blueな日々

( Art で逢いましょう)

何もしたくない?

2006年11月29日 | 2006~奇妙な

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その空間が、時間の経過を示していた。日々が着実に
過去に消えていた。その間に、私は確実に駄目になり、
横着にある意味で厚かましく不機嫌に、人知れず沈降
してゆく矛盾と欺瞞の塊である。救いようがないのだ。
春の頃の色彩のある小さな眺め。夏には無数のセミが
鳴きつづけた。そして秋きの終わり。何がが失われて
しまった、あるいは空っぽになってしまいそうな風景。
私は仕方ない?ことだが自分の内面を外界に見ている。
………
その日も雨の朝。月曜日。私は何もしたくないままに、
自分の顔を見られないでいる。殺意を抱きそうなほど
自身を今、軽蔑しているのだから。唾棄すべきは自己
の存在である。顕在化しはじめた虚ろな真の姿がある。
NHKのドキュメンタリィ番組『世紀を刻んだ歌~明日
に架ける橋・賛美歌になった愛の歌』を見たので私は、
自分の中に幾分さめた心と同時に、くすぶりつづける
炎の赤い色も見た。情熱も希望も消え去ることはあり
えないのだが、日々と自身の内部で生じる重圧に打ち
のめされ、私はいろいろと時間をかけて見失ってゆく。
深夜、ポール・サイモンの歌を仕事部屋で聴いていた。
冷え込んでいたが寒さは苦にならなかった。赤い炎が
私の内観に応えて、何らかの熱を産みだしていたのだ。

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パソコンに入れているのは彼のふたつのアルバムだけ。
ある友人からアナルログ~テープをデジタル化させる
機器を年内だけ借りているので、たくさん持っている
カセットテープから厳選して、好きな音楽のみを転送
したいと思う~パソコン=Macの容量が気になるから。
………
昨日は火曜日。私はどこにいるのだろうか。確認する
ために外に出てみた。何千回か、足を動かしてみたが、
自分の行方がわからない。1時間経って、また1時間
が経過したが、どこをどう歩いたかさえも記憶がない。
いい加減、さまよい歩くのをやめて、いつものように
図書館と古書店へ向った。本を眺め手に取るだけでも、
私は幾分は、歪んだものではあっても生を実感できる
かもしれない。救いを見いだせるかもしれないなどと。
図書館には、リクエストしていた本が8冊、準備でき
ていた。ミステリィ作品と犯罪・事件関連のノンフィ
クションである。館内は閑散としていた。はやすぎる
暖房に私はのぼせぎみ。体温調整もままならないのだ。

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古書店では小さな発見や~読んでみたい見知らぬ作家
の本を見つけた、コミックを立ち読みする若者たちの
~内面はさておき、表情の均一さに、いい知れぬ不安
を感じたりも。本は買わなかった。厳しい月末ゆえに。
………
そして今日。私は何もしたくない、のではなく、今は、
できないのだ。心身の不調は、自分で考えているより
重いものなのかもしれない。撞着?するが、肯定的で
楽天的な私の存在の基本、いい変えれば、かなり凡庸
で無責任な私の姿勢や認識が、もともと深刻ではない
問題を、なんとなく複雑化させているのかもしれない。
しかし不調は事実だ~私は危機のただ中にいるのかも。
昨日は空いちめんがすべて、濃淡のある汚れた灰色で
おおわれていた。今日は快晴である。光がそこにある。
じれったい日々である。あやふやな生であるからこそ、
死も変に甘い匂いをさせている。私は不活性な自殺者
であるのかもしれない。優柔不断の未行為者?である。
「積極的」の反対語が、頭の中から出てこない。


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