ネット長屋の内弁慶

当ブログへようこそ。実生活では小心者の私ですが、ネットの上では少しだけ強気にコメントしています。どうぞよろしく。

似て非なること

2005-06-21 23:14:45 | お知らせ

※今日の一枚:今年3月、名鉄市ノ坪駅にて。600型電車は、その特異な外見ゆえ口の悪いファンから「馬ヅラ電車」と呼ばれていたらしい。1970(昭和45)年、美濃町線電車の新岐阜(現・名鉄岐阜)乗り入れ用として誕生、優れた車両に贈られる「ローレル賞」に選ばれたこともあったが、2000(平成12)年に新型車が投入された後は画像の606号を除いて廃車された。揖斐線・美濃町線・岐阜市内線の最期を見届けた同車は転用先もなく、引退と相成った模様だ。


 「視聴率男」が視聴率に泣かされた・・・「久米宏復帰作」という鳴り物入りで始まった日曜夜8時台(放送開始は夜7時57分から)の日テレ情報番組「A」は、今月26日の放送を以って打ち切りが決まったようです。アジア各地の話題を紹介し、ネット中継も交えるという意欲的な構成でゴールデンタイムに挑んだものの、初回から視聴率は芳しくなかったそうで、今月18日の時点で久米氏が降板を意思表示していたとも言われています。もともと久米氏は、番組開始前から「面白くなかったら(番組を)辞める」と宣言していたそうで、打ち切りはある意味「公約を守った」ということかもしれません。しかし、あの「ニュースステーション」でさえ開始当初は視聴率があまり高くなかったと言われており、開始から三ヶ月足らずで白旗を掲げるというのは、いささか性急に見えなくもありません。「視聴率に裏切られた」視聴率男・久米宏。再起のチャンスは与えられるのか。

 「A」は先月15日に一度見ました(その日の放送は唯一、視聴率が10%を超えたらしい)。最初に思ったのは「オセロと夏木マリがレギュラーというのは、NHKに対する当てつけ?」ということでした。夏木マリは「義経」に丹後局役で出演中だし、松嶋尚美も亀の前として出演、さらに中島知子も千鳥役で出演しました。両番組とも事前録画だから同じ時間帯のバッティングも可能なわけですが「Aが振るわなかったのは事前録画のせい」という見方もあるようです。確かにNステや「ザ・ベストテン」など、久米氏は生放送が主な活動の場でした。
 番組自体の着目点は悪くなかったと思うし、松浦亜弥、若槻千夏、山口智充といった若手レギュラー陣も無難だったと思います。少し気になったのはナレーション。「ガチンコ!」でお馴染みの垂木勉氏と「伊東家の食卓」のP子役の雨蘭咲木子女史(NHKのダーマ&グレッグでも活躍)のコンビは少し騒々しく感じました。
 
 私が初めて久米宏氏をテレビで見たのはTBSの「ぴったしカン・カン」だったと思います。火曜夜7時半からの放映で、当時彼はTBS局アナでした。出題時の「ホニャララ」「ペケペケ」「恒例、一枚の写真!」という彼のセリフは今も憶えています。1978(昭和53)年から始まった「ザ・ベストテン」でも司会を務め、同年に退社・独立します。その後は日テレへも活動範囲を広げ「おしゃれ」「TVスクランブル」を経て1985(昭和60)年秋からテレ朝「ニュースステーション」が始まると、「一張羅オジサン」は「硬派キャスター」に転身しました。
 TVスクランブルは日曜夜8時から放映されていた番組でした。一度見たことがありますが、横山やすし師匠と日テレの福富達アナが共演していました(やっさんは後に降ろされたらしい)。久しぶりの日テレ、それも馴染みのある日曜夜8時台ということで、久米氏は「A」に期するものがあったと思われますが・・・

 ぴったしカン・カンが始まった頃、日曜夜7時台は日テレの「すばらしい世界旅行」を時々見ることがありました。私は当時、番組最後のクレジットに映った「ナレーター 久米明」の文字を見て「ぴったしカン・カンの司会者がナレーターだったのか」と早とちりしてしまったものです。ところが実際「世間では久米宏と久米明が混同されることが少なくなかった」と、宏氏が何かの番組で打ち明けていたらしいという話をどこかで聞きました(昔の話なので思い違いもあるかもしれない)。それを逆手に取ったかどうか知りませんが、ザ・ベストテンで久米明氏が司会を務めたことがあったようです。黒柳徹子サマの助けを借りて「え~、こ、今週の第○位・・・」と彼が紹介する場面を、私は見た憶えがあります。それがいつ頃の出来事だったかは覚えていませんが。

 久米明氏はテレビ放送開始以前から活動している俳優ですが、「すばらしい世界旅行」のナレーターを二十年以上続けるなど、声優としてのキャリアも詰まれています。昨年4月から6月までNHK総合で放映されたアニメ「火の鳥」(奇しくも「すばらしい世界旅行」と同じ日曜夜7時半からの三十分番組だった)でもナレーターを務めました。私としては、彼のナレーションは少し重苦しい感じで今一つ馴染めないのですが。正直言って「火の鳥」のナレーションも、他に適任者がいるのではと思ったものです(だったら見るなと言われそうだが)。
 なお、私の親によれば「久米明は、昔のドラマでは悪役を演じることが多かった」そうな。

