くつろぎの隠れ家風古民家【丹波篠山まつかぜ屋】

名古屋コーチン・丹波篠山牛・猪肉料理など。完全予約制。駐車場有り。駅弁「新デカンショ弁当」の予約販売も。

アンネットさんのこと④

2011年02月22日 | 音楽
記事をそのまま転記させていただきましたので、長い文章になりました

ですが、これで、アンネットさんという人物の概略は、わかっていただけるのではないでしょうか!?

その後、昨年も、NHKハイビジョンテレビのドキュメンタリー番組が放映されたりしましたが、その反響もとても大きかったようです。

そんなアンネットさんの、生の歌声を、丹波のホールで、聴いて楽しむことができるなんて、本当に夢のようですね

この10月15日(土)のコンサートにより、関西でも、多くのファンがふえますように
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アンネットさんのこと③

2011年02月22日 | 音楽
世に出た砂中のダイヤモンド

 国立歌劇場入団後、アンネットさんは有色人種であるが故に「黄色の猿」と呼ばれ、夢を託した街ウィーンでも、厳しい差別と迫害を受ける。しかし親日家であったカラヤンの庇護を受け、バーンスタインにもその人柄と歌唱力を愛されて、その地位は次第にゆるぎないものになっていった。2006年の暮れに出版されて自伝「ウィーン わが夢の町」(新潮社)のオビには「ひとは、これほどの差別に遭っても花を咲かすことができるものか」という言葉が記されている。「その通りだ」と、輪足も思う。前記の自伝によると、「歌い続けたい」という彼女の希望が若き日の恋を破綻させ、遂にはウィーンで造り上げた元貴族との家庭も崩壊させてしまったという。だがアンネットさんは、齢(よわい)70歳に近い現在でも、歌の道を諦める気持ちは毛頭ないようである。家族と音楽への想いの間(はざま)に立たされて、自殺を図ったこともあったと聞く。

 アンネットさんとお知り合いになってしばらくして、私はNHKのラジオ深夜便で、彼女が自費で製作されたCDから、有名な≪ウィーン、わが夢の街≫を放送した。2004年3月のことである。歌声を聴き、一途の人生航路に感動した担当アンカー・遠藤ふき子さんが即座にインタビューを申し込み、今度はおふたりの対談「国際舞台で歌い続けて」が、全国聴取者の反響を招ぶ(よぶ)ことになる。

 自伝の上梓、今回のCD録音は、ラジオ深夜便で真夜半に流れたアンネットさんの、ウィーンからの歌声が契機となって実現した、これ全て「運命の神のお導き」としか説明のしようのない出来事である。NHKは更に、人気番組「課外授業 ようこそ先輩」の主役に彼女を起用して、総合TVの電波に乗せた、舞台は少女時代、孤独の日々を過ごしたあの岡山県吹屋町の小学校であった。

 CD製作に当たり、録音スタッフはレコーディングの場所を、あえてその吹屋町とその近くのホールに選んだと聞く。歌は、歌詞・メロディもさることながら、歌い手の”心の表現”でなければならない。そのためには、音や響きもさることながら、まず歌う場所の設定から考える・・・心遣いの細やかさ、歌手アンネットさんへの配慮に、私は胸を衝かれる想いであった。しかも彼女は、録音現場でのスタッフとの厳しいやりとりの最中、「19歳の頃修行させられた邦楽=三味線、琴、小唄などの記憶が当然脳中に蘇り、日本歌曲入魂の歌唱を扶けました。人生に無駄なんでないんですねえ」と語って涙ぐんだのである。

 ダイヤモンドは砂中に埋もれていても、いつかは世に顕れて光彩を放つ。アンネットさんが故郷に寄せる歌声は、私達に生きることの意味と素晴らしさを、言わず語りに教えてくれているようである。』

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アンネットさんのこと②

2011年02月22日 | 音楽
その苛烈な人生

 彼女の願いはただひとつ。「生涯歌い続けたい。命ある限り」というひと言に尽きる。

 生活の手段として、或いは社会的名声や金銭を得るための”職業”として、歌手を志したのではない。歌手という”生き方”を、彼女は若き日に選んだのである。だがその選択が、アンネットさんにどれほど過酷な日々をもたらしたか・・・・・。

 アンネット・ストゥルナート=旧名・高島一恵さんは兵庫県西宮で、日中戦争勃発の翌年(1938年)生を享けた。中国大陸でひとかどの財を成していた父親のもとに移り、上海の豪邸で異郷暮らしを満喫していたが束の間、太平洋戦争の敗戦(1945年8月)と同時に、彼女の運命は暗転する。日夜生命の危機に晒されながら大陸各地を放浪すること1年有余、持てるもの全てを失って帰国した高島の一家は、雨露を凌ぐだけの陋屋(ろうおく:いうなれば物置小屋)を、岡山県北部の吹屋町(現在の高梁市成羽町)に与えられた。  

