えー、まとめますと…という感じでよろしかったでしょうか?

ブログ等色々のサイトにチョコチョコ書き込みしている私ですが「多少なりとも纏め的なことが書けたらな」ということでここに☆

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また生活保護に関する同じようなニュースが

2012年05月29日 07時14分52秒 | 考えていること
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お笑い芸人『キングコング』の梶原の母親も生活保護を受給していた 不動産所有でも受給できた理由とは?

母親の生活保護を受けてたとして連日話題になっている吉本興業の芸人、河本準一だがこれに続き、自らの母親が生活保護を受けていたことを明かす芸人が現れた。それは人気お笑いコンビ『キングコング』の梶原雄太。梶原雄太の母親は昨年3月から生活保護受給がはじまった。
受給理由は祖母の介護をしながら弁当屋でパートをしていたが、そのお店が倒産し収入が無くなってしまったという。さらに足を骨折していまい年齢的にも働き口が見つからず生活に困っていたという。
福祉事務所に相談に行くと「祖母ではなく、あなたが生活保護の受給者になった方がいい」とアドバイスを貰い、生活保護の受給が開始したという。
連日の河本準一の報道があって、梶原雄太自身は後ろめたい気持ちから全てを話してしまったのだろう。しかしネットでは次の様な意見が書き込まれている。
・おそらく梶原の母ちゃんの生保は問題無いんじゃないか?
・祖母の介護してるんか母親 ならしょうがない
・これ見ると、そこまで悪くないな
と、擁護する意見も多少出ている。しかし母親は過去にマンションを息子の梶原雄太から購入して貰い、そのローンが月40万円続いているという。もちろん支払っているのは息子の梶原雄太。生活保護は不動産を持っている場合はそれらを売却し、生活費に充てるように促される。今回のケースは母親の名義ではなく息子の梶原雄太の名義だったために、生活保護が受給できたのかもしれないが、500万円以上の不動産を所有している場合は通常、受給できない。
批判する意見もちろん分かれているが、梶原雄太の母親は仕事先の倒産、骨折、祖母の介護とかなり苦労した面も見られる。
これを気に生活保護を受けて居たことを自白する芸能人が今後も出てきそうだ。
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なんか、ぼくからすると「日本の生活保護」という制度は
「なぁんかヘン」「なぁんか、中途半端」な制度に思えてしまうのである。
一応「人間の生存権を保障してくれる制度」という建前にはなっているんだけども、
どこまでの生活レベルを「生存権」として認めるのか、
現場現場の役所の受付窓口の職員の裁量に寄ってたり、
そのときそのときの厚生行政当局の方針で
ゆるめられたり引き締められたりであったりすることの可能な制度のように思える。
また日本国民の考える「生活保護需給者の生存権」としての
生活レベルの見積もり方の基準は相当低いのじゃないかなぁと思えるのである。

「人間らしい生活を営む権利」の「人間らしい生活」をどの程度として見積もるのか。
たとえば、車は持っちゃいかんらしいが、地方で暮らすなら車は贅沢品ではなく
生活必需品に近いと思うし、
どんなに古くてボロボロの家であっても持ち家=財産を所有しているということであれば
需給を受けられなかったり、
昔はエアコンを持つことが贅沢品であるということで認められなかったり、
「自分の葬式費用のために」保護費から貯金してたら
職員に没収されたりした件で裁判になったりしたとか…。

また、この制度は就業までの一時凌ぎ的制度であったはずのものが
最近は高齢者や重い病気の人など新たに職につける見込みの薄い人々の
増加に適用せざるをえない状況になってきていて、
制度のすっきりとした運用がなかなか難しくなってきてもいるのではないだろうか。

あと「生活困窮者への親族の扶養義務」という考え方もどうなんだろう?とか。
皆それぞれ自分の世帯の家計運営のためにカツカツの思いをしているのに、
「あなたは扶養義務者なのだから生活困窮者の親族のめんどうを是非とも見て下さい」
とか役所から言われたとしてもそれを受け入れる人がどれくらいいるものだろうか。

「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を保障するためには
裁量行政に頼らないすっきりとした形の制度改革が求められるような気がするのだけど…。
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河本さん、生活保護

2012年05月25日 23時22分59秒 | ちょこっと気になったこと、もの、人
「お笑いコンビ『次長課長』の河本準一さんの母親が、生活保護を受給していると週刊誌で報じられた問題で、河本さんが25日午前、都内で会見を開き、謝罪した」というニュースを聞いて↓
生活保護受給者の多さ(失業問題)は今や国民的関心事となっていますよねぇ。
それと有名人とを結び付けて世間的大騒ぎを狙った週刊誌的セコ・ネタですかね、これは。
売り上げ部数が落ちてきて困ってるという週刊誌もこれではホントに滅んでしまいませんかねぇ。

戦後憲法が導入された後も、日本の“生活保護”って(ほかの福祉制度もその傾向が長くありましたが)
やはり「権利としての生活保護」というよりは「お恵み的生活保護」という
価値観が支配的だったと思います。

河本さんの母親からしてみれば、身内の事情で経済的援助を受けられず
貧乏生活を運営して行くためには生活保護を受けざるをえなかったのだろうし、
(人間歳とってくると頭が融通きかなくなってくるから)
「ずっと昔から受けてきたのだからこれからもずっと受けて行ってもかまわないものなんじゃないか」
「今になって息子の稼ぎが良くなったからって今更息子にたかるわけにもいかないだろう」
というような“生活の継続性”を優先させる考えであっても不思議はないと思うのだけど。

責められるべきは河本さんではなく、役所の職員の“職務怠慢”ではないだろうか。
ぼくも一度生活保護を受けたことあったけど、
確か、3ヶ月に1度は役所の職員が見回りに来て
生活状況をチェックしていったと思うのだけど。

