カトリック宮津教会(聖ヨハネ天主堂)です。
明治21年宮津へ来たフランス人神父ルイ・ルラーブが命じ29年(1896年)この天主堂を建築。
長崎・大浦天主堂とならんで明治の面影を今もとどめています。
和風ロマネスク様式の木造建築物としてわが国最古のものだそうです。
珍しく、畳敷きの教会だとのことで、見学させていただきたかったのですが、祈りの時はだめだと書いてありましたので・・・。
前夜、宿泊した宿の方からの情報をもとに、友人と二人で、パンフ片手に散策したのですが、この日は、私達二人の他に、観光客らしい人は、全く見かけませんでした。
11月初旬から、美味しい松葉がにのシーズンが始まるので、その頃には、宮津にも人が集まってくるのでしょうか!?
明治21年宮津へ来たフランス人神父ルイ・ルラーブが命じ29年(1896年)この天主堂を建築。
長崎・大浦天主堂とならんで明治の面影を今もとどめています。
和風ロマネスク様式の木造建築物としてわが国最古のものだそうです。
珍しく、畳敷きの教会だとのことで、見学させていただきたかったのですが、祈りの時はだめだと書いてありましたので・・・。
前夜、宿泊した宿の方からの情報をもとに、友人と二人で、パンフ片手に散策したのですが、この日は、私達二人の他に、観光客らしい人は、全く見かけませんでした。
11月初旬から、美味しい松葉がにのシーズンが始まるので、その頃には、宮津にも人が集まってくるのでしょうか!?
宮津は城下町です。細川藤考・忠興が丹後を領有して、天正8年(1580年)、海岸に城を築いたのが始まりです。
城は一度焼失しており細川氏が豊前中津へ移封後に丹後を治めた京極氏の手で再建されました。
京極氏の初代高知は田辺にいましたが、その死後遺命によって丹後は三分され、高広が7万8千石をもって宮津の藩主となりました。
寛永2年(1625年)には城と町がほぼ整備されて高広が宮津に入っています。
現在の市街地の区画は旧城郭部を除いて、高広が完成した城下町の街すじをほぼそのまま残しています。
京極氏のあと永井、阿部、奥平、青山と城主が代わり、宝暦8年(1758年)遠州浜松から本荘氏が入国、以後明治にいたりました。
城下町宮津は、名勝天橋立をひかえ、昔から観光の町として、また西廻り航路の立ち寄る港として、江戸時代以来発展しつづけました。
有名な貝原益軒の西北紀行に「京より28里あり、町すこぶる広し、海辺にて魚塩器材乏しからず、諸国の船ここに集まる。
ゆえに商家富めり・・・・」と書いているのをみても、元禄時代の盛況が知られ、さらに「ちりめん機一千」といい、「酒屋鑑札56枚」といった事実を知るとき、城下町宮津のにぎやかさは想像以上であったことがうかがえます。
有名な宮津節は、ここを通り過ぎる多くの人々によって全国に広がったものです。
(『細川ガラシャ・与謝野蕪村ゆかりの町 丹後の宮津 素朴な海の城下町ごあんない』/宮津観光ピント会・宮津温泉組合 より転記)
城は一度焼失しており細川氏が豊前中津へ移封後に丹後を治めた京極氏の手で再建されました。
京極氏の初代高知は田辺にいましたが、その死後遺命によって丹後は三分され、高広が7万8千石をもって宮津の藩主となりました。
寛永2年(1625年)には城と町がほぼ整備されて高広が宮津に入っています。
現在の市街地の区画は旧城郭部を除いて、高広が完成した城下町の街すじをほぼそのまま残しています。
京極氏のあと永井、阿部、奥平、青山と城主が代わり、宝暦8年(1758年)遠州浜松から本荘氏が入国、以後明治にいたりました。
城下町宮津は、名勝天橋立をひかえ、昔から観光の町として、また西廻り航路の立ち寄る港として、江戸時代以来発展しつづけました。
有名な貝原益軒の西北紀行に「京より28里あり、町すこぶる広し、海辺にて魚塩器材乏しからず、諸国の船ここに集まる。
ゆえに商家富めり・・・・」と書いているのをみても、元禄時代の盛況が知られ、さらに「ちりめん機一千」といい、「酒屋鑑札56枚」といった事実を知るとき、城下町宮津のにぎやかさは想像以上であったことがうかがえます。
有名な宮津節は、ここを通り過ぎる多くの人々によって全国に広がったものです。
(『細川ガラシャ・与謝野蕪村ゆかりの町 丹後の宮津 素朴な海の城下町ごあんない』/宮津観光ピント会・宮津温泉組合 より転記)