(小嶋星子先生の記事の続きです。)
音楽を通じての国際交流、メンバーの人たちもどんなにか感激が大きいだろう。しかし、計画が次第に本格的になっていった折も折、平成7年1月17日の阪神・淡路大震災が起こった。神戸と篠山は近い関係にあり、篠山の人たちの家族、親戚縁者は阪神間にいる。私宅も被災した親せきを預かったり、ボランティアで神戸へ行ったり、大変な時期を経験した。こんな阪神大震災の時に、と企画を断念しようかと考えていた時、13区の区長から電話が入った。「6月10日に、シェーンブルン宮殿の大広間で『オーストリア』『アイルランド』『日本』の三カ国の国際コンサートを計画したい」との事。私は阪神大震災の現状を話し「篠山も神戸には大変ゆかりのある地域です」と話した。彼らはすでに大震災の惨状を知っていて、見舞を送ったという。しかし篠山と神戸との地域的なつながりは知らなかった。「とりあえず、二、三週間返事を待ってほしい」私はそれしか言えなかった。丹波の森協会や社会情勢に詳しい人に早速相談した。
「大切な国際親善に役立つことで、兵庫県に明るいニュースが作れます。復興にもつながる事です。前向きに考えなさい」とアドバイスを受けた。しかし、現実問題は厳しかった。第一、シルバーエコーの参加希望者の数が減った。参加予定の宝塚の合唱団も不参加になった。大震災からまだ数カ月の海外公演である。未曾有の震災の後には、仕方のないことであった。丹波地方の合唱団に呼びかけ、三味線、大正琴などの和楽器演奏者、日本舞踊の人達にも声をかけた。全て自費負担にもかかわらず、各パーツから数名の参加が決まった。日本独特の曲を日本独特の雰囲気で、演奏できる喜びは、ひとしおであった。
しかし、合唱の方で、ハーモニーを作る各パーツのバランスが合わず悩んだ。その時、ウィーン13区と姉妹提携を予定している羽曳野市に合唱団があることを知り、丹波の森協会を通じて、参加をお願いした結果、三十数名が参加して下さった。日が迫っており、練習も合同で二度というものであったが、こうしたかかわりが、二つの地域が交流を深めるきっかけとなった。
「はびきの女性合唱団」は、指揮者は中野彰氏で、すばらしいハーモニーで声量もあり、実力をもった合唱団だった。「この合唱団と一緒に演奏が出来る」と思うと、不安がだんだん希望に変わっていった。
ウィーンのミカエル合唱団の指揮者、ラデック氏からの電話、FAXなどで打ち合わせが始まった。「演奏は30分以内、ピアノなし」との事。オールドコーラスはヨーロッパの人達のようにアカペラに慣れていないので、ポータブルピアノを持参する交渉中、ピアノの準備が出来たとの知らせを受け、ほっとした。
日本の歌をオーストリアの聴衆に分かってもらうために、一曲一曲をドイツ語で注釈した。しかし、日本の風景、情景を翻訳するのはむずかしい。”夕焼けの美しさ””カラスの鳴く情景””山寺で狸や和尚さんが木魚を叩く光景”日本民謡の由来と意味、などなどを聴衆にどう理解してもらえるか悩んだ。その時私は、日本に来て間もないチバガイギーのスイス人に、ドイツ語の特訓を受けていたが、彼に日本の風習を理解できれば、彼の地の聴衆も・・と思ったが、なかなか難解なことであった。
日本の楽器を洋風の合唱の楽譜に合わせて演奏することも大変なことであった。渡欧の日が迫ってくる。カレンダーと、にらめっこしながらの多忙な日々が続いた。
いよいよ6月7日、七十数名のウィーン、シェーンブルン宮殿での第演奏会に向けてのツアーである。二つのグループに分かれて、機上の人となった。大切な時間を使って、期待して参加してくれた七十数名の人達に満足してもらえる演奏が出来るだろうか。私は人間関係も含めて全責任を負っている自負で心が重たかった。