そんなときにでも職員のほうから、
「最近息子さんご活躍のようですが、こちらとしましても
ほかに困っている方のほうにお金を回したいと思いますので息子さんにめんどう見てもらうわけにはいかないでしょうか?」
と話を持ちかけてみなきゃいけない事柄ではないでしょうかね。
一般庶民が急に気が付いて
「あ!そういえばうちの身内に急に羽振りが良くなった人がいるから
そちらにめんどう見てもらうことにして国民様の血税はお返ししなくては!」
と思うご立派な人がいったい何人いるというのでしょうか。

あと、ぼくが思うに
日本人の“個人”というものの考え方もこういったことに影響しているのじゃないかな。
それは日本では“個人”は蔑ろにされ、“家族”が優先的に取り扱われるということ。
本来家族というものは個人の自由な意思に基づき自由に集まった人達のことを指すのだと思うのだけど
日本においては(少なくとも戸籍行政的には)「血のつながり」が最優先の単位のようで。
そして個人は蔑ろにされ、家族単位の「一山いくら」的扱いにされてしまう。
“個人”としてプライドを持つ人間からすれば
「自分はばら売りにも適う立派な一個の商品であるのに、一山いくらで捌かれる謂はない
と不満に思うことがあるのじゃないだろうか。
少なくともぼくはそう感じながら生きてきたのである。
世話になってる回数の多い病院や福祉行政の人の言動を見ると
「(障害のある)本人は信用できないが家族なら信用できる」というステレオタイプの考えが支配的なのである。
そういう人達からすれば「家族にまる投げしちゃえば手間が省けて都合がいい」のだろう。
全く、医療や福祉の現場にいる人間でさえ「人権意識の希薄な国民」なのだから手の施しようがないというか。
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「自由」のために戦えるか

2012年05月25日 18時42分34秒 | 考えていること
』井筒とマツコ 禁断のラジオ(文化放送)聞いてましたら、
(我々「自由」を愛する国民からすると)横暴とも思える地方自治体の長の行動、発言への批判が展開されておりました。
思いますに(いつもぼくが言っていることですが)、
日本人の多数派というのは欧米人とは違って
「自由が基本」「自由をなるべく妨げてはならない」とは考えない
基本的に「自由を愛せない」人々なのではないでしょうか。
(戦前からの少数の左翼運動家の思想と)戦後アメリカによってもたらされた「自由、人権、国民主権」の精神よりも
日本人にとってはもっと大事な価値観があるのだろうと思えます。
たとえば、「いつもどこかで誰かに管理されてないと居心地が悪い」
「どこかで誰かに手綱を握っていてもらわないと一人見捨てられるような気がして不安だ」
というような心に答えてくれるような価値観による支配。
ここではとりあえず「家父長制への復活願望」とでも書いておきましょうか。
「家父長制への復活願望」においては「自由、人権、国民主権」という
日本国憲法の精神より、自分より上の(トップ)のポジションにいる
おっさん(まぁたまにはおばちゃんとかもいたりするかもね)の価値観と一喝的発言の一言一言が大事に思われてしまうことになる。
この現状において「我々自由を愛する少数派の国民」には
まだ戦う気力が残っているだろうか。
政府統制があまりに酷かった戦時中の記憶が新しかった時代には
多くの国民が「自由」を旗頭に戦っていたのだろうが。
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好きな時間帯

2012年05月24日 03時38分23秒 | follow me(フォロー&ついてきて!)
1日の内で一番好きな時間帯は「午前3時から午前6時くらいの間」かなぁ、ぼくの場合。
なんか一番心に余裕が生まれて心が自由になる感じがするから。
この時間帯に人の集まる場所に出掛けてもいいくらいな気分である。
なかなかそういうチャンスはないけどね。
昔はファミレスとかによく一人で行ったりしたなぁ。
サービスエリアとかもいいかもしれない。
あと、卸の現場みたいのとか朝市みたいなのとか。

朝6時を過ぎると「今日もまた忙しない1日が始まるんだなぁ」という感じになるかな。
特にそのせいで「憂鬱な気分になる」ということはべつにないんだけどね。
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「朝生」 沖縄基地問題

2012年05月04日 02時14分04秒 | 考えていること
今回の『朝まで生テレビ』(テレ朝系)は沖縄の基地問題がテーマだった。
ちょうど今年は沖縄の本土復帰40周年の年にも当たる

司会の田原さんは十分に心情的に(いい意味で)同情心を持って沖縄の人達の意見に耳を傾けていたように感じられた。
田原さんの狙いとしては今回は「沖縄の人達にふだんの思いの丈を存分に話してもらおう」ということがあったのではないかとぼくには思われた。
その上で田原さんが強く押した議論のポイントは一転、
「沖縄の人達が『米軍の基地を自分達にばかり押し付けられるのは嫌だ』という思いは十分分かる。もし、安保条約が大切だというのなら、本土各地でも等しく基地負担を負うべきだと思うが、これをどう考える?」。
しかし、それに対して返ってきた答えは「基地は嫌だから引き受けない」的な一言だけであったと思う。
これでは「“基地問題を議論する”と言ったところで話にもなんにもならないと思うのだが

議論を聴いていてぼくが感じたのは「沖縄の人達の意見というのは情緒的、感情的で、そこをベースにした思いや願いについて語っているなぁ」というものであった。まぁ、べつにそういう内容の意見が「現実みがなくて悪い」と言っているのではないが。
沖縄の人達は「太平洋戦争における地上戦の体験を未来へ語り継いでいって平和な世界にしたい」と考える人々なのだろうと思う。いわばあの戦争体験を「“負の遺産”としたい」と考えているのではないかと思う
(それに対して本土の人達は“水に流す文化”により、あの戦争体験を「なるべく早く忘れてしまい、新しい生活を作りたい」と考えたのではなかっただろうか)

