馬鹿琴の独り言

独り言を綴ります。時にはお相手して下さい。

浜田城に登ってきました

2024-07-20 23:24:44 | 城攻め

2024年7月20日浜田城に登ってきました。

続日本100名城の170番目です、今回初めてです。

いや~地図見たり路線調べたりしましたが、ここも実に行きにくいのです。

ということで広島着、7時半です。天気は曇ってました。

ここから広島電鉄バスさんで高速バスに乗ります。あっ、雨です、結構降ってる(´・ω・`)

日本海側の浜田まで行ってくれます、3,090円。

順調に2時間ちょっとで着きましたが、雨足が強くなっています。

雨に濡れる浜田駅。

さてここからどうしましょう。歩くと20分、バスがありますが強い雨、困りました。

 

えーい、タクシーのお世話になってしまおう、タクシーさん、やーい。

すぐに乗れて10分ほどで小高い丘へ。運転手さんの話ですと、入り口ではなく、山の上まで行ける、というのでお願いしちゃいました。1,000円ちょっと。

浜田護国神社。まずは探索の無事を祈願。

社務所で続100名城スタンプと御城印をGET。

湾に突き出してますね。

柿本人麻呂終焉の地、鴨山が浜田ですと?

昔、梅原猛さんの水底の歌を読んだことがあるのですが、難しかったなあ。鴨山って概念だけではイメージが湧かないのですよ。

余裕があれば、後で身に行きましょう。

 

さっきの浜田護国神社の横から本丸城址に行けそうです。

司馬遼太郎さんの浜田藩追悼の碑。

1866年慶応2年、第二次長州征伐の際、浜田へは切れ者大村益次郎が進軍します。

浜田藩主松平武聡は弱冠20代半ばで病気のため、戦わずして撤退します。その後浜田藩士が城に火を放ってしまいました。

お城は燃えてしまったのですが、司馬さんはそれを追悼しているのですね。

ちなみに松平武聡さんは水戸烈公徳川斉昭の息子、つまり徳川慶喜の弟だったりします。

そりゃ反長州陣営ですわなあ。

往時の浜田城。立派な天守があったのですねえ。

うわっ、唐突に門が現れました。ちょっちホラー感が……

大丈夫です、安心して下さい。後日、浜田県庁の門を移設したものだそうです。

続100名城スタンプ通りの石垣です。何か嬉しい(笑)

本丸に向けて登っていくのです。

何かが動いていると思ったら蟹でした。こんな小高い丘にいるもんですねえ。

綺麗な石垣ですね。

雨が弱くなってきました。石垣を見て愉悦に浸る私なのです。

出丸だそうです、向う側が開けています。

標高68メートルの頂上です。向う側は海!!

三重櫓は跡形もありません、燃えちゃったのでしょうか。

わーい、海です(*´▽`*)

外ノ浦だそうです。

北前船寄港地だった訳ですね。

さあ、降りましょう。本丸の虎口でしょうか。

枡形虎口の形状です。お城っぽくなってます(笑)

堪能できますねえ。

石段の壁が凄いです。組み方も美しく、丁寧。

これだけで結構満足です。

さっきの道を降りて行きますね。

石垣を振り返りました。

中ノ門跡というところに来ました。

石が崩れてますね、ちなみに横は民家っぽいです。

大体主なところは見て回りましたね、柿本人麻呂の鴨山以外。

11時半です、次の列車に乗るため山を降りましょう。

山をほとんど降りたところにある秋葉神社。これが鴨山っぽいです。

山を下りると、あれだけ降っていた雨はやんでいました。

ちょっと歩くとバスがあり、都合良く浜田駅まで190円のバス旅行、助かりました。

12時ちょうど駅前のからくり時計が動き出しました。

浜田の神楽舞いでした。

今12時ですが、11時12分の浜田駅着の特急スーパーおき2号が大雨で1時間遅れで、今ごろ来るそうなんです。

良かった(私に取って)、乗りましょう!

海ではなく、しじみの取れる宍道湖。

2両の特急スーパーおき2号です、お見送り。

次の目的地に向かいましょう、でわ。


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6 コメント

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浜田 (栗八)
2024-07-21 09:35:14
またまた雨でしたか!
(山陰はまだ梅雨明けてなかった?)
それにしても遠征…いつも思いますが行動力がすごい!
その理由、すごい城のようで、行きたくなるのもわかります。

浜田藩
三つ葉葵だったんですね。
慶喜の弟とは!
大河のような物語があったとは…
(全くの勉強不足で知りませんでした)

登り口は公園化の跡も見られるようですが、上の方は良い感じに残ってるとこも多くあって、石垣、石段、映えますね~♪
攻め上がるの息が切れる良いお城ですね~!
戦わずして焼失…ですか…う~ん…無念。

今回も貴重な紹介ありがとうございます。
暑さの中、無事攻略なりよりでござった!
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雨でございました。 (馬鹿琴)
2024-07-22 18:30:31
やはり続日本100名城の一角ですもんね。

司馬さんの花神を読んで、初めて浜田城を知りました。
一戦交えて欲しかったとか無責任なこと言ったら、叱られますね。
自分の手で火を放つ浜田藩士の胸中、辛かったでしょう。

上部の方にはご指摘の通り、お城の痕跡がかなりありますので、それなりにお楽しみいただけます。

余力があれば、是非、と無責任なこと言ったりして(笑)
返信する
おたずねします (栗八)
2024-07-22 22:53:44
幕末、長州はそんなに兵力があったのですか?
下関でも大砲ぶっ放してますし、薩摩とも手を組んでたし、、
長州で財力って、、大陸との交易とかですか?
石見銀山は幕府直轄だったのですよね?

幕末、ここでも黒田家は生き残った…動かなかったのですよね?
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調べました (馬鹿琴)
2024-07-23 00:51:07
第二次長州征伐時、長州の全戦力が僅か3,500なんですって。
これで芸州口、大島口、小倉口、石州口の四境戦争を遂行するとか、凄過ぎませんか。
方や幕府諸藩勢が約10万だそうです。

石見銀山は天領でしたが、浜田藩逃亡により長州が明治初期まで占拠しました。
戦争資金については藩政改革に精を出し、干拓、紙や蝋燭の軽工業、日本海貿易のお陰なんですって。

この時、黒田家は家中で佐幕派、勤王派が抗争しております。遂には勤王派がほとんど壊滅。
長州征伐には加わっておりません。

肥後細川家は小倉口で戦っていますが、小倉城主小笠原長行と揉めて撤退なんだそうです。
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この顔にピンときた (栗八)
2024-07-23 20:00:09
すいません、調べてもらって、、(反省)

兵力、財力、大差があったのに、「士気」の差でしょうか
というか、血の気が多っかった?

大村益次郎!
調べました…見覚えのある顔です!
宇和島藩に、高野長英、シーボルトが居たのは知ってましたが、同時期、大村益次郎も居たとは!
このあと、長州に戻って…吉田松陰とはどうだったのか、、、調べることにします。

なんか思わぬ展開に、おもしろくなってきました。

萩と宇和島か~
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いえいえ (馬鹿琴)
2024-07-23 21:12:05
近代的用兵に鎧武者と火縄銃が負けちゃった感じですね。
幕府も一部様式陸軍部隊があったのですが……

大村益次郎はかかなり面白い人ですね。
長州内でも士分ではなく半農、医者の出で、結構差別されたそうですし、最期がね……
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