず,落としどころとして《社会人院生》枠+《研究助手》カードで,《学業継続》と《生活費補助》を実現するというウルトラCをかました僕を賞賛すべきだと思うよ古手君」
「…その政治力は,正直,本気で尊敬します…」
それで冴木さんを研究室に留め学業を続けさせ,かつ給料を得させて家族の生活に(それなりに)資せるようにしたという。いやもう,よく事務さんやら教授会やら,あちこち誤魔化したもんだと。
「あのね? 単純にごまかし,だましが通じる相手じゃないんだよー?」
―実際,むこうだっておバカじゃないので。詐欺やだましなんか,ろくろく通じやしません。
「各方面を納得させる実績を叩き出して,はじめて問題少なく通る無理なんだからね?」
ちなみに,不始末などやったが最後,延々贖罪をさせられます(※実例展開中)。他にも贖罪候補生が何人かいて,まあ,大変よねえ。
「…で,まあ,さっきの話に戻って―そんな『夢の欠片の実現形』,いまゆったよーな,えぐいジェンダー論の体現者が海外出張して―ああ,僕が稼いできた外部資金によるので,尊敬してくれていいよ古手君―,より厳しい現実を目の当たりにしてきたわけでね,彼女」
自らを鑑み,自分の人生行路を鑑み,現地の彼らの状況を鑑みれば―
彼女のような「優しい子」は,
自分の力を揮って「みんな」を救いたくなるんじゃないか。
「をを。なるほど。そうだと思いますね,ええ」
ほんとうの意味での「みんな」を救うなんて,革命でもしなきゃ,無理。
自分が本当に救いたい,救いたかった「みんな」を救うなんてできない。
でも,誰かを救うことができるのなら。
そのチャンスが目の前にあるのなら。
そりゃあ,『君の人生の全てを犠牲にしろ』っていうならしり込みするさ。でも,ちょっとした工夫で,ちょっとした手間で,ちょっとした犠牲で何かができるなら―!
「冴木君,お姉さんがいるんだってね。聞いたこと,ある?」
「…はい…」
―アンタ,あたしと違って,そんなに成績いいんだから! 大学行きなさい! あたしはいいから! 大学院? 行きなさい! だって,だって…アンタは,なにかに,なれるんだから!
「…いいお姉さんみたいですね」
「妹の犠牲になるくらいにはねー」
軽くいいやがる。
鬼か,こいつ。
「で。そんな背景をもった娘を,フラグまたはトラウマもしくはトラップの山に送り込んだのが僕」
「鬼ですね」
「そんな僕の助手が君」
「手先ですね」
「まさしくその通り」
「をう」
ぽん。
「薄皮をはぐようにいろんなことが順次わかりかけてきましたよ」
「うむ。常識的に考えて,僕は君を冴木君をハメるために送り込んだものと判断される。寧ろ最初から知っておけというか,知らずにここまで上手くやれるというのもスゴイ」
「だから,たからさんは今頃…」
『―開放的(笑)なバスルームで,覗かれないようにってバスタオルで隠し合って―!』
『―日焼け止めを放り投げてもらって,で,キャッチ失敗して苦笑いしたりして―!!』
『虫除けスプレーをかけ合ったりして―!!!』
『帰りの空港で,売店のアクセサリを一緒にみてまわって,記念にってお揃いのブレスレットを買ってみたり…!!!!』
「―そんな,心かよわす思い出も,全部全部,じつは全部,自分をこのプロジェクトに縛り付けるための計算された罠,演技だったんだって,古手君に不信感を持っているに違いないです」
『―私が! 拒否できないこと,知ってて…あの人たちのために働いちゃうこと,知ってて―罠にハメたんだっ!!!』
「あああああたからさあああああんんんんっっ!!!」
駆け出そうとする私に,
「あー無理,無理。彼女の個人情報を閲覧可能な君が,『誤解です』って言って信じてもらえると思う?」
「確実に無理っ!」
「全部の事情を知ったうえで,私の作戦の手先になったんだって考えるのが妥当なんじゃないかなー?」
「けれど事実に反しますっ!!」
「でも合理的かつ有力な推測の一つ」
「間違いなくその通りですぅううううっ?!」
ぺったん。
状況が,私の処理能力,オーバーしちゃって。
腰が抜けて座りこんじゃってさ。
「あー」
「うー」
「あぅー」
無意味な唸り声なんか,あげてみちゃったりしてさ。
「なんですか,発情期の猫のような声を出して」
「そのセクハラ発言はスルーしてあげますから,教えてくださいよ」
「なにを?」
「…わたし,どうしましょ?」
途方に暮れて口にしてはみるのだけど,ボスは,「まあ,仲良くやってよ」と,言わずと知れた基本方針をさらりというだけなのだったり。
言われなくても仲良くやりたいわい。
…しかし…さて…。……どうやって仲直りしようかなあ……。
参考文献
東京大学大学院教育学研究科・大学経営・政策研究センター 「高校生の進路と親の年収の関連について」2009年7月31日(PDF)
小林美津江 「格差と子どもの育ち~家庭の経済状況が与える影響~」『立法と調査』2009.11 No.298(PDF)
藤村正司 「なぜ女子の大学進学率は低いのか? ―愛情とお金の間―」『広島大学 高等教育研究開発センター 大学論集』第43集(2011年度)2012.3(PDF)
いや,涙ぐんでいたのだ。実際,「よく,わかりました―とっても!」と顔を上げた彼女の目には涙が浮かんでいた。
はっきり激怒もしていたけど。
「そういう―ことだったのねッ!」
でもって,なんでワタシが睨まれなきゃいけないのかなとかなんとか。
古手さんとボスの素敵な日常―ハメわざ―