また、沖縄の人たちには「琉球王国幻想」というものがあり、その昔“一国の独立国”として交易(中継貿易)で栄え、経済、文化を発展させてきたという思いがあり、望めばいつの日かまた“武力に寄らない国家運営”が沖縄独自で行えるのではないかと思っているところがあると思う。
いわゆる「沖縄独立論」であるが、ぼくの感じだとこういう考えはいまのところまだまだ「掛け声止まり」のものにすぎないように思える。
観光ビジネスや友好、親睦目的の他国との交流といったものは行われているものの、具体的な独立へ向けての生臭いような政治的動きをする人というのはまだまだ出てこないように思えるのだか。

ところで、沖縄の人達にとって(また各地の原発建設を認めた人達にとっても)「現実みのある話」といえば“お金”ということになるのだろう
これまでの沖縄では“非武装中立”的考えで平和を願う人達の一方に土木建設業をはじめとする経済界の人達がいて、この「現実みのある話」を牽引してきたのだと思う
しかし、ここへきて県民の意識の変化(基地の跡地利用による大型ショッピングモールの成功や観光客の順調な伸びなど)によりそういう「現実=基地と引き換えの振興策をはじめとするお金」という話は通らなくなりつつあるのかもしれない。

「安全保障政策として沖縄に基地(米軍にしろ自衛隊にしろ)を是非置きたい」とする日本政府(および無言の賛同者としてそれを後押しする日本国民)の「現実路線?」と、非現実的であると批判を受けながら「基地の無い平和な島」を望む沖縄県民の距離、溝は永遠に埋まらないように思えたりするのである。
「日本の安全保障→日米安保→基地問題という現実」を解く鍵はなかなかみつかりにくくなってきているのかもしれない、と思った。


 (田原総一郎さんのツイッターのツイートから)
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namatahara
朝まで生テレビで沖縄の基地問題を沖縄でやった。色々考えさせられた。沖縄の人々は、米軍よりも自衛隊を嫌っていて、アメリカに対するよりも日本政府に対する不信感が強い。この責任は主として民主党政府にある。自民党時代に、沖縄の県知事や名護市長達が普天間基地を辺野古へ移す事に賛成した。
5/2 22:51[ Twipple for Android ]

namatahara
その為に、野中広務さんや岡本行夫さん達が、一年の殆どを沖縄で暮らしあらゆる島の人々と食べて飲んでとことん話し合った。その為に沖縄の人々が世界で最も危険な普天間基地を辺野古に移す事を納得してくれた。それに対して民主党政権は手抜きもいいとこだ。
5/2 22:55[ Twipple for Android ]

namatahara
鳩山首相は普天間基地を、最低でも県外に移すとあてもなく言い、沖縄県民を裏切った。菅首相は沖縄との関係を良くする為のなんの努力もしなかった。沖縄の県民はとても憤っている。その神経を逆撫でするように野田首相は沖縄県民と話し合いをする事なく辺野古に移す、辺野古に移すと言い続けている。
5/2 22:59[ Twipple for Android ]

namatahara
無責任極まりない。だからこそ沖縄県民は米政府より日本政府に不信感を持ち、米軍より自衛隊を嫌うのだ。民主党政権になって、野中さんや岡本さんのように一年の殆どを沖縄で暮らし、沖縄の人々と密着して話し合う大臣も政治家も全くいない。
5/2 23:02[ Twipple for Android ]

namatahara
番組を見た視聴者の方達から、番組が偏り過ぎている、左翼ばかりが出ている、と言う批判が多かった。だが、決して偏った人選をしたのではない。地元の放送局に平均的な人々を集めて貰ったのである。沖縄の人々が日本政府に如何に不信感をもっているか、という証拠だと思った。
5/2 23:07[ Twipple for Android ]

namatahara
僕は、民主党幹部達がなんとかして沖縄の人々の信頼感を得なければならず、その為には担当大臣、そして民主党の幹部達が、それこそ沖縄に住み込んで沖縄の人々と何十時間も何百時間も話し合う事が肝心だ。だが、その努力を全くしていない。残念ながら視聴率は四年ぶりの低視聴率だった。
5/2 23:11[ Twipple for Android ]

namatahara
東京はじめ、本州の人々は沖縄の問題は自分たちには関係ない、沖縄の問題は沖縄の人々に押し付けておけばよい、と思っているのではないか。今回の沖縄での朝生は、考えさせられる事が実に多かった。
5/2 23:14[ Twipple for Android ]
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上の田原さんのツイートの中に「番組を見た視聴者の方達から、番組が偏り過ぎている、左翼ばかりが出ている、と言う批判が多かった」「残念ながら視聴率は四年ぶりの低視聴率だった」という言葉がある。

昔、『news23』で筑紫哲也さんが、「この番組内で沖縄のことを取り上げると『なぜ沖縄ばかり取り上げるのか、偏っている』という苦情の電話がよく入る」と言っていたように記憶しているのだが、戦後日本人は国防の負担を米軍と沖縄の人達に負わせて、自分たちはその分身軽になって経済繁栄のための営みに励み、その繁栄の果実を本土の人間だけで味わったという「罪の意識」的な感覚というのを全く持たないで暮らせて行けてる人達なのだろうかと疑問に思うところもあるのだが。


(当番組の今回の主な出演者)
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● 沖縄で激論!日本安全保障とアジアの平和

