「権利主張」が欧米の文化ならば、日本は「思いやり」の文化かなぁと、ふと思ったんですが。
在日米軍駐留経費の日本側負担の一部(?)のことは「思いやり予算」と呼ばれていますが、これはこの制度を始める際の当時の政治家さんの思いを表した呼び名ということでしょうか。
「相手への思いやりの気持ちを形に表したものだから多少の無理は折込済みで拠出してあげましょう」といった気持ちが込められているのかもしれません。
一方、米側からしてみれば「ただ自分達の言い分が通っただけ」「権利の主張が当然のものとして認められただけ」という風にしか思っていないのかもしれません。
同じお金のことであっても両者には認識のギャップがあるのかもしれないなと思ってしまったりします。
よく親や教師は子供達に「思いやりを持つように」と教え、諭します。
でも「思いやりを持つ」というのはステレオタイプ的に思わず口にしてしまう言葉だとは思いますが、これでなかなか実際には簡単なことではないのじゃないかと思ったりするのですが。
昔の日本のように、大多数の人が同じような生活をし、同じような価値観を持ち、外国人もそんなにいないような同質性の高い社会に暮らしていれば、「自分のしてほしいことを相手にしてあげればいいし、自分がしてほしくないと感じることは他人にもしない」といった感じの“思いやり”を持つということは比較的容易なことだったかもしれないけれど、現代のように多様なライフスタイルや価値観を持った人々が混在して暮らしているような社会においては、他人の気持ちを慮るということがなかなか難しいのではないだろうか。
「良かれ」と思ってしたことが、「余計なお世話」だったり「ありがた迷惑」だったりという“すれ違いコミュニケーション”を生みやすい状態、それが「思いやり文化」のおかれている現状とはいえないだろうか。
ところで、「権利主張の文化」では人の生き方は積極的になり、「思いやりの文化」では人の生き方が受身的になるということはないのだろうか。
障害者や病気の人、孤独を感じてしまう老人など、社会から隔絶され気味の人達って、日本の場合、他国に比べて、一般の人々・社会からの疎外感がつよかったりするのではないかと想像してみたりするのですが。
それは生き方の構えが、「相手からの思いやり待ち状態」だからではないかと。「なぜみんな自分に思いやりのある言葉をかけてくれないのだ」「なぜみんな思いやりのある心で自分に接してくれないのだ」「自分は皆から忘れ去られた存在なのか」とか考えすぎたりして。
一方、一般の人々からしてみれば、「その人のことは気になってはいるけど、どう声をかけたらいいのか、どう接したらいいのか、皆目見当がつかなくて」とか「ハンディキャップのある人達のほうから声をかけられればそれに応じる用意はあるけどこちらからアプローチするのは何だか気が引けてしまって」とかいうことかもしれないし。
「思いやり待ち状態」というと、日本人の“苦情の形”というのも「思いやり待ち状態」の生き方に関係しているようにも思えます。
欧米ならば、「自分にはこれこれの権利があるので認めてほしい」となるところを日本人では「あなた(方)は私(達)に対して当然持つべき思いやり、配慮を欠いている」という風になってしまうのではないでしょうか。
テレビ番組のコントで食べ物を使うと、「食べ物を粗末にしてはいけない」という苦情がくるのでテロップを入れてみたり、めんどうくさいのでそういったものは自粛してしまったりするそうです。
その苦情の理由としては、「飢餓で苦しむ国の子供達の身になってみろ」とか、「子供の教育上良くない」というのもあったりするのでしょうか。つまり、他人に対する思いやり不足、配慮不測だと。
また、たとえば「街中のこの場所にガードレールや柵がないのは問題だから改善せよ」といった苦情なども「子供やお年寄りといった弱い人達への思いやり不足、配慮不測」への責任追及なのかもしれない。
政権与党の国民への富の再配分のための予算ばら撒きも、建前上では一つの「思いやりの形」とみることもできなくはないかな、とか。
