goo blog サービス終了のお知らせ 

ドクトル アインスの小部屋

関東エリアの某病院の勤務医です。大学病院のいろいろや医療の事、日常の事を気ままに書かせて下さい。

みかわしま

2006年04月02日 | 砂の権威

かなりお久しぶりでの復活です!

 

 「砂の権威」第二章

  新垣先生の取り計らいにより、私は、突然入局初年度の10月からインターベンションセクションに配属された。インターベンションは、当時大人気であり、聞くところによれば、新入医局員が初年度からそこに回れる確率は宝くじで一等を当てるくらいに低く、異例な事のようであった。新垣先生は、新人雲上人でありながらこの医局ではかなりの力を持っている事が証明されたのだった。 

  三河先生は、初めて会ったときから破壊的に明るかった。シャイな私ではあったが、ほぼ同年代の彼とはあっという間に意気投合した。普通なら、インターベンションは、同じくらいの学年のものが同時にローテンションするとやりたい手技がバッティングするため、いさかいになる事が多く、異なる学年のものをまわす事になっている。しかし、彼と私は、ほぼ同学年であったのにもかかわらず10年来の友人であるかのようにいつも一緒にいた。あまりに仲がよかったため、影では、「三河島:みかわしま」と呼ばれていたようだったが、そのときは知る良しもなかった。                                   ああ、やっと復活かあ! 遅いぞ!と思われた方も、期待もしていなかった方もクリックしていただけると怖い展開まで一気に書き挙げられるのですが…   


砂の権威:これまでの登場人物とあらすじ

2006年03月17日 | 砂の権威

砂の権威:これまでの登場人物とあらすじ

主人公:川嶋健太郎

新垣先生:仕事は出来るが、強烈キャラクターの持ち主。川嶋に教授選挙の報告の第一報をした人物。また、川嶋を早くからインターベンションにかかわるように仕向けた人物。

送田先生:主人公がお世話になった内科時代の恩師、川嶋に血管造影の基礎を教えた。

伊川先生:四井病院放射線科部長、主人公川嶋を青葉医科大学に紹介した人物。氏川君:主人公川嶋と出身大学は異なるが同級生。核医学が得意と勝手に自負している強烈キャラ。最期は行方不明に。

大岩先生:主人公が青葉医科大学に入局した当時の副医局長。川嶋より1学年下だが、川嶋より入局が早いためライバル心から主人公を冷遇。  

  運命の日、主人公川嶋健太郎は、教授選挙の結果を知る。自分に有利なはずの選挙結果に対し、言いようもない不安感にかられていた。 ここまでは、そんな川嶋が医学部に入ることを決意し、舞台の中心である青葉医科大学に入局するまでと入局後の様子が描かれている。 今は亡き父に薦められて医者となった川嶋は、内科時代の恩師送田先生に内科の基礎を学び、血管造影、インターベンションの基礎を習った。その後、血管造影を勉強に行っていた四井病院の伊川先生の取り計らいで青葉医科大学放射線科に転身する。青葉医科大学では、坊ちゃん先生と医者に厳しいパラメディカルの狭間で右往左往する事となる。雲上びとや強烈キャラクターの氏川君との出会い、そして、新垣先生の登場。新垣先生の取り計らいで、ついに入局の理由だったインターベンションへの道を進む事となる。

                                応援してくださる方ここをクリックしてくだされば嬉しいです


インターベンション

2006年03月16日 | 砂の権威

「うーそうか。分った」

一瞬それで終わりそうな気配で、大岩先生の顔面に安堵の波が広がり始めようとしたそのとき。

 「おい、大岩!それそろ川島をインターベンションにまわしてやれよ!」

「そ、そうですか?でも来たばっかりですしねー。」

 「そうかも知れねえけどよー。こいつはもともとインターベンションをしたくてうちに来たって言うじゃねえか。」

たしかにそういう話を新垣先生にどういう理由でお前ここに来たんだという質問に対して答えたことがあった。 しかし、すぐにインターベンションをさせてくれと言った覚えはない。否定も肯定もできずにうろたえている私の横で彼は続けた。