番組進行:渡辺宜嗣(テレビ朝日アナウンサー)、村上祐子(テレビ朝日アナウンサー)、三上智恵(琉球朝日放送キャスター)
司会:田原総一朗
パネリスト:福山哲郎(民主党・参議院議員、参院外交防衛委員長)、小池百合子(自民党・衆議院議員、元防衛大臣)
糸数慶子(無所属・参議院議員、沖縄県選出)、大田昌秀(元沖縄県知事)
ケビン・メア(元米国務省日本部長、元沖縄総領事)、謝花尚(琉球朝日放送報道制作部長)
手嶋龍一(外交ジャーナリスト、作家)、前泊博盛(沖縄国際大学教授、元琉球新報論説委員長)
森本敏(拓殖大学海外事情研究所所長)、葉千栄(東海大学教授)
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最近自分が漏れ出してきた

2012年04月27日 20時22分53秒 | follow me(フォロー&ついてきて!)
ぼくは自分が
もともと内気な性格に加えて子供の頃から「盲人」であり
「病院浸け(診察浸け、検査浸け、入院浸け)」の環境因子が
加わったせいか、とても我慢強い人間に育ってしまったように思うのだが、
それが最近体力の衰えとともに「我慢の堤防」が
決壊しやすくなってきたと自覚しているのである。

今までなら心の内にとどめていたような思いや考えや感じたことなどを
わりと表に出すようになってきていると思う。
いわゆる「キレやすくなった」とでも言おうか。
仮に「体力の衰え」という要素を取り除いて残るものから分析してみると
「年を取って人生に慣れてきて気持ちの出し方のテクニックを少し身に付けたから」
ということになるのかもしれないが。
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日本人は合理性より情緒性?

2012年04月24日 02時50分17秒 | 考えていること
ぼくはその昔『朝まで生テレビ』にファックス投稿したことがある。
募集テーマは「日本の将来について」といったような内容だったと思う。
そのとき自分が書いた内容として2点ほど覚えている。
まず一つ目は「日本は“文化国家”“職人国家”を目指すべきではないか」と書いたと思う。
そして二つ目は「日本人も合理的判断ができるようになればまだまだ行けるのではないか」と書いたと思うのである。

翻ってわが国の現状を見るにやはり未だに合理性より情緒性を優先させる価値判断、
行動様式が多数を占めているように思えるのである。
そのことは国の方向性を誤らせる危うさを秘めているもののように思えるのであるが如何だろうか。
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「人の褌で相撲を取る」のはどうもねぇ

2012年03月21日 15時23分05秒 | 思い
「日本人はすごい」「日本人は素晴らしい」「日本人は優秀だ」と吹聴して回る人というのがマスコミ、インターネット上によく出てくる。

でも、その人自身を見ると「確かに日本人が思いやりがあって、正確さ・熱心さなどにおいて仕事人としてのプロ意識が高い人たちだというのは知ってるけど、でも少なくともこの人からはその“優秀さ”は感じられないなぁ」というのがほとんどのケースなのはなぜだろう?

「“日本人は素晴らしい”だから“同じ日本国籍を持っている自分も素晴らしい人間だ”」という持って回った論法でもって“自分”という人間を誇ろうというせこい考えがどうも嫌だなぁと思う。

「日本人が云々」という前に自分が世の中から評価されるような何者かを持つ人間になることを志すのが先なんじゃないかなぁと思ってしまうのだが。
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「餌の取り方を教える」教育を

2012年03月15日 07時47分56秒 | 考えていること
ま、ぼくの昨日今日の思いつき的「教育論」なんですけども、およそ「教育」と名の付くものはすべて「餌の取り方を教える」もののことを指すのではないかとも思えます。

それは「子供にたいする教育」ばかりのことではなく、さまざまなところからの「社会更生プログラム」においても同様かと思われます。

(鳥とか)動物の場合は単純に「自分で食べ物になる動植物を自分で取れるようになって巣を出て行く」ということを遺伝子レベルの子育てプログラムをもって伝えて行けばいいだけの話なのだろうと思うのですが、「人間」の場合はそう簡単には行かないもので、大きな大脳でもって作り上げられてしまった複雑な社会にあっては「餌の取り方は一通りや二通りではない」というのがややこしい話で。何となくのぼくのイメージだと、100や1000はあるのではないかとも思うのですが。

でも、親が子に伝えられる「餌の取り方」というのは自分が経験してきた一通りか二通りのやり方くらいしかないわけで。

そこで「学校教育」でいろんなパターンの「餌の取り方」があることを教えられればいいのですが、単一的価値観に支配された現場では、やはり限られた方法論しか教えられない。

そんなことで、「ニート」や「引きこもり」と呼ばれる人々が生み出されているのではないかとも思うのです。さらには、生きる意欲を持てずにひっそりと人知れず「餓死してしまう人たち」をもです。

「餌の取り方」を子供(若者)たちに教えるために、大人たちは「社会」というフィールドをなるべく広く、なおかつ的確に捉えてアドバイスできる「目」を持たなくてはならないのではないでしょうか。皆が「社会を熟知した大人」にならなくてはいけません。
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スタレビ、ほか

2012年03月09日 09時01分09秒 | 好きな音楽リスト
★スターダスト・レビュー
『今夜だけきっと』
歌詞の内容はどうでもいいのですが(笑)、
メロディーラインがぼくのツボにぴったり当て嵌まる曲。


★崎谷健次郎
『もう一度夜を止めて』
(80年代流行ってた)シンセドラムの音が曲にちょっと合わないかなぁって思うけど。


THE ALFEE
『SWEAT&TEARS』
シングルレコード買ったことあり。


★Chage & Aska
『Morning Moon』
なんか、ドラマチックな感じがするところがいいですかね。
(『YAH YAH YAH』のほうが盛り上がりますかね(笑))


