Feel Free ! アナログ・フォト・ライフ Diary

当ブログは同名Webサイトのダイアリー版です。本家Webサイトへは下のbookmarkよりどうぞ。

明日から再び……

2006-09-13 22:57:06 | もろもろ
どうもここのところ自分の中の心のモードが以前とはちょっと変わってきていることもあって、ブログが書けない状態が続いております。申し訳ありません。

ところで、明日から2Bモンゴル隊に先駆けて、モンゴルに出発する。自分的にはもはや外国気分では全然ないモンゴルだが、それでも日本の社会的コンテクストとしばし切り離されるのは気分転換になる。帰国は10月末になる予定なので、日本ではなかなかやりきれなかった仕事をこの機会に終わらせて来ようと思っている。

できるだけ、モンゴルツアーの模様などもブログ上でお知らせして行きたいと思っているので引き続きよろしくお願いします。

【急告】
わが師匠、渡部さとる氏主宰の写真のWorkshop2Bが現在、新規受講生を募集中です。ご興味のある方は、こちらを参照して下さい。

第二次モンゴル隊

2006-09-05 16:13:56 | モンゴル
ふと気がつくともう9月。何だかんだで一ヶ月近く更新してなかったら、この間の飲み会で「海野さ~ん、ブログ全然更新されてないじゃない」と追求された。まあ、原稿料貰って書いているわけではないので必ずしも更新しなけりゃいけない義理はないのだが、このように色々言ってくれるありがたい(=うるさい)読者がいるので何となくやめられずにいたりするわけだ(笑)。

 ところで、今月18日からは2B第二次モンゴル隊が出発する。今回は昨年行ったメンバーから一名を除いた五名に加えて新たに四名が加わり、ぼくを除いて総勢9名がモンゴルに襲来(?)する。しかしそれにしても、みんな良くモンゴルに行くよね(笑)。まあ、それだけ前回の印象が良かったということだろうけれど、正直あれは出来すぎだった。今回はもっとハラハラドキドキの旅にできればと密かに画策しているところだ。乞うご期待。

 

波動

2006-08-06 22:48:16 | 写真全般
 本日は六時間ぶっ通しでプリント作業。個展会場に置いてあったブックを完成させるのが目的だが、32枚まで出たところで師匠に見てもらう。「もうこのレベルまで来れば、あとはこの作品に感じてくれる人を捜すことだね」と言われ、少し(心の中で)ホロリ、と来る。

 今週は心の震えた一週間だった。

 人の心は波動を持っているというのが、ぼくの持論だ。誰もが波動を持っていて、それが時に干渉し、時に反発しあいながらその連鎖が波紋のように広がってゆく。喜び、怒り、悲しみ、愛情、嫌悪、あらゆる感情がその過程で生まれてゆくが、たとえ百の傷を負ったとしても、ひとつのささやかな喜びが生まれさえすれば、人と関わって行く意味はあるのだと思う。

 ぼくは今まとめているシリーズにMarginal Land(マージナル・ランド)というタイトルをつけた。「マージナル・ランド」とは「不毛の土地」という意味だが、「マージナル」には「境界的な」あるいは「メインストリームから外れた」と言った意味もある。マージナルであることは、不毛であると同時にメインストリームに吸収され得ないがゆえの秘めたる可能性を持っていることを意味しているのだ。

 モンゴルの土地は不毛だが、その彼方にはかすかな希望の光が見える。その光の美しさを信じながら、最後まで作品をまとめきりたい。

「聴き合う場」ということ

2006-08-04 18:42:15 | アート全般
 前回、華道家喜苑さんの作品について触れたら、わざわざご本人からお礼の電話を頂いた。ぼくとしては華道の「か」の字も知らないままにいい加減な印象を書いてしまったようでむしろ申し訳ない気持ちであったのだが、あんなに感激されて、逆にこっちの方が感激したくらいだった(笑)。

 彼女によれば、「こんな風に文章できちんと書いて頂いたことがなかったので……」ということだけれど、そう言われてよくよく考えるに、確かに日本ではまだ駆け出し中の作家をきちんと紹介してゆく批評空間が確立されていないような気がする。

 一応、ぼくは某大学院で表象文化論を専攻していることになっていて、本来なら「映画論」やら「写真論」といった「○○論」は得意ではあるのだが、どうもアカデミックな場における「○○論」は論じ手が論に婬すると言った趣があり、そのマニアックなあり方にどうしても社会的な意義を見いだせずにいたのだ(ぼくが写真の制作という「実践」に移行した理由のひとつがそれだ)。だが、もしもアカデミックな場で身に付いた批評スキルを実際の社会で活路を見出そうとしている作家たちの活動の後押しとして活用できたらどうだろう。