 食費にも事欠き、母国語を正確に話すこともできない少女一恵は、周囲からいじめに遭い、一時声まで失いかける。しかし暗夜に手探りで歩くような生活の中で、彼女は歌に目覚め、楽才を自覚して、独学で歌手を志すようになって。10代半ばのことである。

 19歳のとき親戚の養女となって東京に出、歌の道に進もうとするが、音大の受験に失敗、入団した合唱団では学歴を理由に差別を受ける日々が続く。万策尽き果てた彼女は、最後の夢をヨーロッパに託して、身辺を整理し、自ら退路を断って、独りロシアのシベリア鉄道に乗り、ウィーンに向かった。

 「無謀」としか言いようのない行動であったが、幸運にも現地で名教師を捜し当て、彼女は名門国立音大に入学を許される。更に世界の檜舞台・ウィーン国立歌劇場に、同歌劇場始まって以来初めて、東洋系の団員歌手として採用が決定した。結婚相手にも巡り合って、アルト歌手アンネット・ストゥルナートが誕生したのが1971年、彼女33歳の春である。
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アンネット・一恵・ストゥルナートさんのこと

2011年02月22日 | 音楽
アンネットさんについては、以前何度かこのブログでも、ご紹介させていただいていますが、できれば、さらに多くの方々に知っていただくために、今後も、記事に載せていくつもりです。

今日は、アンネットさんのCD付属の冊子に掲載されていた記事を、ご案内します。

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「アンネット・ストゥルナート その”心の歌”に寄せて」 中野 雄より転載:

アンネットさんとの出逢い

 「不思議な人がいるんですが」

 作家の藤倉四郎氏がポツリと、呟くように語りだした。ウィーン国立歌劇場の団員歌手で日本人、「もう30年以上歌っているんです。しかも、元貴族の家系に嫁がれて」。

 「信じられない」と、私は思った。ウィーンの音楽界には「世界一」と言っても言い過ぎではないほど排他的な空気が充満していて、その牙城が有名なウィーン・フィルと、母体であるウィーン国立歌劇場であることは、音楽関係者なら常識に属する事柄だからである。巨匠カラヤンですら、イタリア人スタッフの採用問題が火種になって、総監督辞任に追い込まれるという仕打ちに遭っている。

 私があまりにも疑い深い顔つきをしたからだろう。藤倉氏は微笑んで、「では、近いうちにご紹介しましょうか」と言い、その日の会話は途切れた。

 そしてある日、アルト歌手アンネット・ストゥルナートさんが私の前に現れたのである。トレードマークになっている幅広いつばのついた帽子、エキゾティックなメイキャップ。年齢不詳。お会いするなり、「アンネットと呼んで下さい。ストゥルナートって姓、発音しにくいでしょう」と切り出した。そして、「私の渾名(あだな)は”魔女”なんですよ」と、穏やかな声で自己紹介した。藤倉氏ご夫妻とは、信州の小さな町のコンサート会場で偶然知り合ったのだという。

 日本人━というより、東洋系初の団員歌手として、世界に冠たる名門、ウィーン国立歌劇場の舞台に立ったという話は事実であった。この歌劇場の前身は、ヨーロッパに覇を唱えていたハプスブルク帝国の宮廷歌劇場である。1869年にモーツァルトの歌劇≪ドン・ジョバンニ≫を杮(こけら)落しに解説されて以来約100年間、東洋人歌手を入団させたという記録はない。アンネットさんは1971年、まさに東洋系歌手第1号として入団を果たし、以来30数年間、驚くべきことに定年の65歳を過ぎてもなお、舞台に立ち、歌い続けていたのである。

 お話をしていると、ベーム、カラヤン、バーンスタインなど、往年の名指揮者のエピソードが次々にとび出してくる。嫁ぎ先はベートーヴェンの理解者・保護者としても有名なラズモフスキー伯爵の末裔で、ご自宅の玄関前の通りがラズモフスキー・ガッセと名付けられていることまで判った。「何故いままで、日本の音楽界の話題にならなかったのか」。考えても判らないし、問われても答えようがない。アンネットさんご自身、稀有な経験を自己宣伝などに一切使って来られなかったし、事実をひけらかして名声を博そうなどというお気持ちを持たれたこともないようなのである。
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