 「ほら、来月に来る三河ってやつ来たばっかりでインターベンションまわるんだろ?だったら、川島をまわさねえ理由はねえだろう」

「でも、彼は、インターベンションをする目的で3ヶ月しかいないんですよ。」

「知らねえよ。来たばっかりで3ヶ月後に帰っちまうやからが回れてこいつが回れねえのは変じゃねーか?」

これ以上抵抗しても無駄と判断した大岩先生は、あきらめてとうとう私をインターベンションにまわす決心をしたようだった。

 

*インターベンション:カテーテルという細い管を体の外から血管内に挿入し、それを目的の部位までもっていき、目的の部位の治療を行うもの。血管以外の胆道や消化管についても類似の手技がある。手術と内科的治療との中間に当たる治療法。 上記図に示すように血管造影室または、透視室で、清潔操作ですべて行われる事がほとんど。

 応援してくださる方ここをクリックしてくだされば嬉しいです


ゴキブリ?

2006年03月13日 | 砂の権威

小説「砂の権威」

 

  彼の1時間にも及ぶ講義は圧巻だった。 武道館で5万人もの観衆に対して熱く熱唱するがごとく、ビーオーオーピーについて解説して下さった。

  感動に震えていた私の目にふっとそのとき飛び込んできた。 彼の足の右側の大きな黒い物体。えっもしかしてゴキブリ!?

  よく見ると彼がかかとをつぶしてはき崩したブランド物の黒い革靴だった。

  「言いか、よーーーっく覚えとけ!じゃあな。」

  超かっこいい講義のあとのゴキブリ靴の落ち。 さらに、威圧感のある締め。 いろんな意味ですごいと思った。  

  新垣先生は、このように強烈キャラクターであるが、画像診断力は人並みはずれていたため、誰もが一目置いていた。 たとえ、無駄話が多くてなかなか仕事がすすまなくても。  

  あるとき、一週間のスケジュールを作成している副医局長の大岩先生に次の月からのスケジュールについて宣告を受けていた。 胸部放射線かおそらく骨軟部放射線かもしれないと説明をされているところに、新垣先生は、登場した。

  彼は、突然 「大岩!来月からのスケジュールはどうなっている?」

  「ハイ、こんな感じですが...」

  発表前のスケジュールは通常は人に見せないのだが、いつも新垣先生には聞かれるので、しぶしぶ見せざるを得なかった。 そして必ず何らかの注文が入るのである。 その日もご多分に漏れずに横やりを思いっきりさしたのだが、傍にいた私が一番びっくりした。                                  応援してくださる方ここをクリックしてくだされば嬉しいです


ビーオーオーピー

2006年03月09日 | 砂の権威

小説: 砂の権威

  「ビーオーオーピーってなあ、、つっ、最近注目されるようになったびまん性肺疾患でな、エイチアールシーティー上の特徴は、つっ、スリガラス陰影とコンソリデーションが混在した陰影が非区域性に単発あるいは多発し、うーー時間によって陰影の移動が見られる疾患なんだ。つっ、前の病院で経験しなかったか?」

と怒涛のごとくに私の分らない言語がまるで手品で口から国旗を出すがごとく繰り広げられたのだった。

  「?????」

  「ビーオーオーピー、つっ、つまりブープのことだよ。」

  「あ、ブープですか? ちょっとだけ、来る直前に聞いたことがありますが、実際には見たことは、...」

  と正直に申し上げた。 ブープとはBOOPとずずり、Bronchiolitis obliterance organizinig pnuemonia のことで、当時は通称ブープと呼んでいた。 しかし、彼は、あえてブープといわず、ビーオーオーピーと語り、人を煙に巻いて見せていた。 おそらく、通は、ビーオーオーピーと読んでいるのと見え、誰も言っていない呼称を使うことに快感を覚え、人が知らないと答えるだろう事にも快感を感じていたのだった。

  「そうか、じゃ写真見る?」

  あ、そういうことか? 知らないだろうと思われる人に教育目的?に写真を見せているのだ。 やっと彼の意図を理解した私は、この日が、読影あり、カンファランスあり、抄読会のあった大変な日で、読影もこれからたくさん残っていたが、雲上びとがわざわざ時間を割いて教育してくれるチャンスなんてそうはないので、眼球内にハートをちらつかせて

  「お願いします!」

と答えたのだった。

 