 もちろんこのブログで書き散らしていることはいわゆる雑文の類であって、きちんとした評論ではないし、一般向けに書いているため昔ぼくが書いていた批評文よりも一割ほど、論文に比べると三割ほど柔らかい文章になっている。だが、批評としての体裁はともかく、一応、読ませる日本語できちんと(様々なジャンルの)作家たちの活動を紹介してゆくことは作家本人にとってはあるいは結構な励みになることなのかも知れない。そう考えると、ささやかながら、自分のスキルを多少なりとも世間に役立たせることができるのではという気がしてきた。

 ところで、少し話は変わるけれど、批評空間云々のこともそうだが、喜苑さんと話をしていてしばしば話題になったのは日本の文化的貧困さについてである。確かに日本、とりわけ東京は文化に溢れている。その気になればほとんど世界中の映画が観られるし、毎日どこかで大規模な展覧会が開かれてもいる。しかしながら、それでもどこかに日本の文化的土壌の貧困さを感じてしまうのは、要するに人々の意識の問題なのだと思う。

 日常の生活の中にアートを見るということが根づいていないこと。だがそれは、一般の人々の意識の問題であると同時に作家同士の問題でもあるだろう。これだけ写真ブームであるのに写真を見るブームにはなっていないという事実。聞けば、最近の若い写真家の卵たちは有名ギャラリーに行ったこともなく、友達の個展にすら行くことをしないのだという。

 そうした内向的で閉塞的な文化状況を少しでも良くして行けないかと考えたとき、ぼくが思ったのは柔軟な頭を持った様々なジャンルのアーティストが相互に交流できるような「サロン空間」を作れないかということであり、それを喜苑さんは「聴き合う場」と呼んだ。

「聴き合う場」とは彼女らしい、しなやかな和のテイストを含んだ優しい言葉だと思う。「サロン空間」と呼んでしまうと、何だか難しい顔をして論議に耽っているようなイメージがあるけれど、「聴き合う場」という言葉には論議や芸術談義といった堅苦しいニュアンスはまったくない。「自分が」話すのではなく、「相手の」話に耳を傾けるということ。それは相手に対するリスペクトとそこから刺激を受けようと言う姿勢がなければできないことだ。その意味では「聴き合う場」とは交流のための「空間」ですらないのかも知れない。それはそのような「聴き合い」が可能になるような人間関係の連鎖なのだと思う。

 ひとつのちょっとした偶然からひとつの「聴き合う場」が生まれ、それをきっかけにして少しずつ「聴き合う場」の連鎖が広がってゆく。それが、この閉塞的な文化状況を少しずつ変えてゆく、ひょっとしたら唯一の希望なのかも知れない。

白い豆のある風景

2006-07-31 10:47:08 | アート全般
 昨日は草月流生け花の合同展を見に池袋へ。先日ぼくの個展に来てくれた華道家喜苑さんも出品している。別に個展に来てくれたお返しに、というつもりではないのだが、昨年のモンゴル展、今年の個展と、こちらの「展」には二度も来てもらっているにもかかわらず、彼女の作品は今までブックの中でしかお目にかかったことはなかった。ぜひ一度実物を見てみたいというのがかねてからのぼくの思いでもあったのだ。

 DMには会場が自由学園明日館の「講堂」とあったので、展示会場としては妙なところでやるなと訝しく思っていた。だが、会場に一歩足を踏み入れるや、意外にすんなりとその意味を納得してしまった。いわゆるギャラリースペースに整然と作品が展示してあるのではない。作品である「生け花」が、窓際や柱などにまるでツタを絡めるように配置されていて、「講堂」としての機能を失わないよう、建物と作品が絶妙に一体化されているのだ。DMには「催し物」として「ソプラノコンサート」とあったけれど、なるほどそういうことだったのね、とようやく腑に落ちた次第である。

 さて、肝心の彼女の作品だが、これはもう一目でそれと分かるものだった。ブックで見せて貰っていた「白い豆」のシリーズ、その新作だ。

 「白い豆」のシリーズは、ぼくらが抱いている「生け花」のイメージとはまるでそぐわない「異形」(?)の作品群だ。何しろ作品の主体が「花」でもなければ「草」ですらなく、床面に直に敷き詰められた無数の「白い豆」の集合体なのだから。事実、ブックで見せて貰っていた作品はほぼ「白い豆」のみで構成されていて、見る人が見れば、生け花というよりも現代芸術のインスタレーションと思うだろう。