音楽を通じての国際交流、メンバーの人たちもどんなにか感激が大きいだろう。しかし、計画が次第に本格的になっていった折も折、平成7年1月17日の阪神・淡路大震災が起こった。神戸と篠山は近い関係にあり、篠山の人たちの家族、親戚縁者は阪神間にいる。私宅も被災した親せきを預かったり、ボランティアで神戸へ行ったり、大変な時期を経験した。こんな阪神大震災の時に、と企画を断念しようかと考えていた時、13区の区長から電話が入った。「6月10日に、シェーンブルン宮殿の大広間で『オーストリア』『アイルランド』『日本』の三カ国の国際コンサートを計画したい」との事。私は阪神大震災の現状を話し「篠山も神戸には大変ゆかりのある地域です」と話した。彼らはすでに大震災の惨状を知っていて、見舞を送ったという。しかし篠山と神戸との地域的なつながりは知らなかった。「とりあえず、二、三週間返事を待ってほしい」私はそれしか言えなかった。丹波の森協会や社会情勢に詳しい人に早速相談した。
「大切な国際親善に役立つことで、兵庫県に明るいニュースが作れます。復興にもつながる事です。前向きに考えなさい」とアドバイスを受けた。しかし、現実問題は厳しかった。第一、シルバーエコーの参加希望者の数が減った。参加予定の宝塚の合唱団も不参加になった。大震災からまだ数カ月の海外公演である。未曾有の震災の後には、仕方のないことであった。丹波地方の合唱団に呼びかけ、三味線、大正琴などの和楽器演奏者、日本舞踊の人達にも声をかけた。全て自費負担にもかかわらず、各パーツから数名の参加が決まった。日本独特の曲を日本独特の雰囲気で、演奏できる喜びは、ひとしおであった。
しかし、合唱の方で、ハーモニーを作る各パーツのバランスが合わず悩んだ。その時、ウィーン13区と姉妹提携を予定している羽曳野市に合唱団があることを知り、丹波の森協会を通じて、参加をお願いした結果、三十数名が参加して下さった。日が迫っており、練習も合同で二度というものであったが、こうしたかかわりが、二つの地域が交流を深めるきっかけとなった。
「はびきの女性合唱団」は、指揮者は中野彰氏で、すばらしいハーモニーで声量もあり、実力をもった合唱団だった。「この合唱団と一緒に演奏が出来る」と思うと、不安がだんだん希望に変わっていった。
ウィーンのミカエル合唱団の指揮者、ラデック氏からの電話、FAXなどで打ち合わせが始まった。「演奏は30分以内、ピアノなし」との事。オールドコーラスはヨーロッパの人達のようにアカペラに慣れていないので、ポータブルピアノを持参する交渉中、ピアノの準備が出来たとの知らせを受け、ほっとした。
日本の歌をオーストリアの聴衆に分かってもらうために、一曲一曲をドイツ語で注釈した。しかし、日本の風景、情景を翻訳するのはむずかしい。”夕焼けの美しさ””カラスの鳴く情景””山寺で狸や和尚さんが木魚を叩く光景”日本民謡の由来と意味、などなどを聴衆にどう理解してもらえるか悩んだ。その時私は、日本に来て間もないチバガイギーのスイス人に、ドイツ語の特訓を受けていたが、彼に日本の風習を理解できれば、彼の地の聴衆も・・と思ったが、なかなか難解なことであった。
日本の楽器を洋風の合唱の楽譜に合わせて演奏することも大変なことであった。渡欧の日が迫ってくる。カレンダーと、にらめっこしながらの多忙な日々が続いた。
いよいよ6月7日、七十数名のウィーン、シェーンブルン宮殿での第演奏会に向けてのツアーである。二つのグループに分かれて、機上の人となった。大切な時間を使って、期待して参加してくれた七十数名の人達に満足してもらえる演奏が出来るだろうか。私は人間関係も含めて全責任を負っている自負で心が重たかった。