  応援してくださる方ここをクリックしてくだされば嬉しいです


新人雲上びと

2006年03月07日 | 砂の権威

  私が、入局したての頃、新垣先生は、雲上びとになりたてのほやほやで、新人の雲上びとだったが、私には10年以上も前から雲上びとを続けているように見えた。 それだけ、よくものを知っていた。  

  初めて新垣先生が私に声をかけてくださった言葉が、

 「ビーオーオーピーって知ってるか?」 だった。  

 「はあ?」  である。

  冒頭でもお話したように新垣先生の望む答えは

 「し、知りません」 であったことは言うまでもないだろう。 

  彼のそんな性格を知るよしもなかった当時の私は、安易ではあったが、まんまと彼の術中に入り込まされた。

 「知りませんが、なんですか?それ」

 「知らないのか?」

  と述べた彼の唇の右側辺縁が上方へ偏位していた事など私の視力の範囲外の出来事だった。

  応援してくださる方ここをクリックしてくだされば嬉しいです


カンファランス

2006年03月04日 | 砂の権威

 レベルの高いカンファランス

  今日は、消化器関連(肝臓、膵臓、胆嚢、胃や大腸の専門科)の先生と放射線科医、病理医の合同カンファランスが横浜で開催されました。  

  日本では新聞などの報道でなされているようにB型、最近では特にC型肝炎ウイルスに伴う肝臓がん発生が後を絶ちません。そのため、先人の医療従事者により肝臓がんを早期に発見する努力が続けられてきました。肝臓がん早期発見には超音波、CT、MRIなどの画像診断が必須です。これらは、日進月歩で日々刻々と診断技術が向上してきています。10年前では、10cmを超えてから見つかっていた肝臓がんが、今では、1cm以下でも見つける事が可能となっています。しかし、進歩とともに画像診断の仕方も複雑となってきています。ですから、診断に難渋した症例をみんなで持ち寄り、何とか診断できなかったのかどうかということをいろいろな専門科が知恵を出し合って、症例を共有し、今後の医療に役立てていこうという主旨の会です。 

  私は、平成10年頃からこの会の存在を知り、参加させていただくようになりました。会の趣旨としては、出来る限り画像から正しい診断を考えていこうという事らしかったのですが、出てくる症例、出てくる症例が難しく、すごい会だなというのが第一印象でした。私が思っていた以上に内科、外科の先生方の中には、画像をよく知っていらっしゃる方々がいるなあという感じもしました。その後は、3回座長として参加させていただいたものの、時期的にいつも忙しい事を理由に一度も症例提示をしていません(ほんとすいません、そういう意味では貢献してませんね)。  

 今日も、難渋する3例が出てきました。  

 1.門脈内転移を呈したS状結腸癌術後の一例 

 2.難治性肝膿瘍の一例 

 3.APシャントを伴った腎癌術後の血管腫の一例

   いずれの症例も演題を出すときの表題は 難渋した1例 としてだされ、病歴、検査データ、画像からみんなで疾患名を当てていくものでした。当てていくと聞いたら皆さんは、クイズかー馬鹿にするなーとお思いかもしれませんが、カンファランスに参加のみんなは、演題を出された先生のおかれた状況と一緒になって診断をしていくというもので真剣そのものです。今日も、某病院の内科の先生方が、鋭い答えをばしばしお答えになっておられたので、頑張らないとなあ(このかたがたに満足していただく放斜線レポートを書かなければ)と思ったのでした。では、今日は、あまりに専門的でまじめな話ですいません。何の情報も入ってません。投資関係で来られた人すいません。でもついでに以下を押してくださると嬉しいです。

 *なお、貼り付けた画像は、10年以上前の症例で「血管腫」です、今回の会で発表された症例とは何の関係もございません。

 応援してくださる方ここをクリックしてくだされば嬉しいです


行方不明

2006年03月03日 | 砂の権威

こんなこともあった。

ある金曜日の夜、自宅の電話が鳴った。

彼から  

「学会に行ってきました。おみやげがあるので僕のうちまで取りに来てください。」  

「え? 今?」

「そう。とにかく取りに来て下さい。」  

しぶしぶ、彼の家をたずねていくと、彼は、玄関先で  

「ハイ。これお土産」 と言って小さいお饅頭が何個か入ったおみやげを渡してくれた。 しかし、彼の左手には、大きな手提げ紙袋が。 饅頭のにおいが消えないうちにそれを私に差し出すと。 こう言った。  