 それが今回の展示では例外的に、円形に敷き詰められた白い豆の片隅に、まるで砂漠の中のオアシスのように草花が配置されていて、それが絶妙なアクセントになっている。その草花のお陰で、「生け花」を期待して見に来る人にはより親しみを持てる風景になっており、それは必ずしも作者本人の思いと一致しているわけではないらしいのだけれど(笑)、少なくとも合同展として見る限り、その草花が、周囲の「生け花」作品と拮抗する力を「白い豆」に与えていてとても見応えのある作品に仕上がっていたように思う。何の変哲もないただの「豆」を空間的に配置しコンセプトを与えることで、そこに新たな生が吹き込まれる。そのあり方は何気ない風景をフレームで切り取ることで新しい風景を現出させる写真のあり方とどこか通じるものがあるような気がして非常に興味深かった。

 ところで、先ほどぼくは「砂漠」と書いたけれども、「写真」と「生け花」の接点についてつらつらと考えていたときにふいに思い浮かんだのが、実は砂丘を愛した写真家植田正治のことだった。植田は砂丘に人物やら静物やらを配した独特なシュールな作風で有名な写真家だが、そう言えば草月流の家元勅使河原宏は、映画『砂の女』で有名な映画監督でもあった。

  それはともかく、「生け花」と聞いて植田を連想してしまったのは、モンゴル展で喜苑さんに「白い豆」シリーズのブックを見せられていたからかも知れないし、あるいはまた最近のぼくの写真が荒野をテーマとして展開して来ていることとも関係があるのかも知れない。しかしいずれにしても、会場で彼女の作品の傍に置かれていた雅号入りのプレートの背景写真がこれまた砂丘のイメージだったことは、何かの縁というか、ある種の「流れ」のようなものを感じさせて不思議な気分だった。聞けば、そのプレートを制作したのは、ぼくが彼女に植田や砂丘のことを告げるよりもだいぶ前の話だったのだそうだ。

 喜苑さんとはその後昼食をご一緒しながらまたあれこれと話をさせて頂いたが、アートや創作活動について(ジャンルを問わず)、自分と同じ「強度」を持って話ができる相手というのは今のぼくにとってはとても貴重な存在になっている。お陰で今考えるとだいぶ失敬なことも言ってしまったような気がしているけれど(笑)、それも相手をリスペクトしているからこその物言いなのだと、まあ、多少の言い訳も含めてそう思っているわけです。

復旧しました(その2)

2006-07-28 20:27:05 | もろもろ
 あれから試行錯誤したところ、どうにかウイルスセキュリティーとホームページビルダーを共存させることができるようになった。やり方はホームページビルダーのアップロードの送信設定でパッシブモードをオンにするだけ。

 これで新しくセキュリティーソフトを導入する必要はなくなった。ウィルスセキュリティーはWindows Vistaの公式サポート終了まで更新料無料で使えるので、まあお得ではある。良かった、良かった。

復旧しました

2006-07-27 22:58:27 | もろもろ
 ここしばらく本家サイトの方がアクセスしてもブランクページになってしまっていましたね。すみません。

 もとはと言えばソースネクストのウィルスセキュリティーを入れたのが原因で、ホームページビルダーでサーバーにアクセスしようとしてもできない状態が続いていた。おまけにふとした拍子にサーバーにアップしてあったコンテンツがまるごと消えてしまい、これはサーバー側の問題なのだろうかとしばらく様子を見ていた次第である。結局、ウィルスセキュリティーを削除し、ホームページビルダーでコンテンツを再アップしたところ何とか復旧することができた。

 しかしなー、ウィルスセキュリティーのサポートページには何も書いてないというのはいかがなものだろうね。他での情報によれば、ウィルスセキュリティーをインストールした状態でも、ホームページビルダーでアップロードする際にいちいちすべての機能をオフにすれば一応共存可能ならしいが、それも面倒だし。更新料無料というのに惹かれて購入してみたのだが、他のソフトに切り替えるかどうか思案のしどころである。

プリント難民

2006-07-25 23:21:03 | 写真全般
 個展が終了して以来、プリントがうまく行かなくて困っている。

 自動現像機の現像液を入れ替えたらカラーの色設定ががらりと変わってしまい、未だに以前の色を出すことができないでいるためだ。

 そもそも、モンゴルから帰ったときにも、ハロゲンランプ変えたから設定変わったよ、と師匠に言われて慌てたのだが、その時は案外、すんなりとぴったりの色設定を見つけられた。ところが、今回は何度フィルターを操作しても以前のようにパンチのある色合いになってくれない。しかも、暗室使用は三時間と限られているから、どうしても中途半端な色合いで妥協してしまう。

 販売作品のプリントも仕上げなくちゃならないし、個展会場に置いてあったブックもまだ完成はしていない。今週末でなんとか切りをつけたいが、それまで悶々とした日々が続くのかと思うとちと気が重い……。

