少女は登校前に朝食を食べていた。
自宅の台所。母親と二人で。
父親は去年から単身赴任のため遠方に別居中で、
少女は母親と二人で暮らしていた。
兄弟や姉妹はいない。
母親は食べながら左の胸、
正確にいうと左側胸部の一部を、右手で押さえていた。
辛そうに見える。
「お母さん、痛い?」
少女は母親を気遣って聞いてみた。
冷たそうだ、と同級生からいつも噂されてはいるが、
これくらいのことは口にすることはできる。
「ちょっと痛いけど、大丈夫」
母親は左胸を押さえながら答えた。
食事がなかなか進まない様子からは、
あまり大丈夫そうには見えない。
「この前、病院に行ったんだっけ?」
少女は母親に再び聞いた。
母親が左胸を押さえだしたのは先週からだった。
症状が気になった母親は病院で医師の診察を受けていた。
「心電図やレントゲン検査では異常はなかったし、
症状からは肋間神経痛の可能性が高いって、
循環器科の先生はいってた・・・」
母親は辛そうな表情のまま話した。
「一応は狭心症や不整脈がないか調べましょうって、
それで外来検査をいくつか予約して来たんだけど・・・」
医師の説明によると、
心臓の発作ではなくて肋間神経痛ならば、
たとえ痛みは辛くても命に別状はないし心配ないそうだ。
少女は母親似だった。
外見が若い頃の母親にそっくりだとよくいわれる。
つまり、
母親も学生時代は周囲から敬遠されがちなタイプの、
冷たそうな雰囲気だったらしい。
朝の台所でテーブルをはさんで、
同級生の背筋をいつも凍らせている少女と、
同級生の背筋をかつて凍らせていたかもしれない母親とが、
暖かい朝食を前に二人向き合っている。
「胸の痛みって・・・大変?」
少女は食べながらさらに母親に質問した。
「そうね、頭やおなかが痛い時も辛いけど、
胸が苦しい時も独特の辛さなのよね、
息をするだけでもすごく響くし、
なんかこう、胸を何かで刺されたみたいな・・・」
母親は少女に懸命に答えた。
「あ、いま私に話してるだけでも苦しい?」
少女はふいに気付いて母親に確かめた。
「うん、話してるだけでも大変・・・
でも・・・そんな気にしないでいいからね」
母親はいつも少女の味方だった。
親でもあり仲良しの友だちのようでもあった。
「話しかけてごめんなさい、
痛みが落ち着くまで静かに休んでて」
少女は母親に声を掛けるのをやめた。
そして、黙々と朝食を食べることに専念した。
少女は母親の胸の辛さを目の当たりにしながら、
つい先日の、
身の毛のよだつような不気味な男を思い出した。
自分が高校から帰る途中の道で、
自分を狙って待ち伏せしていた恐ろしい男だ。
あの日少女は学校を出た直後に、
誰かに待ち伏せされてる、となぜか分かった。
ピンッと閃くような感じだった。
閃いた時、
待ち伏せの相手が生身の人間だとは思わなかった。
この世の者ではない「地獄の使者」だと思った。
自分の命を奪いに地獄からやって来た、
恐ろしい死刑執行人のような化け物だと感じた。
だから、
生身の人間が道に立っているのを見た瞬間、
少女は驚愕した。
嘘だろうと最初は心の中で否定したし、
信じたくもなかった。
しかし自分の中で強い直感が湧き上がり、
自分を殺しに来た「地獄の使者」は、
目の前に立っている現実の人間なのだと確信した。
ものすごく強烈な目をした、
震えるくらいに支配的な視線を発する、
いままで一度も会ったことのないような、
怖い男だった。
幾度も殺し合いの修羅場をくぐり抜いたかのような、
あたり一面を圧倒するくらいの気を放っていた。
危ない! 殺される!
少女は男と対峙しながら身の危険を感じた。
必死だった。
とにかく気持ちで負けたら終わりだと、
必死で睨み返した。
待ち伏せられている場所を避けようと思えば、
できたはずだった。
違う方向に走って逃げようと思えば、
逃げることはできたのだ。
しかし少女は、
あえて待ち伏せを知りながら向かっていった。
いま逃げてもいつか捕まる、
だから逃げることにきっと意味はない、
それよりも危険に立ち向かおう、戦ってみよう、
少女はそう決心した。
それでもいざ危険に身を晒してみると、
自分は無謀だったのではないかと後悔したくなる。
死ぬのかもしれない・・・
自分は今日この場で殺されて死んでしまうかもしれない・・・
私はまだ死にたくない!
天にも祈らんばかりの気持ちで、
不安や恐怖を振り払うかのように男と向き合った。
すると信じられない光景が。
なんと、殺し屋のようなその男は、
自分の目の前で、突如胸を押さえながら呻き出した。
低くこもるような、ぞっとする呻き声だった。
やがて男は、
ヨロヨロと力なく電信柱に抱きついて、
顔面が蒼白になった。
少女は慌ててその場から、
逃げるような早歩きで立ち去った。
恐ろしくてそこにとどまっていられなかった。
助かった、死ななくて済んだ、
自分はまだ生きていられるんだ、
少女は遠くに離れてから実感して脱力した。
負けなかった。
あの「地獄の使者」に負けなかった。
しかし、その日から、
少女の心の中では、
待ち伏せていたその男が消えなくなってしまった。
あの、生身の男が、
苦しそうに胸を押さえて悶える姿が、
少女の目に焼きついてしまった。
あの男の、
低くこもった自分を呪うかのような呻き声が、
少女の耳にこびり付いてしまった。
母親が左胸を右手を押さえる姿を見て、
少女は、
道で出会った男を回想せずにはいられなかった。
邪霊でも悪魔でも地獄の使者でもない、
ひとりの人間の、胸を押さえて呻き苦しむ様を、
ありありと絶対的なリアリティーをもって、
まるで永遠にあの瞬間が続くかのように、
自分の中で再現してしまっていた。
ひょっとして、
自分が死ぬまでこれから一生の間、
あの男の苦しむ姿が延々と再現されるのだろうか・・・
少女は無意識に青ざめた。