★オフコース
『時に愛は』
『さよなら』


★矢井田瞳
『My Sweet Darlin』
「ダリン・ダリーン」のフレーズが調子良くて好きかな。


★ネーネーズ
『黄金の花』
この歌を聴くと、自他ともに認める“沖縄ファン”だった筑紫哲也さんのことを思い出してしみじみとしてしまう。
筑紫さんは沖縄の人々の〈素朴で純情な〉ところを愛し、
日本人の、いつの間にか“お金第1主義”となってしまった人々の価値観を反省して
この歌に惹かれたのかもと思う。
沖縄のイベント会場でこの歌を初めて耳にした筑紫さんは
涙がボロボロ出てきてしょうがなかったという。
早速関係者のところに駆けつけ『news23』のエンディングテーマ曲として、もらう約束を取り付けたという。
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「人間中心主義」か、「システム(役割)中心主義」か

2012年03月08日 07時01分47秒 | 考えていること
またまたぼくの「推測的日、欧米比較論」でございます。
今回は「欧米の“(全人的)人間中心主義”」対「日本の“システム(役割)中心主義”」でございます。
(前にもこんな話書いたっけ?書いてないよなぁ、たぶん)

“人間中心主義”というのは「良くも悪くも」ということでございますね。
昔は、黒人奴隷は“人間”じゃなかったし、女性というものも一人前の“人間”としては認められてないところがあったかもしれないし、基本的にアジア、アフリカの人間なんてのは「野蛮で未開なものたち」という理解だったのではないでしょうかね。

でもまぁ、一旦“人間”として認められ“人間”に昇格すれば、快適で最適な人間らしい生活を追及する資格が与えられるという感じでございますかね。

「人間らしい(全人的)生活」というのは、“自由”が認められ、家庭を大事にし、仕事を持ち、地域活動をし、政治活動もし、休暇も十分取り…、といったことにでもなるのでございましょうか。

これに対して、日本では「システム中心主義」「役割中心主義」であったのではないでしょうかね。
「“人間”なんてのは、自然の一部にすぎず、それほど価値の高いものでもない」くらいに思ってきたとでも書くと言い過ぎになるでございましょうか。
日本では「人の命」がそんなに大事にされてこなかったのではないかという印象がぼくにはあるのでございますが。
たとえば、切腹とか心中とか神風特攻隊とか、何だか“自死”を美化するような価値観があるように思えるのでございますがね。「形あるものは壊れる」「滅びの美学」「諸行無常の響きあり」といった陰が日本には付きまとう感じがしないでもないかなぁとぼくには感じられるのでございます。
(これに対して一神教の人々というのは“神”という“永遠、永久の存在”につながっている人々という感じがする)

そんな価値観が人々の背景にあるのではないかと。
その上で人々の振る舞い方は「システム中心主義」「役割中心主義」なのではないかと。
たとえば「働かざるもの食うべからず」で「とにかく人間ん、仕事をしていて自分の【食い扶持さえ確保していればそれで良しとされる存在なのだ」(※)というような感じ、社会的やくわりとして「仕事をする役割を果たしていればそれだけで足りる存在」として見なされてしまう。「【穀潰し」という言葉を初めて聞いたときには「ひどい言葉だなぁ」と思ったものでした。

“システム(役割)中心主義”だから会社にあっても、転勤、単身赴任、過労死なんて非人間的扱いも受け入れてしまう。

社会に対しては「自分はこれこれの正業を持ち日々せっせとそれに勤しんでいるのだから、政治家は政治家、役人は役人としての正業をしっかり果たしてもらいたい」という期待感で見るのみで自分から積極的に動こうとはしない。

人々とのつながりに関しては“仕事を縁”としてつながる関係のみで、“地域を縁”とするつながりや、“趣味や宗教を縁”としたつながりを持たない人が多くを占める社会に、我々の社会はなってしまったのではと思うものでございます。果ては“家庭崩壊”なんてことにも。

「まず、システムありき」と考える日本人は、“システム”という“全体”の中にポジショニングされた自分をその役割において最適化することに心を砕き、自明であるシステムを変えたり、壊したりということにはうまく手をだせない人たちなのではないでしょうか。

これに対して“(全人的人間中心主義)”の欧米などでは、時代時代によって“人間”にとって快適、最適でなくなってしまったシステムについては、みずからの手で変えたり壊したりすることが当然のことになっているのではないのでございましょうか。

自らの手でうまくシステムを変えられない日本人には、もう古くて変えなければならないシステムを壊すのに“外圧”が必要となるわけでございますね。

日本を変えるためには「人間、仕事をしてさえいれば一人前の存在」ということから「人間、あれもやればこれもやる(全人的)存在」であるということへの人々の価値観の転換、そういうことが可能となる“余裕の持てる生活”を後れるような政策の策定などが必要となってくるのではないでしょうか。


※ 子供の教育でいえば「学校のお勉強さえしていれば、家の手伝い等、ほかの社会的役割等には関心を持たなくても良い」という教育のされ方、とか。
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偶然か必然か

2012年03月04日 05時51分47秒 | 思い
人の心というものは不自由なもので、自分に関係があるような身の回りで起きた出来事を「偶然に起きたこと」というよりかは「必然として起きたこと」と捕らえがちであろうと思うのである。

偶然に起きた諸々の事柄をただ「偶然のもの」としてゴミ箱行き的に処理してしまうのはもったいないと思うのか、貧乏根性的にそれらの事柄を「必然的なもの」として読み替えてしまうことが多いものなのではないだろうか。

「縁」とか「運命」という言葉を人は大変よく用いるものである。

また、そういった人たちの中から占いや宗教に引かれがちな人も多く出るのではないだろうか。

「偶然」を「必然」と読み替えることの効用は、それらの事柄の関連性の中にポジティブな要素を見出し、そこから生きるためのパワー、原動力を導き出し、より主観的になって人生をポジティブに生きられるようになることのようにぼくには思える。