“大岡裁き”も“水戸黄門”も、上の者から下の者への「思いやりの形」に見えてくる。
あと、「相手の気持ちを慮りすぎる人」と「思いやりの欠けらも持たない人」との組み合わせでのコミュニケーションでは“不幸”が生まれたりするのではないか。
極端なケースの場合では、相手の気持ちを慮りすぎる女の人と自分の気持ち・言い分だけを押し込んでくるような男の人との間で殺人事件とかが発生するってこともあるのではないかなぁと、ニュース番組を見たりしているぼくなのですが。
それから、“死刑廃止”の是非について、日本の世論は「死刑制度やむなし」が大勢を占めるようですが、これも「思いやり不足の形」なのかもと思ったりして。
まぁ、「殺人なんかをする人の気持ちや立場などとても想像できないし、想像したくもない。思いやりを持つなら被害者(遺族)へ当然持つべきものだろう」ということかもしれないですが。
戦後の日本は欧米的な「権利主張の文化」を中途半端にしか取り込めなかったと思います。それは“権利”“人権”といったものを頭で理解するだけで、体験的に会得してきたものではないからではないかと思います。
いまさら同質性の高い社会に戻れるわけもないので、このままだと「思いやりの文化」はうまく機能しないと思います。
「思いやりの文化」をうまく機能させて行くためには、深い教養と豊かな体験などを身に着ける必要があると思います。
多くの本(映像コンテンツでも音声コンテンツでもいいのかなぁ?)を読んでいろんなライフスタイルや価値観の人の体験(障害者本や闘病記といった日常を描いたエッセーとか)を追体験したり、実際の体験を通して見聞を広めることによって、他人の気持ちや立場を慮るための想定、想像の範囲をできるだけ広げて行くことでしか、「的確に思いやること」はできないのではないだろうか。
今後日本は、欧米的な「権利主張の文化」を頑張って自分達のものにするために努力して行くのか、伝統的な「思いやりの文化」に磨きをかけて行くのか、どっちにするのでしょうかね。
【こんな問題設定するぼくのほうがちと的はずれだったりするのかなぁ(笑)】
在日米軍駐留経費の日本側負担の一部(?)のことは「思いやり予算」と呼ばれていますが、これはこの制度を始める際の当時の政治家さんの思いを表した呼び名ということでしょうか。
「相手への思いやりの気持ちを形に表したものだから多少の無理は折込済みで拠出してあげましょう」といった気持ちが込められているのかもしれません。
一方、米側からしてみれば「ただ自分達の言い分が通っただけ」「権利の主張が当然のものとして認められただけ」という風にしか思っていないのかもしれません。
同じお金のことであっても両者には認識のギャップがあるのかもしれないなと思ってしまったりします。
よく親や教師は子供達に「思いやりを持つように」と教え、諭します。
でも「思いやりを持つ」というのはステレオタイプ的に思わず口にしてしまう言葉だとは思いますが、これでなかなか実際には簡単なことではないのじゃないかと思ったりするのですが。
昔の日本のように、大多数の人が同じような生活をし、同じような価値観を持ち、外国人もそんなにいないような同質性の高い社会に暮らしていれば、「自分のしてほしいことを相手にしてあげればいいし、自分がしてほしくないと感じることは他人にもしない」といった感じの“思いやり”を持つということは比較的容易なことだったかもしれないけれど、現代のように多様なライフスタイルや価値観を持った人々が混在して暮らしているような社会においては、他人の気持ちを慮るということがなかなか難しいのではないだろうか。
「良かれ」と思ってしたことが、「余計なお世話」だったり「ありがた迷惑」だったりという“すれ違いコミュニケーション”を生みやすい状態、それが「思いやり文化」のおかれている現状とはいえないだろうか。
ところで、「権利主張の文化」では人の生き方は積極的になり、「思いやりの文化」では人の生き方が受身的になるということはないのだろうか。