さすがボス,小娘の激怒程度には慌てず騒がす,
「そういうこととはどんなこと?」
ひょうひょうと言ってのける。口元には笑みを浮かべたままだ。
「お分かりでは? ないですか?」
冴木は,長身ゆえの見下ろすような視線で言う。まー,これは『見下げている』のかもしんない。
「さて?」
東洋人の笑みが似合う,「えらいさん」。ワタシの知る限り,社会的な「エラさ」のランクが一定程度以上になると,みんなこんな笑みが得意になる。
「―失礼しますッ!」,たからんは憤然と踵を返して教授室を出ようとする。
その背中に,「冴木君」とボス。
瞬間,立ち止まったたからの背中に「君には期待してるよ」。
さらに,扉のノブに手をかけて,親の仇の襟首をのように捻るたからに,さらに「次も,ね」。するとたからは,心もち大きく扉を開いて―
バタンッ!
文字通り,扉を叩きつけて,去って行った。
その間,ワタシはわたわたと踊るしかなかったわけで。
事情もわからず,あうあうなわけで。
「どういうことです?」
「あれ,おわかりでない?」
「おわかりでないです,ので,このとおり,わたわたわた,と」
ボスは,『あれ? 君は事情を知ったうえで仕込んできたんじゃないの?』という顔をするんだけど,知らないですそんなの,という気持ちを両手の不思議な踊りでアピール。
「―君ね,せっかく正規助手なんだから,ってゆーか,研究室の事情,掌握してなさいよ,君」,ボスはややあきれたような風に言う。
「職務怠慢と言われるよ,それ」。
「えーでもー何を掌握してろってー」
「冴木君。彼女,母子家庭」
「はい?」
「―君のところに個人調書行ってたでしょー…あのね,だからね」
なんてことかというとだ。
ボスの言う「ただの夢」「優しい子」って,冴木さんにばっちり当てはまるのだったり。
母子家庭とか,そゆ事情の家庭は比較的収入水準が低くなる傾向がある。勿論進学が厳しくなり,その結果として,端的には,将来受け取れる給料の期待値は総じて統計的に下がる。
ところが,こういう動向には「親の収入レベル」のほかに,ジェンダー的な要素が介入するのである。
まあ,とはいっても,「高収入の親+好成績の男子」「高収入の親+好成績の女子」の場合,動向に差異はそう見られない。
けれども―言いにくいのだけども―「低収入の親+低成績の男子」と「低収入の親+低成績の女子」のところにあからさまな差異が出る。前者の場合,初任給と将来の収入のよさを期待して無理にも大学に行かそうとするが,後者の場合,高卒に留まる場合が多い。女子は(早期に)結婚して家計を離れ,投資のリターンをさほど期待できないからだ。
むしろ「さっさと片付く」か,玉の輿にでも乗ってくれれば御の字だ。
では「低収入の親+好成績の男子」と「低収入の親+好成績の女子」の間では? ―奨学金を借りれば進学できるにも関わらず,この場合の女子でも寧ろ高卒に留め,「さっさと片付ける」ほうが家計負担は少ない,それゆえにこの戦略を採る家庭が一定数出る。
―「学びたい」と思っていても。
―「男女平等です」って教えられていても。
ぼんくら男子が私学に押し込まれている一方で,より高収入の男子の嫁になって実家により多額の仕送りを送り込ませるべく―媚を売らざるを得ない,売らせられる,「家事手伝い」の,「良妻賢母」になる資質をもった,女子。
他のなにかに,なりえた資質をもった女子。
「―まあ,ジェンダー学の基礎的了解事項だけど。その観点からみて,冴木さんのところは,彼女自身が出来の好い学生で,その分,進学も可能だった―ワケ。だけど,流石に家計が続かず耐えきらず,落としどころとして《社会人院生》枠+《研究助手》カードで,《学業継続》と《生活費補助》を実現するというウルトラCをかました僕を賞賛すべきだと思うよ古手君」
「…その政治力は,正直,本気で尊敬します…」
それで冴木さんを研究室に留め学業を続けさせ,かつ給料を得させて家族の生活に(それなりに)資せるようにしたという。いやもう,よく事務さんやら教授会やら,あちこち誤魔化したもんだと。
「あのね? 単純にごまかし,だましが通じる相手じゃないんだよー?」
―実際,むこうだっておバカじゃないので。詐欺やだましなんか,ろくろく通じやしません。
「各方面を納得させる実績を叩き出して,はじめて問題少なく通る無理なんだからね?」
ちなみに,不始末などやったが最後,延々贖罪をさせられます(※実例展開中)。他にも贖罪候補生が何人かいて,まあ,大変よねえ。
「…で,まあ,さっきの話に戻って―そんな『夢の欠片の実現形』,いまゆったよーな,えぐいジェンダー論の体現者が海外出張して―ああ,僕が稼いできた外部資金によるので,尊敬してくれていいよ古手君―,より厳しい現実を目の当たりにしてきたわけでね,彼女」
自らを鑑み,自分の人生行路を鑑み,現地の彼らの状況を鑑みれば―
彼女のような「優しい子」は,
自分の力を揮って「みんな」を救いたくなるんじゃないか。
「をを。なるほど。そうだと思いますね,ええ」
ほんとうの意味での「みんな」を救うなんて,革命でもしなきゃ,無理。
自分が本当に救いたい,救いたかった「みんな」を救うなんてできない。
でも,誰かを救うことができるのなら。
そのチャンスが目の前にあるのなら。
そりゃあ,『君の人生の全てを犠牲にしろ』っていうならしり込みするさ。でも,ちょっとした工夫で,ちょっとした手間で,ちょっとした犠牲で何かができるなら―!
