えー、まとめますと…という感じでよろしかったでしょうか?

ブログ等色々のサイトにチョコチョコ書き込みしている私ですが「多少なりとも纏め的なことが書けたらな」ということでここに☆

6月8日に秋葉原で起きた事件と、そのことから連想した普段考えていることをつなげて (1)

2008年06月24日 08時35分54秒 | ちょこっと気になったこと、もの、人
【川田亜子さんのことも気になりますけど今のところまだ情報がクリアになってないみたいなんで】

 この事件について、発生から連日ニュースとしてテレビで取り上げられていたのでぼくも考えたけど、一つのエントリー記事にまとめきれない気がするので、実際シリーズで書けるかどうかは分からないが、シリーズとして数回に分けて書こうかと思い、こういうタイトルにしてみた

 テレビで聞いた話に加えて、webで見つけた犯人のケータイ・サイトでの書き込みを載せたページ(検索で見つけるのにかなり時間を要した)を参考にしてみた(※1)。本当はもっと前、できれば最初からの書き込みを読みたかったがこれしか探せなかったので。(ラジオではTBS『ストリーム』のポッドキャスト(「週刊誌チェック」「コラムの花道」)で聴いたくらい)


 親の言う通りにいい子を演じ、そうすることで周りから評価されてたのに高校上がって成績下がったら親に構ってもらえなくなって、昨秋には離婚話も出て精神が不安定になり(「自殺未遂的に交通事故を引き起こしてもいる」と伝えていた番組もあった)、ふるさと離れて仕事に就いたら友達、彼女もできなくて、現状の自分が不本意で昔馴染みのふるさとの有人達にも会わず、孤独を拗らせ、今の自分にできるでっかいことといえばwebの掲示板に犯罪予告を書き込むこととテレビのワイドショーで取り上げてもらえるような凶悪事件を起こすこと。

子供の頃には親の期待に過剰適応し、大人になってからは情報化社会に過剰適応してしまった。

 そもそも日本人というのはdna的に“過剰適応な人々”なのではないだろうかと思う。ただ適応すべき状況が、時代時代、世代世代によって違っているだけのことで。江戸時代は幕藩体制に過剰適応し、明治維新では文明開化・富国強兵・天皇教などに過剰適応し、大戦争のときには軍国主義に過剰適応し、敗戦後は進駐軍・アメリカ文化・アメリカの政治などに過剰適応し、高度経済成長期には物質的(金銭的)豊かさを目指して過剰適応し、学生運動の時代には若者はその雰囲気に過剰適応し、“学歴社会”といわれた時代には皆で挙って大学受験競争に参戦し、情報化時代にはマスコミ情報・ネット情報に過剰適応してきた(※2)。
 そして我々は日々のマスコミ情報(「今これが流行ってる」「次はこれが流行りま」)に過剰適応して流行を追い掛け回している。経済の活性化のためには(為政者が新しい時代の変化に対応するため国民全体を導引していくのに利用する際にも)日本人の“新しもの好き”的な性質はいいものなのだろうが、別の側面では負の要素でもあるだろう。
 また、近頃のように政治や社会問題、事件について「これが問題だ」「あれが問題だ」、「これは大変だ」「我々はどう対処すればいいのだ」と結構ワンパターンな切り口で大量な情報を流されると、ただでさえ、dna的に不安感を覚えやすい国民なんじゃないだろうかと思わせるところのある日本人は、そんなマスコミ情報によっても益々不安感を醸成させられてしまうのではないか。
 そのほか、ノイジー(見たくも聞きたくもない)な情報は、長閑だった昔に比べて怒濤のように押し寄せてきて、人々の頭の中に飽和状態をもたらし(特にまだ頭の柔らかい子供・若者の心に)大きなストレスを与えているのじゃないだろうか。

 それで、“情報化”に“過剰適応”してしまうのがよくないと思うのは、情報化社会というものは自分にとって一番気持ちいい情報を偏って、かつ繰り返し繰り返し摂取できてしまうものだから、いろいろと“おかしな人”が出来上がってしまう(暴力性の先鋭化や極度に偏った性的嗜好等)一つの大きな原因にもなっていると思えるところだ。
 この犯人についても「『こんなのがあるんだよ』と2ちゃんねるの犯罪予告の書き込みを見せていたことがあった」という職場の同僚の話を流していた番組もあったと思うのだが、彼もそのときには「犯罪を犯そう」などとは考えてはいなかったのかもしれないが、少なくとも犯人の頭(別の言葉でいうなら「脳」とか「アンテナ」とかかな)は初めから「犯罪予告書き込み→犯罪実行」という図式に反応を示していた(興味を持った、引っかかりを覚えた)というのがあったのだろう。

 よくない点としてもう一つ思うのは“情報化”によってもたらされる“言葉によるレッテル貼り”に縛られてしまうこと。そのマイナスの自己暗示によって自らの可能性の芽を摘んでしまいかねないこと。今回の場合だと“負け組”“格差社会”“ワーキングプア”“非モテ”など。