「あ、これ、僕が図書館で半年以上前に借りたものです。返却し忘れたため、催促が何度も来ています。先生が返しておいてください。」  

はあ。 って感じだったのに、彼の右手から甘味というわなを渡されていた私には断る事ができず、仕方なく、分厚い医学書が何冊も入った紙の袋を受け取らざる得なかった。 意外と彼は戦略家であった。 断っておくが、私は、特に饅頭に眼がなくて食べたくて食べたくてしょうがなかったわけではない。  

彼は、また、出勤時間がまちまちの遅刻常習者で、一週間に1回の医局から派遣されるアルバイト先にも時々、連絡なしに出勤せずドロンという事があった。 結局最後は、大学院の途中で自らドロップアウトしてしまい、現在はまったく行方は分らなくなっている。 数年後に駅であの手提げ紙袋を両手に抱えて小走りで通り過ぎる彼を見たとのうわさが最後となった。

  応援してくださる方ここをクリックしてくだされば嬉しいです


氏川君

2006年03月01日 | 砂の権威

 大洪水に流され続け、呼吸が出来なくなった深夜、一緒に残って仕事をしている連中はいつも同じだった。その中で、氏川君は、他大学出身だったが、私と同じ学年だったため、よく向こうから話しかけてくること多かった。しかし、目つきがおかしく、性格、行動が変わっていた。彼は、自分の出身大学で核医学を相当勉強してきたと見え、核医学は、青葉医科大学放射線科の中でもトップクラスと自負していた。しかし、実力は、闇に包まれていた。なぜなら、当時の青葉医科大学放射線科の弱点は核医学診断だったからだ。

 ある日の深夜、読影に疲れて、ボーとしていると、彼は、仕事がちょっと前に終わったと見え、私の前にやってきて、突然。 核医学の写真に向かって

 「ア、これどういう風にチェッカーは読んだの? えーーーー違うよーーー。違う。違う。違う。間違ってるーーー。ダメだよーそんな読影じゃあ。こういう風に読まないとダメーーーー。」 

 「へー。そうなんだ。じゃあ、そういう風に読んだ方がいいんだ。じゃあ、そうしよっと。」

 「でも、チェッカー様の言うとおりに読んでください。そう読まないとダメー。」  

 「えーーー?」  

 こんな彼に話しかけられると帰宅するためわずかばかり残していたエネルギーを見事に失うのであった。

 

<A HREF="http://blog.with2.net/link.php?240454"> 応援してくださる方ここをクリックしてくだされば嬉しいです</A>


白黒写真の大洪水

2006年02月28日 | 砂の権威

  彼らは、仕事場にいないとき、いったいどこにいるのだろうと不思議に思っていた。 あるとき、どうしても用があって、仕事場とは離れた医局にいかなければならない時があった。 行ってみると、ソファーに座って談笑するチェッカーの方々がいらっしゃったのである。 私の、こころの握りこぶしが強く握られていたのは言うまでもない。 しかし、見方を変えると、このくらいの身分になると、ちょこちょこっと見習いをチェックして、すぐに仕事場から離れ、ゆっくりすることや、研究活動を昼間のうちにできるようになるのだなと逆にがんばって雲上びとまで上ろうというややゆがんではいるが、今のつらい仕事を耐えてがんばれるためのモティベーションみたいなものがちょっと沸いたことは確かである。 

  そうは言っても、来る日も来る日も大量の白黒写真の大洪水をせき止めるために午前様にいたる毎日が少なくとも1年は続くことになった。 大学院生は、前述のように無給で青葉医科大学からはびた一文いただけない。しかも、病院外でのアルバイト収入も大卒直後のサラリーマン以下という有様もほぼ半年も続いたのである。 もちろん、もともとの目的のひとつであった血管造影手技上達の8文字は、大洪水とともに流され、消えてなくなろうとしていた。   

<A HREF="http://blog.with2.net/link.php?240454"> 応援してくださる方ここをクリックしてくだされば嬉しいです</A>