逆に、「偶然」を「必然」と読み替えることの危険性は、それらの事柄からネガティブな要素を見出し、自分で自分の心を縛ってしまい身動きが取れなくなってしまったり、洗脳などにより悪徳占い師やカルト宗教など他者の意のままのコントロール下に置かれ、集金マシーンの役割を負わされたりするようになったりすることではないだろうか。

ぼくの場合は基本的に、自分に起きた事柄を「偶然のもの」として頭の中で処理してしまうことが多いので、自分の人生をよりパワフルに生きて行くということができず、だいぶ引いた感じの生き方になってしまったのだが、その代わり、自分が障害者ということもありよく宗教の勧誘を受けたりもしたけれど、そういうものに入らずに生きてきたという(たぶんこれはいいこと)こともあったりする。

「自分にとって“障害”の持つ意味とは?」=「単なる遺伝子のプログラムエラー」ということになる。つまり「偶然」である。そこからは特に「生きて行くためのパワー」は引き出せないのである。

どちらが幸せかと考えると、より主観的に生きられるほうがたぶんその人個人にとっては幸せなのだろうなぁと思うのであるが。
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“泥鰌”で洒落

2012年01月31日 08時15分15秒 | ギャグ、ユーモア、ジョーク、洒落
A:今の総理大臣は“泥鰌大臣”ってわけなんだけどさ、
 昔もいたんだねぇ“泥鰌大臣”てさ。

B:へぇ、そうなの?

A:平清盛とかさ。

A:それは“太政大臣”ってやつじゃないの、確か?
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『3・11大震災 シリーズ27 放射線を浴びたX年後 ビキニ水爆実験、そして・・・』というのを観て

2012年01月31日 06時54分47秒 | memo
「NNNドキュメント’12 『3・11大震災 シリーズ27 放射線を浴びたX年後 ビキニ水爆実験、そして・・・』」
(1月29日(日) 24:50~ ナレーター:鈴木省吾 制作:南海放送)
http://www.ntv.co.jp/document/

〈1954年。18ヶ所の漁港に鳴り響くガイガーカウンターの音。水揚げされる被ばくマグロ。南太平洋から戻るマグロ漁船の船体や乗組員の衣服、頭髪、そして魚からも、強い放射能が検知された。アメリカが太平洋で行った水爆実験は、広大な範囲で大気と海水と魚などを汚染。「放射性降下物」は、日本やアメリカ本土にまで届いていた。しかし事件から7ヶ月後。被ばくマグロが続々と水揚げされる中、日本政府は突如、放射能検査を打ち切った。数日後、両国政府が文書を交わし、事件に幕を引いたのだ。人々の記憶から消え、歴史から消し去られた被ばく事件。なぜ、これまで明るみに出なかったのか。そこには、両政府の思惑と人々の切実な思いがあった。8年にわたる取材から事件の全容を浮かび上がらせる。〉

というのを観ました。

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NNNドキュメント|日本テレビ|2012-01-30(月)0050 TVでた蔵
http://datazoo.jp/tv/NNN%E3%83%89%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%88/541489

2012年1月30日放送 0:50 - 1:45 日本テレビ
NNNドキュメント

『3.11大震災 シリーズ26「放射線を浴びたX年後 ビキニ水爆実験、そして…」』

2011年3月、原子炉から放出された放射性物質がばら撒かれ、繰り返された「直ちに健康に影響はない」という言葉が人々を一層不安にさせた。元高校教師の山下正寿さんは27年にわたり、かつてアメリカが太平洋で行った水爆実験による放射能被害を調査してきたという。山下さんが撮影してきたフィルムには被爆者らの言葉が収められていた。

1954年3月1日、アメリカがビキニ環礁で行った水爆ブラボー実験がマグロ漁船「第五福竜丸」を襲い、乗組員たちは被曝し、その6ヶ月後に亡くなった。キャッスル作戦と名付けられた水爆実験は3ヶ月の間に6回行われた。そして「セシウム・ストロンチウム・ヨウ素・プルトニウムなど」が放出された。尾野スミエさんはこの事件で立て続きに夫・兄・義兄を亡くした。

高知県土佐清水市に放置されていたマグロ漁船「第五住吉丸」はかつて「第五福竜丸」と同じ海で創業していた。住吉丸を発見したのは当時高校教師だった山下正寿さんと生徒たちで、被曝したのかどうかを調査したという。それから山下さんらは調査活動を開始し、3年に渡る調査の結果、被災者の消息判明者は241名で、内77名が被曝により亡くなっていた。

山下さんの調査は高校教師をやめた後も継続され、長崎県南島原市口之津町に趣き、事件の被爆者である貨物船・弥彦丸乗組員の家を訪ね調査を行なっていた。調査のさなかで山下さんは被爆者である崎山船長の漁業日記から被害の実態を辿ることが出来た。

漁業日記には1954年2月24日に幸成丸は2週間を掛け南太平洋を目指したという。3月1日にアメリカは1発目の実験となる水爆ブラボーを爆発させ幸成丸の通信長は無線を傍受し福竜丸が死の灰を浴びたと判明したという。その頃、幸成丸はマーシャル諸島へ向け進んでいた。そしてアメリカが定めた危険区域を避け11日からマグロ漁を始めたという。

1954年3月27日にアメリカは2発目の水爆ロメオを爆発させ、幸成丸にも死の灰が降り注いだ。生存者の一人である桑野浩さんは当時被っていた帽子が自身を守ってくれたと考えているという。また同じく生存者の松野繁樹さんは知らず知らずのうちに除染をして助かったという。港に帰った幸成丸を待っていたのはマグロの放射能検査であり、またマスコミなどで港は騒然としていたという。

