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ネット長屋の内弁慶

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鉄路の「コメットさん」

2005-08-09 23:46:30 | 鉄道独り言
※今日の一枚:1985(昭和60)年5月、国鉄下関運転所(現・JR西日本下関車両管理室)構内で憩うEF65型電気機関車。寝台特急「明星・あかつき」は1975(昭和50)年3月改正で登場、新大阪-鳥栖間を併結して走った。1978(昭和53)年10月改正で一旦解消するが、1984(昭和59)年2月改正で再登場。翌年3月からは機関車にヘッドマークが付いた。「明星」はその後「国鉄最後の全国ダイヤ改正」で消滅し、「あかつき」は残った。

 コメット=日本語で「彗星・ほうき星」。大昔には彗星を「凶兆」と見なしたこともあったようですが、「夜空を駆ける光の筋」というイメージに合うのか、近代には航空機などの愛称に使われることがありました。例えば、イギリスが第二次大戦後初めて開発したジェット旅客機の愛称は「コメット」でした。また第二次大戦末期、当時のドイツ空軍が投入したロケット戦闘機の愛称にさえ使われました。ちょっと似つかわしくありませんね(ただしドイツ語読みで「コメート」)。さらに「キャプテン・フューチャー」でフューチャーメンたちが搭乗する宇宙船の名前が「コメット号」でした(キャプテン・フューチャーシリーズ第一作が発表されたのは1939(昭和14)年)。
 「コメットさん」は横山光輝さんが1967(昭和42)年に「週刊マーガレット」に連載したコメディーです。遠い宇宙の星から地球にやってきた少女、コメットさんは日本の民家に居候を決め込みます。様々な事件や騒動に巻き込まれますが、不思議な力を駆使して解決するというのが大まかな筋です。二度ほど実写ドラマになりました。
(九重佑三子が演じた初期版は見た覚えがないが、1978年に大場久美子が演じたリメイク版は見ていた)

 さて日本の鉄道の「コメット」です。「彗星」は今からおよそ五十四年前、東京と大阪を結ぶ夜行列車の列車名として使われたのが最初です。当時の東京-大阪間には夜行急行が三往復走っており、1950(昭和25)年10月改正で、そのうちの一往復(第13、14列車)が「銀河」と名付けられました。他の列車は翌月にそれぞれ「明星」「彗星」と命名され、さらに1953(昭和28)年11月には同区間に「月光」が増発されました。
 「彗星」は1956(昭和31)年11月の改正で不定期運転(現在は「季節運転」と呼ぶ)に格下げされましたが、翌年10月改正では戦後初の全席指定「寝台急行」として定期運転に復しました。昭和30年代には「あかつき」「金星」「すばる」と名付けられた列車も登場しました。いずれも夜行列車にふさわしい名前といえます。
 しかしこれらの列車の中で、今も東京-大阪間に健在なのは「銀河」一往復だけです。新幹線が開業した1964(昭和39)年10月の改正で「彗星」は廃止、残った列車も順次減らされ、1968(昭和43)年10月改正では増えすぎた列車名を整理すべく、東京-大阪間夜行急行の列車名は「銀河」に統一されてしまいました。

 その同じ改正で「彗星」は新大阪-宮崎間寝台特急の列車名として復活します。既に1965(昭和40)年10月の改正で、新大阪と西鹿児島・長崎を結ぶ寝台特急「あかつき」が登場していましたが、今度は東九州へのチャンネルが確保されたのです。当時、東京から九州への最も早い交通手段といえば、飛行機を別格として、新大阪乗り継ぎで新幹線と寝台特急を利用するのが一般的でした。乗り継ぎを嫌う人は東京と九州主要都市を結ぶ通称「九州特急(元祖ブルートレイン)」を選び、これらは連日多くの乗客を運んでいました。
 関西から九州へ向かうにも、夜行列車が主力の時代でした。68年10月の改正では、大阪から西鹿児島や宮崎へ向かう昼間の特急も現れましたが、所要時間は実に10時間を超え、昔より早くなったとはいえ苦痛だったことは否めません。それなら横になって行ける寝台列車が楽だと、夜行が持てはやされたと思われます。

 「彗星」は1970(昭和45)年10月改正で都城発着に延長され、1972(昭和47)年3月の新幹線岡山延伸に伴う改正では新大阪-大分間に一往復増発されました。1973(昭和48)年10月改正では二往復、翌年4月改正で更に一往復増発され五往復体制となりました。72年3月から約三年間は関西発着の寝台特急が最も充実した時期でした。「彗星」以外の寝台特急も、急行列車の格上げなどで増発が続き、最盛期の1974(昭和49)年秋には新大阪-西鹿児島・熊本・長崎・佐世保間「あかつき」七往復、新大阪-熊本間「明星(電車)」四往復、京都-西鹿児島間「きりしま(電車)」一往復という陣容となりました。他に名古屋-博多間「金星(電車)」一往復、岡山発着の「月光(電車)」が博多と西鹿児島にそれぞれ一往復ずつ走り、さらに夜行急行、加えて東京発着の寝台特急が多数走り、当時の山陽本線、殊に岡山以西は昼夜違わぬ活況を呈していました。

 転機は1975(昭和50)年3月に訪れました。同月10日、新幹線が博多まで伸びたのと引き換えに、山陽本線の昼間の特急・急行は殆ど廃止され、夜行列車も大幅に減らされます。「あかつき」は長崎・佐世保方面の列車となり、熊本・西鹿児島方面の列車は「なは」「明星」となります。また「彗星」は新大阪-大分・宮崎・都城間に各一往復ずつが残り、都城発着便を除いて電車化されます。このころから、相次ぐ値上げとストライキに音を上げた利用者が自動車または飛行機へと流れ出し、輸送量が目に見えて落ち込むようになりました。
 利用者減少→減収→特急格上げ・運賃等値上げ、という悪循環に陥り、利用者数の少ない列車はダイヤ改正で姿を消しました。「彗星」も例外ではなく、1980(昭和55)年10月改正では大分発着の一往復が、1984(昭和59)年2月改正では宮崎発着の一往復が廃止され、以後「国鉄分割民営化」をはさみ、新大阪-都城間の一往復体制が1995(平成7)年4月まで続きます。この間に「明星」は全廃、「なは」「あかつき」が一往復ずつ残りました。平成に入ると「なは」「あかつき」に座席車が付きましたが「彗星」には付きませんでした。

 95年4月改正で「彗星」は南宮崎発着に短縮され、それ以後も利用者数が伸び悩んだ結果、2000(平成12)年3月改正で京都-門司間は「あかつき」に併結という形になりました。門司以南は機関車を除きわずか四両の客車(多客期は六両)で走るという、全盛期から比べたらあまりにも寂しい姿です。
 そして今年10月1日のダイヤ改正で「彗星」は廃止されることになりました。「ついに・・・」という気持ちと「今までよく残っていた」という気持ちが半々です。「相棒」をなくす「あかつき」は、改正後は「なは」との併結が予定されているようです。ここ数年縮小が続く夜行列車。来年3月の改正でも夜行の廃止が囁かれているとか。「彗星」廃止は、明日をも知れぬ夜行列車たちの行く末を暗示しているのでしょうか。

※参考:JTB「時刻表復刻版・戦後編」、交友社「鉄道ファン」2001年3月号「ブルトレ盛衰記」ほか

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