『河原町は、篠山築城に際して、川筋を南に移して造成された町並みである。まず、慶長15年(1610年)、八上城下から観音寺、真福寺が移され、翌年から町屋の建築が始まった。正徳元年(1711年)には153軒となり、現在とほとんど同数であったと言われる。
城下町特有の曲がりくねった狭い道路の両側に、約600メートルにわたって、間口全部が開口部となっている、妻入り半(中)二階桟瓦葺きの商家が、延々と軒を並べている。それぞれ敷地いっぱいに建てられ、間口は5メートルから8メートルほどであるが、奥行は約40メートル前後もある。
表構えは、かつては大戸と千本格子や荒格子または蔀(しとみ)で構成されていた。半(中)二階の窓は出格子と太い格子を漆喰で塗りこめたむしこ窓であり、さらに袖壁、梲(うだつ)も造られている。
この町並みは、京都への出入口でもあって、城下町で最も繁栄したが、その後、商店街の中心部が、北西部に移ったことにより、かえって、江戸末期からの生活の様相を今にそのまま残し、西端に建つ西坂家は、町の文化財に指定されている。』(梶村文弥著「改訂ふるさとの探訪」)
城下町特有の曲がりくねった狭い道路の両側に、約600メートルにわたって、間口全部が開口部となっている、妻入り半(中)二階桟瓦葺きの商家が、延々と軒を並べている。それぞれ敷地いっぱいに建てられ、間口は5メートルから8メートルほどであるが、奥行は約40メートル前後もある。
表構えは、かつては大戸と千本格子や荒格子または蔀(しとみ)で構成されていた。半(中)二階の窓は出格子と太い格子を漆喰で塗りこめたむしこ窓であり、さらに袖壁、梲(うだつ)も造られている。
この町並みは、京都への出入口でもあって、城下町で最も繁栄したが、その後、商店街の中心部が、北西部に移ったことにより、かえって、江戸末期からの生活の様相を今にそのまま残し、西端に建つ西坂家は、町の文化財に指定されている。』(梶村文弥著「改訂ふるさとの探訪」)
篠山春日神社の、秋の大祭で活躍する山鉾の一つ、鳳凰山(ほうおうやま:下河原町)の保管場所。
他に、三笠山(みかさやま:上河原町)、孔雀山(くじゃくやま:上立町)、高砂山(たかさごやま:下立町)、剣鉾山(けんぼこやま:呉服町)、猩々山(しょうじょうやま:上二階町)、諫鼓山(かんこやま:下二階町)、蘇鉄山(そてつやま:魚屋町)、鏡山(かがみやま:西町)などがある。
他に、三笠山(みかさやま:上河原町)、孔雀山(くじゃくやま:上立町)、高砂山(たかさごやま:下立町)、剣鉾山(けんぼこやま:呉服町)、猩々山(しょうじょうやま:上二階町)、諫鼓山(かんこやま:下二階町)、蘇鉄山(そてつやま:魚屋町)、鏡山(かがみやま:西町)などがある。