幸成丸の構成員は、命がけで捕って来たマグロが目の前で廃棄処分になっていくのを見ているしかなかったという。幸成丸の被曝は読売新聞などの新聞でも取り上げられ、乗組員も全員が被曝量を測定されたという。高知県室戸市に住んでいる崎山船長の妻・順子さんは当時は船員に補償がなければいけないとうを口にできない時代だったと物語った。

水爆実験後、海流により日本に迫る放射能汚染で日本近海の魚も被曝していたという。その年の延べ992隻が被曝した魚を廃棄した。ところが水爆実験から僅か7ヶ月で日本政府は突然にマグロの放射能検査を中止した。その4日後にアメリカとの文書に当時の2百万ドルで事件に幕を閉じる決断を下した。日本大学の専任講師であり、放射線防護学が専門の野口邦和さんに乗組員が浴びたであろう放射線量の算出を依頼し、乗組員の被曝量は10時間その場にいるだけで急性障害をきたすほどの量だったという。

神奈川県横須賀市に住んでいる有藤照雄さんは幸成丸構成員の数少ない生き残りで、事件後は自身の体験したことを家族にさえ言えなかったという。その後に妻の光江さんに被曝したことを明かしたという。国から被曝したと認められていない有藤照雄さんたちは補償を受けることが出来ずにいる。2年前に南海放送が入手したアメリカエネルギー省(旧 アメリカ原子力委員会)の秘密文書にはキャッスル作戦による世界規模の放射性降下物の詳細が克明に記されていた。

放射性物質の広がりを示す地図に幸成丸の航路を重ねて解説し、幸成丸の被曝は当事者であるアメリカの機密文書によって裏付けられたという。また実験の1年前には既に122ヶ所の観測所が設置されていた。このことから専門家はアメリカは世界規模の汚染を承知していたのではと語った。広島市立大学広島平和研究所講師の高橋博子さんは、当時アメリカが水爆ブラボーがアメリカ本土で爆発したと想定し、どの様な被害がでるのか検証していたことを突き止めたという。アメリカは第五福竜丸事件から僅か2年後に核実験を再開し、レッドウィング作戦・核爆弾フラットヘッドと核爆弾テワを投下した。そして1962年にもドミニク作戦で世界最強の核兵器を手に入れた。

高知県宿毛市に、生存者僅か2名という船・新生丸があった。11年前に岡本豊子さんが自宅に帰ると夫・清美さんが倒れて亡くなっていたという。マグロ漁船・新生丸も死の灰を被った船で、清美さんは乗組員だった。1988年5月11日に初めて被爆者救済を求め、高知県にてビキニ被災船員の会が発足された。代表世話人となった清美さんは議会に働きかけ医師と連携し自分たちで健康調査を行い被曝の事実を国に認めさせようとしていた。その後にビキニ被災船員の会は会員の死亡が相次いだことで解散を余儀なくされた。

調査を始めた頃は40代の現役高校教師だった山下正寿さんは今では高知県太平洋核実験被災支援センターにてビキニ環礁での被曝実験を解明し、被災者を救済したいと活動を続けており、ビキニ被災で影響を受けた人にも原爆手帳を申請するよう求めている。日本中を放射性物質が覆ってから60年が経った2011年に再び放射性物質が日本に降り注いだ。

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「アメリカって酷い国だなぁ」と思った。
日本漁船等に被害が及ぶことを予め予測しながらも自分の国の軍備の充実を図るために核兵器の実験を断行したりしたのだから。
アメリカの首都ワシントンで水爆が爆発したという想定で200キロ離れたフィラデルフィアでの被害を測定するための実験をしていた、とか。その200キロ地点が第五福竜丸の久保山無線長らがいた場所だった、とか。
公式には一応「想定していた危険区域よりも広い範囲に影響が出てしまった」とかそういうことになっているのかな。
でも、分かんないですよねぇ、広島、長崎に落とした原爆でも立前は「戦争を早く終わらせるためだった」と言っているようだけど、それならば一発だけでよさそうなものを。
実証実験、人体実験の側面もあるんじゃないかとかって疑いたくもなるというものです。

世界を支配する側からすれば「多少の犠牲はしょうがない」と考えるものなんでしょうか。平穏な生活を踏みにじられた極東の島国の名もなき漁民などは「運が悪かったのだ」とかとでも考えるのでしょうか。
「共産独裁体制のソ連からアメリカが頑張って“自由”を守ったのだからいいじゃないか」ってことなんでしょうかね。

それにしても日本政府というのは「長いものには巻かれろ」「寄らば大樹の陰」てな具合で、自国民を守ろうとはしないものなのかなぁ。
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最近の神保哲生さんの関心事(と思われる)問題‐原発事故後の日本のエネルギー政策について

2011年12月05日 12時42分17秒 | 考えていること
11月29日頃の『ニュース探究ラジオ Dig』(tbsラジオ)のラジオ・コラム・コーナーで神保哲生さんが以下のような話をしていました。

