えー、まとめますと…という感じでよろしかったでしょうか?

ブログ等色々のサイトにチョコチョコ書き込みしている私ですが「多少なりとも纏め的なことが書けたらな」ということでここに☆

「日本人の心」とは

2011年09月08日 07時12分55秒 | 考えていること
よく“日本人の魂”は「武士道だ、武士道だ」とか「侍だ、侍だ」とかいう言葉を耳にするのだけれど、そういう関係の本などを一切読んだことのない、そういった知識ゼロのぼくからすると、その言葉の意味する中身がどういうことであるのか、全く見当がつかなかったということがあります。

昔特権階級だった“侍”という名称に自分の診を寄せることで、自分も偉くなったような気になりたい、かっこつけたいだけなんじゃないの?などとぼくは思っていました。「漁民、農民、商売人、職人といった“スピリッツ”ではいかんのかなぁ」とかですね。

そんな「武士道」「侍」に関する知識がないまま、そのことについて何となくずぅっと考えてて最近思いついたことがあるので書いてみようと思います。

「侍の心」とは主従関係に基づいた「主人(主君)」に対する「忠誠心」とかなのではないだろうか。

つまり「上の者のことを裏切らない心」とでもいいましょうか。

「日本人はおとなしい」といわれる元になっているのは、上の者の指示・命令には素直に従うという伝統があるからではないだろうか。

アメリカの影響を受けて戦後ずいぶんアメリカナイズされた日本ではあるが、この「上の者の指示・命令には素直に従う」という伝統は所属する企業への忠誠心をはじめとして残り続けてきたし、ずいぶんと不満が溜まっているであろう政治への反発心が抗議行動にむすびつかないという最近の状況にまでつながっているように思える。

「素直に従う」といっても本当に心から素直に従っているのではなく、反発心や違和感を上の者の言動に感じながらも、その不満は周囲に愚痴をこぼす程度の行動で治めてしまうのだけれど。

つまるところ日本人には“自分”に「主」がないのである。

“自分”以外の“誰か”に「主」を置くことで、「従」たる“自分”の振る舞いが決定されるということである。

そんな日本人だから、“ずるさ”を嫌い、“誠実さ”に美意識を見出すのであろう。

その“誠実さ”に則った振る舞いが海外の人からの「日本人の評価、評判の高さ」を生んでいる元になっているのではないだろうか。

しかし、一方で“ずるさ”が足りず、政治における外交において交渉を自国の優位な方向に持って行けずに自国の立場を弱くしてしまうといったマイナス面が指摘されてもいる。

官僚はポジション的にいえば“主人”たる政治家・大臣の“家来”にあたるのだと思うが(根本的には主権者たる国民のサーバントということであろうが)、2年くらいで次々と担当大臣が変わってしまうような現在の政治の仕組みでは、“主人”として尊敬されるような、一目おかれるような政治家と官僚との関係は作れずに、ある分野に長年かけて精通した官僚が我が物顔で権益拡大に励むことにもなるので考えなければならない問題だと思う。

明治政府は近代国家たる日本建設のために天皇を「君主」とし国民を「家来」と設定して国民に天皇に対する忠誠心を誓わせ近代国家形成へと動員した。

敗戦後の日本では企業を“主人”とし、社員はその“家来”となって、「お客様」を“主人”として商売をし、日本復興のために頑張った。

また、国際政治においては“アメリカ”を「主」、“日本”は「従」という態度をとってきたといえるのではないだろうか。

もともと「従」たるポジションで自分の振る舞いを決定づけてきた日本人が“主人”たる「主」を持たなくなったとき、いったいいかなるようにして“自分”の振る舞いを決めて行けば良いのだろうか。

一神教の世界では絶対たる存在の“神”を“人間”の上位に設定して、「主」たる“自分”をコントロールしているのではないかなぁと思うのだが。

現在の日本人の「武士道」「侍」“精神”が忠誠を誓うのは、自分の直接の上司かもしれないし、“日本”という抽象的イメージかもしれないし、日本国憲法が規定する象徴天皇かもしれないし、日本国民全員かもしれないし、自分が生まれてからこれまでに人生で関わりを持った主として自分の身の回りにいた人々かもしれないし、。

それぞれが自分の“主人”を決めてそれぞれに振舞って行けばいいのかもしれないし、それでは良くないのかもしれない。

まだよく分からないでいるぼくなのでした。