「冴木君,お姉さんがいるんだってね。聞いたこと,ある?」
「…はい…」
―アンタ,あたしと違って,そんなに成績いいんだから! 大学行きなさい! あたしはいいから! 大学院? 行きなさい! だって,だって…アンタは,なにかに,なれるんだから!
「…いいお姉さんみたいですね」
「妹の犠牲になるくらいにはねー」
軽くいいやがる。
鬼か,こいつ。
「で。そんな背景をもった娘を,フラグまたはトラウマもしくはトラップの山に送り込んだのが僕」
「鬼ですね」
「そんな僕の助手が君」
「手先ですね」
「まさしくその通り」
「をう」
ぽん。
「薄皮をはぐようにいろんなことが順次わかりかけてきましたよ」
「うむ。常識的に考えて,僕は君を冴木君をハメるために送り込んだものと判断される。寧ろ最初から知っておけというか,知らずにここまで上手くやれるというのもスゴイ」
「だから,たからさんは今頃…」
『―開放的(笑)なバスルームで,覗かれないようにってバスタオルで隠し合って―!』
『―日焼け止めを放り投げてもらって,で,キャッチ失敗して苦笑いしたりして―!!』
『虫除けスプレーをかけ合ったりして―!!!』
『帰りの空港で,売店のアクセサリを一緒にみてまわって,記念にってお揃いのブレスレットを買ってみたり…!!!!』
「―そんな,心かよわす思い出も,全部全部,じつは全部,自分をこのプロジェクトに縛り付けるための計算された罠,演技だったんだって,古手君に不信感を持っているに違いないです」
『―私が! 拒否できないこと,知ってて…あの人たちのために働いちゃうこと,知ってて―罠にハメたんだっ!!!』
「あああああたからさあああああんんんんっっ!!!」
駆け出そうとする私に,
「あー無理,無理。彼女の個人情報を閲覧可能な君が,『誤解です』って言って信じてもらえると思う?」
「確実に無理っ!」
「全部の事情を知ったうえで,私の作戦の手先になったんだって考えるのが妥当なんじゃないかなー?」
「けれど事実に反しますっ!!」
「でも合理的かつ有力な推測の一つ」
「間違いなくその通りですぅううううっ?!」
ぺったん。
状況が,私の処理能力,オーバーしちゃって。
腰が抜けて座りこんじゃってさ。
「あー」
「うー」
「あぅー」
無意味な唸り声なんか,あげてみちゃったりしてさ。
「なんですか,発情期の猫のような声を出して」
「そのセクハラ発言はスルーしてあげますから,教えてくださいよ」
「なにを?」
「…わたし,どうしましょ?」
途方に暮れて口にしてはみるのだけど,ボスは,「まあ,仲良くやってよ」と,言わずと知れた基本方針をさらりというだけなのだったり。
言われなくても仲良くやりたいわい。
…しかし…さて…。……どうやって仲直りしようかなあ……。
参考文献
東京大学大学院教育学研究科・大学経営・政策研究センター 「高校生の進路と親の年収の関連について」2009年7月31日(PDF)
小林美津江 「格差と子どもの育ち~家庭の経済状況が与える影響~」『立法と調査』2009.11 No.298(PDF)
藤村正司 「なぜ女子の大学進学率は低いのか? ―愛情とお金の間―」『広島大学 高等教育研究開発センター 大学論集』第43集(2011年度)2012.3(PDF)
DeNA創業者の南場智子氏が、「女性活用」を斬る」(http://business.nikkeibp.co.jp/article/interview/20130819/252395/)日野 なおみ 2013年8月26日(月)