 よくない点としてさらにいってみるならば、今は「信頼できる友達ができにくい」というのにも“情報化社会の進展”が関係してる部分もあるかもしれないと思ったり。
 昔だったらいくら自分の信頼してた人がこちらの打ち明け話を誰かにばらしたとしても、知れ渡る人の範囲は身の回りの人達レベルだったが、今だったらメールやネットをはじめ、さまざまな情報ツール、メディアで個人の手には負えないレベルにまで広がってしまう可能性があるわけだから。また、例えば裸の映像だって、昔は「私の大事なプライベートは信頼しているあなたにしか見せないんですよ」という暗黙の了解においてラブラブエッチとかしてたわけじゃないですか?それが今では写真や動画に撮られてばら撒かれたり、脅しに使われたりしてしまう時代である。


 経済がとても元気だった頃の日本人は「顔の見えない、気持ちの分からない、機械みたいに動く人々」と外国(とくに欧米)の人達から見られていたんじゃないだろうか。それから時代が下って、日本人の人間的な心の動きやあり方というものはマンガなどのサブカルチャーを通して外国に伝わって行った部分もあったんじゃないだろうか(開発途上国の人々には青年海外協力隊や民間のボランティアなどとの直接的触れ合いを通して日本人の人間的に良い部分が伝わったというのもあるだろうが)。
 日本人は伝統的に「一人の人間」である前に「場」や「システム」の一部として立派に適応してみせることに価値を見出してきた人々だったんじゃないだろうか。例えば、職場に過剰適応する場合などでは、「同僚やお客様に迷惑をかけてはいけないから自分の家族のことは二の次にしなくてはいけない(親の死に目には会えなくても自分の職責は全うしなくてはならない)といった倫理観」とかがあったと思うんだけど、それって非人間的なことだよなぁ、って思ってしまうのはぼくだけだろうか(※3)。ほかの例だと、電車などの到着時間を秒単位で気にするといったようなこともちょっと非人間的なような気がしてしまう。
 二人の子供達を家庭内に囲い込み、学校でのテストの点数や先生受けすることにターゲットを絞った厳しい教育に腐心したこの犯人の親(特に母親)は“学歴社会”というものに過剰適応していたのだろう。
 この犯人も正社員よりも優秀な、派遣社員として自動車の塗装のチェックにきちっと励み、職場に立派に適応しようとしていたようだ。それなのに、子供の頃から自分の心の支えにしてきた親の離婚話があったり、今は手元にないクルマの借金についての精神的ストレスに加えて勘違いで思い込んだのか実際そうだったのか「リストラの対象に」「作業用のツナギを隠された」ということがあって、ついにキレてしまったのだろうか。

 ところが今の日本には、立派に適応してみせるだけの価値のある確固たる「場」や「システム」といったものはもう無くなってしまって、適応できそうな器らしきものといえば「情報化社会」くらいになってしまったのかもしれない。
 でも、本当は「情報化社会」なんてもんは「立派に適応してみせるだけの価値のあるもの」なんかじゃないんだろうと思うのだが。
 「情報化社会への上手な接続と切断」といったものが、現代人に求められる大事な“生き方の技術”の一つとなっているのかもしれない。

 そんな時代の中、今日本人に必要なのは、(システムに過剰適応する“機械”ではなく)“人間であろうとすること”(※4)や“普通であろうとすること”ではないだろうか。ぼくの考える“普通”というのは「多数派でいること」というのではなく「人間として大切な基準点をキープしている人」というものであるが。
 メディアを介した情報にドップリ浸かることなく、自分の体で感ずる天然、自然の感覚を磨くこととか、あるいは、情報を沢山摂取する人の場合には、ただコンピュータのハードディスクにひたすら情報を溜め込むが如くにするのではなく、「教養を身につける」心構えでそうすることにより、“人間”であったり“普通”であり続けることができるのではないだろうかと思ったりするのだが。


【今回は「情報化」という視点で書いてみました】


※1
● 緊急メモ 「秋葉原通り魔事件」 - ukparaの思索メモ (つねに未完成)
http://d.hatena.ne.jp/ukpara/20080609
この文章を書く前に読んだのは「携帯掲示板への書き込み:6月3~8日(犯行当日)」の分。その語もデータは追加されてる模様。


※2
 「情報化に過剰適応」といっても、それは現在のパソコンや携帯電話にともなって起きたものではなくて、テレビが登場した時代からの日本人の「バカみたいにテレビ好きな国民」といったところから始まっていることのようにぼくには思えるのだが。


※3
 昔の言葉でいうなら「義理と人情の板挟み」、昔の歌の文句でいうなら「義理と人情をはかりにかけりゃ 義理が重たい男の世界」となるのかな?


※4
 日本社会を覆う“閉塞感”から(それに立ち向かうためなのか、そこから逃げ出すためだったのかは分からないが)活路を求めて、90年代後半頃からの障害者本ブーム(『五体不満足』の大ヒットを頂点とした)、沖縄ブーム、といったものも「“人間であること”を取り戻す」人々の無意識の一つの試みだったのではないかとぼくには思えたりするのだが。