教育のとびら

教育の未来を提言 since 2007
presented by 福島 毅

自他ともに重要という見地からの学校業務改革

2018-09-11 | クイックブックマーク
このブログは、教員の卵(いわゆる教員免許を取得し、これから学校の先生という職業を選ぶ予定の方)も多く見ていることがわかりましたので、その視点で本日はちょっとコメントしたいと思います。

私はいま、教育コンサルタントとして小中学校の現場に携わる機会も多いのですが、多忙問題は何度かこのブログでも取り上げてきたところです。

この教員の多忙問題、今回は業務の効率化とか、部活動の一部業務委託とか、そういう表面的な議論も大事なのですが、その前に根本的なマインドの方に注目したいと思います。

私は、様々な教員の方と接する中で、教員という職業を選択する動機として、大きく2つのタイプに分かれているのではないかと最近、思っています。

1.自分が学ぶのが好きで、その楽しさ、学ぶこと・コンテンツの醍醐味を伝えたい
2.人に教える、指導するという立場をやってみて、自分の何らかの足りてない部分を満たそうという見えない意識が働いていることが動機となっているタイプ


1と2のタイプの違いは、簡単なインタビューで割と容易に見分けることができます。
それは、「仕事のない休日あるいは空いている時間にどんな本を読んでいますか? どんな学びに興味があって取り組んでいますか?」というもの

この質問に対し、「生き生きと自分はこんなことを学ぶのが楽しくてプライベートでもこうして学び続けています」という方は1のタイプ

2のタイプの方は、余暇の時間をプライベートとか自分自身の休息のために時間を費やしていらっしゃいます。

誤解のないように、言っておきたいのですが、1が正解で2が不正解ということを申し上げたいわけではありません。今回はこのことと限度を超えている教員の業務量が無関係だと思えないということなのです。

学校での教育という行為は、”自己犠牲”の要素が強いためにブラックになっています。まずは生徒、保護者目線という立場が善しとされ、要求される業務量に対して多少ブラックな環境になろうとも情熱で乗り切ろうとする。あるいはまわりがそうしているから、自分もそうしなければいけないのだという同調圧力に巻き込まれる。

体力・気力があるうちはそれで通用しますし、一生懸命やった見返りは生徒や保護者の”ありがとう”によって満たされる。つまり、2のタイプの動機であると、自分のなんらかの満たされていない部分を他者への貢献・献身によって満たそうというものが無意識に働いており、それが教育という行為に結びついてしまっているということなのです。

他者への貢献・献身が何がわるいかという向きもあると思いますが、そのこと自体が問題ではありません。基本は精神性が高いと思います。しかし、これが行き過ぎると、他者愛だけの働き方になってしまうのです。すなわち、自分のケアがおろそかになり、肉体的にも精神的にも疲労の限界を超えてむしばんでいきます。気づいたころには、鬱状態になっていたり、バーニングアウトに至ったりします。

この状況を回避するためには、他者も大切だけど、それを支える自分への大切さも俯瞰的にみてバランスよく働くことが大事ではないでしょうか?

具体的には、たとえば教員の勤務時間を月ー金 8時ー17時(昼は1時間休憩)として、その間にできる業務量を逆算して、業務の再設計をするということです。機械的で冷たいと思われても、こうした自分への尊重時間を大幅に増やすことが今の日本の教育現場では急務だと強く提言したいです。

例えば、お金のない時代に積み立ててみんなで旅行にいくというコンセプトの修学旅行。今の時代にほんとうに要りますか? 生徒自身が旅の計画を立てたり、低学年なら両親とお金のかからない身近な旅に出てその休日は欠席に含めないなど、教員負担を代替案はいくらでも出せます。

このような選択と集中という考えや、自他ともに大事であるという基本軸を抑えたうえで、具体的にどうしていくかを考えることでぶれない政策が出てくるものと思ったので、記事にいたしました。


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