障害者や病気の人、孤独を感じてしまう老人など、社会から隔絶され気味の人達って、日本の場合、他国に比べて、一般の人々・社会からの疎外感がつよかったりするのではないかと想像してみたりするのですが。
それは生き方の構えが、「相手からの思いやり待ち状態」だからではないかと。「なぜみんな自分に思いやりのある言葉をかけてくれないのだ」「なぜみんな思いやりのある心で自分に接してくれないのだ」「自分は皆から忘れ去られた存在なのか」とか考えすぎたりして。
一方、一般の人々からしてみれば、「その人のことは気になってはいるけど、どう声をかけたらいいのか、どう接したらいいのか、皆目見当がつかなくて」とか「ハンディキャップのある人達のほうから声をかけられればそれに応じる用意はあるけどこちらからアプローチするのは何だか気が引けてしまって」とかいうことかもしれないし。
「思いやり待ち状態」というと、日本人の“苦情の形”というのも「思いやり待ち状態」の生き方に関係しているようにも思えます。
欧米ならば、「自分にはこれこれの権利があるので認めてほしい」となるところを日本人では「あなた(方)は私(達)に対して当然持つべき思いやり、配慮を欠いている」という風になってしまうのではないでしょうか。
テレビ番組のコントで食べ物を使うと、「食べ物を粗末にしてはいけない」という苦情がくるのでテロップを入れてみたり、めんどうくさいのでそういったものは自粛してしまったりするそうです。
その苦情の理由としては、「飢餓で苦しむ国の子供達の身になってみろ」とか、「子供の教育上良くない」というのもあったりするのでしょうか。つまり、他人に対する思いやり不足、配慮不測だと。
また、たとえば「街中のこの場所にガードレールや柵がないのは問題だから改善せよ」といった苦情なども「子供やお年寄りといった弱い人達への思いやり不足、配慮不測」への責任追及なのかもしれない。
政権与党の国民への富の再配分のための予算ばら撒きも、建前上では一つの「思いやりの形」とみることもできなくはないかな、とか。
“大岡裁き”も“水戸黄門”も、上の者から下の者への「思いやりの形」に見えてくる。
あと、「相手の気持ちを慮りすぎる人」と「思いやりの欠けらも持たない人」との組み合わせでのコミュニケーションでは“不幸”が生まれたりするのではないか。
極端なケースの場合では、相手の気持ちを慮りすぎる女の人と自分の気持ち・言い分だけを押し込んでくるような男の人との間で殺人事件とかが発生するってこともあるのではないかなぁと、ニュース番組を見たりしているぼくなのですが。
それから、“死刑廃止”の是非について、日本の世論は「死刑制度やむなし」が大勢を占めるようですが、これも「思いやり不足の形」なのかもと思ったりして。
まぁ、「殺人なんかをする人の気持ちや立場などとても想像できないし、想像したくもない。思いやりを持つなら被害者(遺族)へ当然持つべきものだろう」ということかもしれないですが。
戦後の日本は欧米的な「権利主張の文化」を中途半端にしか取り込めなかったと思います。それは“権利”“人権”といったものを頭で理解するだけで、体験的に会得してきたものではないからではないかと思います。
いまさら同質性の高い社会に戻れるわけもないので、このままだと「思いやりの文化」はうまく機能しないと思います。
「思いやりの文化」をうまく機能させて行くためには、深い教養と豊かな体験などを身に着ける必要があると思います。
多くの本(映像コンテンツでも音声コンテンツでもいいのかなぁ?)を読んでいろんなライフスタイルや価値観の人の体験(障害者本や闘病記といった日常を描いたエッセーとか)を追体験したり、実際の体験を通して見聞を広めることによって、他人の気持ちや立場を慮るための想定、想像の範囲をできるだけ広げて行くことでしか、「的確に思いやること」はできないのではないだろうか。
今後日本は、欧米的な「権利主張の文化」を頑張って自分達のものにするために努力して行くのか、伝統的な「思いやりの文化」に磨きをかけて行くのか、どっちにするのでしょうかね。
【こんな問題設定するぼくのほうがちと的はずれだったりするのかなぁ(笑)】