〈一連のエネルギー関係の委員会の問題というのを分析してきました。
結局、委員会で決まったことが政府案になって国会で議論されるんだけれども、国会で議論される頃にはもう枠組みができてしまっていて、委員会というのは人選を役所がやっていて、だいたいもう人選でほぼどういう答申が出るかというのが事前に分かっているような委員会ばかりなんですよ。
今まさに“福島”を受けてエネルギーの新しい見直しをやっているときにその委員会がいろいろと、特に「原発をどうするか」という議論をしている中で、原発に対する推進派がどこも圧倒的多数を占めていて、反対側が今回は少しは入ったけれど、反対意見というのは少数意見として答申に入らないあるいは両論併記されるけど採用されないというような状態になる可能性が今高い議論が続いているということは、リアルタイムでお伝えしているんだけれども、もう一つ大事な委員会の問題があって。
原発云々はともかくとして、再生可能エネルギーをこれからどうやって日本が増やして行くかが非常に重要なわけですが。それがないと「原発やめる?やめない?」とかいっても「じゃぁ全部化石燃料でやるのか?」という話になったら、co2の問題やコストの面からいってもあまりにも不安定で無理があって。
「再生可能エネルギーをいかにして増やすか」というのはもうはっきりしているんですね、それは“固定価格買取制度(全量全種固定価格買取制度)”というものを作れるかどうか。これは世界で再生可能エネルギーのシェアを増やしている国=ドイツやスペインなど基本的にはこの制度を導入しているかどうか次第なんです。
これを導入できていない国=デンマークなどは一旦導入したんだけれども途中で政権が変わってそれをやめたから急に落ちてしまったということもあったりとか。
これがもうキモなんですよ! これをメディアが「キモだ」ということを言わなきゃいけない。
これをちゃんとやれば再生可能エネルギーがどんどん増える。たとえば10年間とか長期的に買取をやるということを決めれば10年間で回収できればいいから投資ができる。
これが本当に大事なんだけれども、これが菅さんが「やめる」と言った条件の一つの法律だったわけだけれども、最初は再生可能エネルギーの“推進法”“促進法”といわれてたのが“再生可能エネルギー(特別措置)法”になっちゃったりしたんだけれども、とにかく法律はできたわけです。
その中で「“買取にすること”は決めても“買取価格”は後から政省令で決める」と書いていて、これをいくらにするかによって(再生可能エネルギーの供給量が)伸びるか伸びないかがはっきりすることになるというわけで、だからここが一番“キモ”なわけです。
そのキモとなる買取価格について議論する“調達価格等算定委員会”の5人の委員のうち3人が固定価格買取に否定的、反対の人が選ばれちゃっているわけです。
法律には「中立的な人物を選ばなければいけない」と書いているのにです。それでngoの方々が抗議の記者会見を開いたりしている。ここをメディアが報じないとダメ! ここがキモなんです! ここをメディアがすぅっと素通りしてしまっているところが僕は非常に不満だし、罪深いことだと思う。このメンバーで委員会ができちゃったらまぁ、だいたいどんな内容になるかは分かっていて、「国会でもめる頃にはもう遅い」ということになってしまう。つまりこのまま政府が出したメンバーが通ってしまうと今後日本で再生可能エネルギーの普及は進まない可能性が高いですよと言いたい。〉

それで、その後「www.videonews.com」のサイトの番組の中で、「とりあえず朝日の社説で取り上げられたことはメディア的には一つの明るい材料だ」のようなことを言っていたので、web検索で記事をチェックしてみました。

 (朝日新聞社説 12月2日)
〈再生エネ委―こんな人事に誰がした
 太陽光など再生可能エネルギーを大きく増やす電力買い取り制度が来年7月に始まる。その要となる「調達価格等算定委員会」の人事案に、環境団体や自然エネルギー推進派の議員から疑問の声があがっている。
 提示された委員候補5人のうち3人が、法案の成立や制度のあり方に否定的だったり、消極的だったりした人物で占められている、との指摘だ。
 この委員会は、電力会社が再生可能エネルギー電力を買い取る際の固定価格を審議する。経済産業相が、その意見を尊重して価格を決める仕組みだ。
 価格を高くすれば自然エネルギーへの投資を促す。半面、電気料金に上乗せされるため、家庭や企業の負担は増える。
 委員会の設置は政府提出の法案にはなく、民主、自民、公明3党による修正協議で決まった。中立的で透明な手続きで価格を決める必要があるとの判断からだ。国会同意が必要な委員の人選についても「3党が誠意をもって対応する」との政調会長合意が交わされている。
 このため、委員人事は表向きは経産相が国会にはかった形だが、3党から前もって推薦してもらったという。民主党が野党時代に日銀総裁案などに反対を続け、国会が紛糾したような事態を避けたいという思惑があったことは想像に難くない。
 人事案でとりわけ問題視されているのが、新日鉄の進藤孝生副社長だ。
 買い取り価格が過大にならないよう、需要側の意見を反映することは大切だ。しかし、進藤氏は国会に参考人として呼ばれた際、「電力多消費産業」と自らの立場を述べ、負担が重くなる法案成立に難色を示した。
 その後、電力を大量に使う事業所は電気料金への上乗せ分が8割免除されることになったものの、「制度反対」の先頭に立っていた業界代表だ。
 委員会を推進派で固めろとは言わないが、立法の趣旨とは異なる人選ではないか。進藤氏は委員長含みとされているので、なおさらだ。
 震災後、買い取り制度の重要性は大きく増した。原発依存度を下げるうえで自然エネルギーの普及は喫緊の課題だ。震災前の法案を、そうした変化を踏まえて充実した中身に仕上げたのが与野党協議だった。それだけに、この人事案は残念だ。
 自然エネルギーの新規参入や業務拡大を促すためにも、委員会人事で停滞している余裕はない。経産相は人事案を取り下げて、あらためて3党と協議してはどうか。〉

ぼくは思いました。やはりマスコミというのは、何か国民に不利益をもたらしそうな法律の制定に関して、国会で法案可決直前になって一斉に騒ぎ立てて「一応マスコミとしての責務は果たしましたよ」という顔をしておしまいにしてしまうのではなく、ちゃんと実際に問題のある法案を止める効果を果たすために“委員会段階”から監視の目を光らせるようにしなくてはならないのだと。
ぼくは「どっちなんだろう?」と思います。大手マスコミの人たちというのは、この国、この社会にとって何が優先して考えなければならない問題かという“問題意識”が希薄な人たちなのだろうか、それとも、問題の核心を突くような報道をするとあちこちに角が立つのであえて直前まで知らんぷりを決め込んでいる確信犯的な人たちなのかということを。
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