教育のとびら

教育の未来を提言 since 2007
presented by 福島 毅

教員採用試験対策の集団討論の難しさ

2014-06-12 | 雑感(教育関連)
毎週火曜の夜は、渋谷のとある教室で、teacherscollegeという塾のファシリテーターを担当しています。

これから教員採用試験を受け、各自治体の採用を目指しているいわゆる”教員の卵”の養成塾です。

ここでは、毎週火曜日に定例会をしているのですが、その運営は「学習する学校」をめざしています。
塾スタッフが関わるのは最低限で、あくまで参加者の自主的な運営、学びあいによる学習を実現しています。

今回は、採用試験で行われる集団討論を想定して、模擬集団討論を行いました。
方法は、集団討論に出題されそうなテーマをピックアップするところからスタートします。ランダムなテーマから一つ、その場で選ぶため、あらかじめテーマを予測することはできません。これも本番さながらの状況にするための工夫です。

フォーメーションは、集団討論が行われる試験と同様に、6人程度のグループが机を囲って座ります。

集団討論には大きく分けて自治体により以下の選択肢で分類されると思われます。
A 最後に結論をまとめることを指定される/指定されない
B グループリーダー(まとめ役)を決めてから行わせるもの/特に決めない
C メモをとったり紙にまとめることを許可する/許可しない

同じ自治体でも、毎年同じパターンとは限りませんし、受験する自治体や校種は参加者によってまちまちなので、上記の選択肢のさまざまなものについて試してみようと考えています。

今回は最後に結論をまとめる、リーダーは指定しない、メモはOK という方針で行いました。

テーマは「保護者との信頼関係を築く方法」でした。

議論が始まって間もなく、「では、個人で1分ほど考えて、案を提示するという方向で」という進行になりました。この保護者との信頼関係というイメージが参加者間でずれていると次元(土俵)の違う議論になりかみあいません。実際、発表にはいろいろなアイデアが出てきましたが、それはツール。マインドの部分が置き去りに・・・
そうなるとどこを目指してのアイデアかが薄くなり、さらに固定したファシリテーターは不在なのでどこの何の部分の議論をしているのかがあやふやになり迷子になる(いったい今、何を議論しているのだっけという状態)人が出てきます。また、強制力を持ったり場を強く仕切ったりすることはマイナスと想定しているため、お互いにややけん制しあって、出方をみながらの進行になりました。つまり、出てくるアイデアはそれぞれ悪くないけど、現実感が伴わなかったり、ピンとこなかったり、全員が納得感ある合意形成がしにくいことがわかりました。


議論の内容や推移を示すと長くなってしまうので割愛しますが、ここで見えてきたいろいろなことがありますので、書き記しておこうと思います。

<<集団討論実習を行って気づいたこと>>
1.グループリーダーをあえて決めない場合、発言や決まったことの確認がとてもややこしくなる。それぞれの出方などを伺いながらといった余計な気遣いが生じる。ホワイトボードミーティングのように、誰かがまとまったことを板書したり、どこまでが決まっていて、何が問題なのかを常に全員が共有できていることが討論するときはとても大切であること。

2.おそらく試験管が見ているポイントは次の点だと予想される。
・議論の推移はあまり問題ではない。つまり良い結論が導かれたかどうかでなく、個々の受験生の「論理的思考力や問題を把握する能力」「情報発信力」「寛容さ(受容的態度)」「集団内における協調的姿勢」「問いをうまく繰り出せるか(問題発見力)」「リーダーシップやフォロワーシップ」「場に安心感をつくりだせる能力」「自分をさらせる勇気」「臨機応変さ」「発言の公平性などへの配慮」

3.このような状況下における集団討論のコツ
集団討論で大事になってくる要素として、「安心して聴いたり発言できる場づくり」「なぜ、それが大切なのかという理由や方向づけ、またはビジョンの共有」「各個人がオープンマインドになること」「発散と収束のステージを参加者間で共有すること」などがあげられると思います。
特に、最初からアイデアや方策提示をめざすより、まずは問題の本質とかをフリートークして参加者認識の凸凹をならすといった作業が必要といえるでしょう。また、アイデアや方策を決めていくにしても、それはどういうビジョンを目指してのものなのか、なぜやるのかということが全員共通で意識されている必要があるとも思いました。


テレビ番組でも、ファシリテーターは不在で、どこまで何が決まったかが明確でない討論がよくあります。これらはすべて生産的とは言えないものが多いと感じていましたが、今日あらためて集団討論を客観的に観察してそのようなことに気付くことができました。

このスクールに通っている受講生はお互いの理解も深まっている学習する組織となってきています。それであっても、集団討論という人工的なフレームにおいては、スムーズな進行が難しかったのです。
日本にファシリテーターを増やすことは急務と感じる思いが増々強まりました。
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