blueな日々

( Art で逢いましょう)

ハルキゲニア

2006年09月03日 | 2006~奇妙な

E42p

それは、まぼろしとも呼ばれている。
朝だったか夜だったか、いつ見たのか、記憶は消えたが、
テレビでひさしぶりに、カンブリア紀の生物たちを見た。

ハルキゲニアはその生態が謎だという。わずかに化石が
残っているにすぎない。奇妙な姿をどうにかしのばせる。
しかし、上下も前後も、つまりどちらが頭でどちらが尾
なのかさえ不明。不思議な形態の生き物。絶滅している。

まぼろしのイメージ。私は自分の姿を連想した。
社会に適応できそうもない、賛否が極端に分かれている、
そして、消えいりそうな自分。君が私を、ハルキゲニア
と呼んでも、あながち間違いではない。

『まぼろし夢の少年』なんて芝居をやったこともあった。
ずっと昔のこと。脚本は私が書いた。20歳前後の頃か?
田舎で上演した。この芝居は短い上演時間で、わずかな
スペースの舞台で演じることができた芝居。コンパクト
にまとめたのだ。私も出演した。少年の役。今もどこか、
町の片隅で、芝居小屋に灯がともり、素朴な命を持った
者たちが演技をつづけている。そんな、まぼろしを見る
時がある。もう、どこにもない情景。私たちの歴史。

昨日、ある友人のブログに素晴らしい写真が掲載された。
ビルの黒いシルエットに切り取られた、その空も私には
ある種のまぼろしに見える。別のハルキゲニアが浮かん
でいても何の不思議もない。奇妙な、夕暮れの雲たちと、
そのシュールな空を見る友人。不思議な気持ちがある。

ハルキゲニアについては書籍などにも、たぶんに想像も
まじえて、現在までに判明したことなどが書かれている。
『ワンダフル・ライフ』(S.J.グールド)がおもしろい。

0時をすぎた。日曜日になった。
この何日か、寝つきが悪くなりかけている。睡眠不足も
つづいている。希望と不安とが交錯した時間もまた私を
やるせなくさせている。重い身体と夢幻のごとき自己に。
何かが欠けている。何かがたりない、何かを忘れている。
落ちつけない、ゆううつな日々。まぼろしに追われる私。

他者が見れば、私はすでに病気なのだろう。
そうであっても、治療を拒むわけではないが、このまま
でいたい気持ちも根強くある。このまぼろしのイメージ
こそが、私、私自身かもしれないから。


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