blueな日々

( Art で逢いましょう)

彼女の死

2007年01月10日 | NEWS

G49p

彼女の写真を掲載していいものかどうか迷ったが、目の
部分だけなら許されるかもしれないと、私は勝手に納得
することにした。報道を聞いて、彼女の個性的な容姿や
目的に向い努力する生き方、そして生命が、また無惨に
も断ち切られてしまったことが、私も悲しくて、やりき
れなく、この何日かは、実は今も、彼女の死が象徴する
ものを見ようとしている。考えようとしている。

………
12月30日の夜に、NHK教育で「ETV特集 2006年夏~戦場
からの報告~レバノン・パレスチナ」を、わずかに見た。
空爆されて死亡した多くのレバノンの人々。そんな中で、
道路に放置されたワゴン車からは、無惨にも破壊された
男性の遺体が映し出された。テレビでの、表現の限界に
迫ったともいえる、残酷な映像だった。以下、その瞬間
に私が考えたこと、そして改めて別の日に再考したこと。

死も赤裸々に、すべての死の現実を、何も隠すことなく、
子供たちにも、そして大人になりきれない大人たちにも、
見せるべきではないか。個人の成長と、社会への参加は、
人が産まれ生きるだけでは、決してありえない。時には
厳しい時にはやさしい、しつけや教育や啓蒙などが人に
は必要なのだ。死というものには、その姿には、グロテ
スクさもはかなさも崇高さもある。人にかかわる多くを
象徴する、だれもがやがて迎える、絶対的な事実である。
目をそらしていては、いつまでたっても人は、あるべき
姿にも、希望ある存在にも、なりえないだろう。そして
死以外の、人間の世界で起こりえるすべても、無条件に
公開するべきである。何ひとつ例外なく。などと考えた。

人の、世界の、現実に存在する姿を、たとえそれが目を
覆いたくなるものであっても、隠すことなく、人に示さ
なければ、人は、人というものの意味を、人が持つ存在
の根本を、善悪などを、決して理解できないだろう。

以上は、私の中に定着した考えではない。さらなる観察
や思考が必要になるだろう。しかし何ともやりきれない
人間の世界である。私ももちろん例外ではありえないし。

………
人の争いと死を、自分自身のこともふくめて考えていた。
そんな時に事件は起きた。兄が妹を、彼女を殺害した後、
切断して自宅に隠していたもの。続報を聞くたび、その
猟奇的な側面より、犯人の内面より、家族の関係性より、
今回は、失われた彼女の生命の、消えた希望が、私には
悲しく迫ってくる。改めて、人の命のはかなさを、生存
の不確かさを困難さを、それが他者から奪われたもので
あるからこそ、いたたまれぬ思いで、感じている。

彼女は、短大に通いながら、芸能事務所に所属して女優
を目指していたらしい。端役で、映画への出演もあった。
高峯駆~彼女の芸名、彼女自身の公式ブログは、事件の
影響で、その結果、管理者により表示が制限されていた。
ネットで、何ページか、彼女が書いた記事を見つけたが、
私は読むことができなかった。数枚の彼女の写真を見て
いただけだった。その目が、その視線が、私にも何かを
語っているような気がしてならない。ぜひ聞きたいが。

………
彼女はもう自身の成長を感じることも、夢を見ることも
できない。無に還って行ったのだから。私はやがて彼女
にサヨナラをいうしかない。多くの人が、人生のはじま
りに、あるいは途上に、また終盤にも、理不尽にも消滅
させられている。殺人や不正行為など、これらが永遠に
変わらざる人間の世界であり、人間の実在であり、社会
の真実であるなら、私自身も無力ゆえ、どこか山の中に
逃げ出して、そう遠くない死ぬ日まで、孤独に、迷いの
ままに生きていたい。これもまた私の現実逃避や迷走感
ではあるが。人はこの世に産まれたのに、何故、人生を
まっとうできない、少なからぬ人たちがいるのか、理解
できない私でもある。争いごとは、決してなくならない
だろうが、人が人を殺すことは、多くの場合、人の理性
や助けなどで、本当は、止めることが可能なはずである。

人は人の、それぞれの内面にある、本来は誰もが持って
いる、暖かいものを忘れている。そうならざるをえない
現実があるのだが、それは言い訳でしかないともいえる。

NHKの番組のことは、その現実の混迷と困難さは、別の
日に詳しく私に書けるものなら、また書きたいと思うが、
どちらも殺人である。長くつづく争いでの、そして犯罪
での、被害者にとって、破壊された男性にとって、切断
された彼女にとって、突然の人の死、自分の死、という
事実である。数十億人の中、ふたりだけの死ではあるが、
私は我が身の大切な部分が失われた気がしている。不遜
な意識かもしれないが、そんな喪失感もあるのだ。


2 コメント

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ポールマッカートニーは (j)
2007-01-11 22:02:26
ポールマッカートニーは
ピカソが亡くなったとき
彼はもう(お酒)を飲めない
だから、自分のために飲もう、とか
なんとか歌っていたねえ
レニーゼルウェガー主演の映画では
母が死んだあと、母は(今ここにある)綺麗な花を
愛でることはできない、とベースになった小説にある
ともあれ
ブルーさんは自死を卑怯といったようなことが
あったが
私はわかる
友人は生き恥をかき続けるくらいなら
と言った
私の生は恥ではないが
自信の非力に絶望することは、絶対的に感じる
もちろん、明日になれば
別のにこやかな話題が提供され
どうってことはないさ、という気持ちになれるが
生がおよそ社会的でない以上
社会とはあくまでも便宜上の世界
国家も同じ
会社が組織ではなく、単なる個人の集まりに
すぎないように
であれば
やはり生は常に個人的
家族が傍にいれば
ジョーズの主人公が、回りから非難されているとき
小さな息子にハグをしてくれと静かに頼んだように
なんとか生きていける気にはなるかもしれない
が、その個人が社会や会社で生きている以上
社会や会社が実際はどんなにちっぽけな意味や
意義しかもたないはずで
生きがいなどは、別の内面にあったとしても
自死は生まれる
私も本当に疲れてしまった
非力を恥じるが、なによりも飽きてしまった
ジュリアン
明後日は4時起きで上京、とんでもなくきつい
ミーティングがあるが
そんなことはあまり気にしていない
自らの場の回りに対して声高になじり続ける
ことに飽きてしまった
なんども這い上がろうとしているが
限界かもしれない
重要なのは反省、内省、そして自覚なのだが
人は回りに理由を求めたがる
それがなんとしても許しがたい
たとえ会社員であっても
そういう意味では宗教家が似合っていると
いつも思う、私は
返信する
以下は、私の身勝手な「意見」かもしれないので。 (blueroad)
2007-01-12 11:31:03
以下は、私の身勝手な「意見」かもしれないので。
………
以前にも書いた記憶があるが、あなたはそろそろ、
仕事をリタイヤして、個人の生を生きるべきでは
ないのか。生活は、金銭的な面は、そう心配ない
と思うのだが。ビジネスの~少なくとも私の考え
では~非現実で非個性の活動は、あなたのような、
ものを考える人間には、感じる人間には、つらい
ものだと、私は思う。あなたのことを心配する。
返信する

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