新潮文庫カバー写真

2006-07-12 18:06:22 | 写真全般
 まったく唐突であるが、新潮文庫のカバーにぼくの写真が使われることが決まった。

 もっとも、イラストと組み合わされての使用であるので、イラストが主、ぼくの写真の方は単なる背景のイメージとして使われるだけ。従って写真の方も、単体で作品として成立しているものではなく、恐らくは個展や写真集ではセレクトから漏れてしまうであろう、抽象的でシンプルなイメージのものが選ばれた。

 そもそも事の発端は、先日終わった個展に新潮社の装幀室の方が来廊されたことから始まっている。聞けば、井上靖のロングセラー『蒼き狼』の新装版が近々刊行されることになったので、とりあえず写真を見せて貰えないだろうか、ということだった。なんでも、インターネットの検索でたまたまぼくの個展のことを知り、わざわざ訪ねて来てくれたらしい。

 ただし、「こちらのイメージと合うものがなければちょっと、ということになるかも知れませんし、使用させて頂くにしても、イラストと組み合わせることは決定事項なので、あくまで背景のイメージとしてですが、それで良ければ……」とも言われたが、まあ『蒼き狼』と言えばロングセラー。一度カバーに使用されれば、次の新装版が出るまでぼくの写真と名前入りの文庫本が書店に並ぶわけである。しかも、ちゃんとギャラも出るし(←ここがポイントね)、デメリットはないので快諾することにした。

 で、先日何枚かベタをお渡ししたところ、その中の一枚が選ばれた、という次第。ただ、さすがにイメージとして、というだけあって、正直この写真じゃモンゴルじゃなくても撮れるよなあ、とか、別にぼくの写真じゃなくてもいいよなあ、と思わなくもなかったけれど、見せられたラフデザインそのものは確かにかっこいい。この辺はひとえにデザイナーの力によるところが大きいと思う。

 ちなみにすでに新装版が刊行されている同じ著者の『敦煌』は、カバーに野町和嘉氏の写真が使われている。もちろん、こちらは写真主体のものですけどね(笑)。
 

再春館ギャラリーの閉廊

2006-07-10 00:17:51 | 写真集・写真展
すでにご存じの方も多いと思うが、ぼくが個展をやった再春館ギャラリーが先月末で閉廊になった。予め承知していたことであったので、今さらショックというほどのことはないのだが、初個展を開催したギャラリーがなくなってしまうというのはやっぱり寂しい。

個展に来てくれた人たちは良く分かると思うのだけれど、再春館ギャラリーはとても居心地の良い空間だ。特に、ぼくは土日の昼に一番でやって来てブラインドを開ける瞬間が楽しくてならず(平日は再春館の人が開けてくれるのでその楽しみを味わうことができなかったけれど)、ほとんどその楽しみのためだけに往復900円かけて品川まで通っていたようなものだった。人気のない朝のギャラリーに、パッと電気が点り、その瞬間、自分の作品たちが急に生気を帯びたように生き生きと見え始める。それはまるでリハを終えてあとは開場を待つだけとなったコンサートホールのようで、がらんとした空間にそこはかとない緊張感が漂っている。

最初の平日はなかなか人が来てくれなくて、そんな時はこのギャラリーで個展を開いたのは間違いだったのではと思いもした。だが、いま振り返ってみると、やはり初の個展をメーカー系のギャラリーではなく、こうしたこじんまりとはしているが、落ち着いた雰囲気のある小さなギャラリーでやることができたのはとても幸運だったという気がしている。

メーカー系のギャラリーは確かに人出が多く、作品が沢山の人の目に触れるというメリットはある。だが、逆にこの人の多さというのが問題で、あまりに人が多いとほとんどの人とはろくに話もできずに終わってしまうことになる。個々の来訪者とゆっくり話そうと思えば、一日10人~15人程度入ってくれるのがベストではないだろうか。

その点、最終的に今回の個展は11日間で100名だったから、だいたい一日平均で9~10名くらい入っていた勘定になる。おまけにメーカー系ギャラリーとは違い、飲食禁止といった制限もないから、来廊者とはお茶やお菓子を食べながらゆっくりとお話しすることができた。その経験が、ぼくにとっては何よりも貴重であったし、恐らくは今後のぼくの活動にも大きな影響を及ぼしてゆくことだろう。

もちろん、前述したようにメーカー系ギャラリーの人出の多さには他の欠点に目をつぶりたくなるような魅力があることは事実だ。だから、ぼくにも、少なくとも一回はメーカー系ギャラリーで個展をやってみたいという希望はある。だが、一回だけで十分だ。あとはこじんまりとした落ち着いたギャラリーで、空間を愛でるように個展を開いてみたい。そんな夢を叶えてくれるギャラリーは本当に貴重だが、それがまたひとつなくなってゆく。

再春館ギャラリーの再開を心待ちにしている人は決してぼくだけではないはずだ。