教育のとびら

教育の未来を提言 since 2007
presented by 福島 毅

学びプロジェクト -学びの意義・意味-

2008-07-06 | 勤務校時代の実践
学びプロジェクト -学びの意義・意味-

ここでは、ヒト(人)はなぜ学ぶのか? といったことを取り上げます。
生徒の中には、「なぜこのような勉強が必要か?」という疑問を思いながらも、それを押し殺して勉強をさせられている場合が多いのではないでしょうか。 一度、こうした問題について、徹底的に考えてみるのもまた学びではないかと思っています。そして、単に「受験のため、将来のため、資格や技術のため」といった単純解ではない、学びの意義もみつめてほしいと思っています。

学びの意義、理由は複数あると思われますが、それらを整理するといくつかに分かれると考えます。
(1)動物のヒトとしての学び、本能的なもの
 「人間は考える葦である」という諺がありますが、単に食うか食われるかという他の動物の世界とは異なり、ヒトは学ぶことで、世界を大きく広げてきました。そして他の動物にはない人間の文化というものを構築してきたわけです。本能的に学んでしまう動物。遊びという行為のある動物。そして、その遊びも学びの一種であると考えられています。
 今、先進国では暮らしが豊かになり、親に養育される期間が年々長くなっています。こうした地域で、人類は一種、ペット化しているともいえるかもしれません。生活の豊かさ・便利さと引き替えに自らが学び成長するという人間が持つ本能を失っているかもしれません。

(2)自己成長・人生の意義としての学び
 健全な人ならばどんな人も、明るい未来や希望を夢見て生きていたいと思っているでしょう。そこには自己成長をしたい欲求、人としての学び、人生経験としての学びを行う主体である自分。ここにも学びの意義がみつけられます。 自己成長のためには学びは欠かせませんし、人生を意義深い、濃密なものにしたいなら、そこにはやはり学びが必要となります。

(3)社会背景からの必要・必然としての学び
 これが、よく大人が子供に対して答える筆頭になっていると思います。「おまえの将来のためだよ」というものです。国によって温度差はありますが、「より上級の生活・権威・収入・ステータス」といったものを得るためには学びが必要であるといった理由です。これは、現代社会では避けて通れない必定とも思われています。国家機関の中枢・企業の中枢にいる人たちが高度な知識や経験を必ずしも持っているというわけではありませんが、傾向としてそう言えるために、こうした考えは近代では当たり前になってきています。複雑高度化する社会において、高度な技術や複合的な問題解決能力を持つ人々は専門の高度な知識や関連知識に長けていないと通用しないといった事情があります。

(4)学ぶことの楽しみ・学びの広がり
 「こんなことを学んでなんの役に立つのだろう」ということはしばしば体験します。しかし、単純な興味・関心での学ぶ楽しみが後の世に役立つことは枚挙にいとまがありません。
 学んで知る、疑問が解決する、新たな課題がみつかる・・・といったサイクルはなお、人に知的好奇心を喚起させ、学びのサイクルを促進させます。学びは専門の学者だけに許された行為ではなく、人が本能的に持っている知る(五感を通じて)ことが楽しいと感じる行為ではないでしょうか。
 そして学びは時に一人で完成するものではありません。同じ事柄を研究している人が集ったり、議論を戦わせたり、共感したり、新たな仲間が出現したり・・・・ こうした人の共同体としての学びが広がっていくことも学びの本質ではないかと思うのです。

今回は、学ぶ意義について触れてみました。
ご家庭、職場でもぜひ、学ぶとは何だろう ということを話し合ってみてはいかがでしょう?
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 学びプロジェクトの全体像 | トップ | なぜコンピュータゲームは ... »
最新の画像もっと見る

勤務校時代の実践」カテゴリの最新記事