 ちなみに久米明氏のご子息、久米大作氏は音楽の道へ進み、現在も精力的に活動中です。そして彼の奥さんは、かつて「異邦人」の大ヒットで知られた久保田早紀(現・久米小百合)さんです。

出発進行

2005-06-19 21:07:45 | 鉄道独り言
※今日の一枚:天王寺駅16番のりばに停車中の関空・紀州路快速。京橋から大阪環状線内回り天王寺経由で阪和線に入り、日根野で和歌山行きと関西空港行きに分かれる。1999(平成11)年5月改正から登場。環状線内主要駅から和歌山方面への利便性を図るべく、それまでの関空快速8両編成のうち3両ないし5両を和歌山行きとした。関空利用者の伸び悩みで余裕が生じた輸送力を巧みに活用したといえる。乗務員は和歌山列車区、天王寺電車区・車掌区、京橋電車区・車掌区各区が担当。

 4月25日の事故以来不通が続いていた福知山線(JR宝塚線)尼崎-宝塚間は今日から運転を再開しました。事故前と比べ本数は変わらないものの、最高速度の引き下げや、事故のあったカーブでの速度制限強化(最高時速60km)、駅での停車時間を最大15秒程度延ばすなど、全体的にダイヤにゆとりを持たせています。また事故を起こした列車の番号(5418M)は欠番となりました。さらにATS-Pも本格稼動しました。
 しかし同じ日に紀勢本線で特急が300mのオーバーランを起こし、他線区とはいえ運転再開にミソを付けてしまいました。また昨日までの運休に伴う減収は15億円、振替輸送を行った阪急などへの支払いが約9億円と見込まれているそうです。さらに運休中に阪急などへ転移した利用者を再びJRへ呼び戻せるかどうか、そして何より、事故の遺族や被害者への補償など、運転再開の行く手には多くの問題が待ち構えています。

 今回のダイヤは来年3月までの「暫定」であり、JR幹部によると利用者の意見を聞いたうえで来年3月以降は速度の引き上げも検証する」と見直しに含みを持たせています。また「遅れの回復は運転士の責務、当然やってもらう」と、回復運転を正当化しており、再び「スジを立てる気か」と不安になります。
 一方で、来春から東海道線の新快速の所要時間を若干延長(京都-大阪間、大阪-三ノ宮間で各一分程度)するとの報道もあり、現場では試行錯誤が続いているのだろうと思います。今回の暫定ダイヤで所要時間が増えたことにより、尼崎駅での他線への接続は事故前よりも待ち時間が増えていると思われますが、来春の見直しで改善されるかもしれません。利用者の要望次第では、前倒しで見直しされる可能性もあります。
※6月25日追記:JR西日本は来年3月の福知山線ダイヤ見直しについて「速度制限を継続する」と発表。

 「鉄道事業者は安全最優先で列車を運行すべき」この点は異論がないと思いますが、事業者が安全に気を配っても、利用者や第三者の行動が安全や定時運行を妨げてしまうことが往々にしてあります。踏切事故や飛び込み自殺は運転妨害の最たるものですが ホームでの駆け込み乗車も定時運転の妨げとなります。ドアを何度も開閉し、安全確認で時間を取られ発車が遅れてしまい、最悪の場合は体をドアに挟まれたまま引きずられることもあります。過去に新幹線の駅で、ドアに挟まれた客が引きずられて死亡する事故も起きました。
 それだけに現場の社員は、駆け込み乗車に対し神経を尖らせることになります。東京都内では先日、中央線快速電車の乗務員が車内放送で駆け込み乗車への苦言を呈したそうですが、内容がやや感情的(駆け込み乗車で怪我をしても乗客の自己責任云々、と言ったらしい)であったことが災いし、乗客がJRに抗議したとか。駆け込み乗車は社員だけでなく、ルールを守っている乗客をも気まずくさせるようです。

 <以下、やや過激な独り言に見えるかもしれません>
 大阪や尼崎などのJR主要駅(とりわけ草津-西明石間の在来線各駅)ホーム(JR西日本では「のりば」と称する)で、列車到着前に「今度、○番のりばに到着の電車は・・・二列に並んでお待ちください」、列車が着くと「お忘れ物のないようご注意ください」「降りる方が済みましたら前の方に続いてご乗車ください」、そして発車直前に「ドアが閉まりますからご注意ください」「駆け込み乗車はお止めください」等々、案内放送が延々繰り返されます。放送自体は他の鉄道でも行われていますが、JR西の場合は少し気になる点があります。
 「お待ちくださいっ!」「お止めくださいっ!」「ご注意くださいっ!」「新快速ヒメジッ!行きです」「停車駅は尼崎、アシヤッ!サンノミヤッ!」と、ややブッキラボウにも聞こえる男性の声。駅構内で現場社員の方々が頭を下げ声をからして詫びる一方で、のりばでは頭上から間断なく、無機質かつ無愛想な口調で細かく指示される。やや血の気の多い利用者が(交代のため待機中の)乗務員に暴言を浴びせたり物を投げつけるといった行為の背景には、駅のりばの案内放送への「隠れた不快感」があると考えるのは早計でしょうか。

 現行の案内放送は2002(平成14)年7月、草津-西明石間への「運行管理システム」導入に伴い始まったと言われています(大阪駅ではその前年に、従前の女性だけの声から男女混合?の放送に変更されたらしい)。その「ご自慢のシステム」が実は「福知山線へのATS-P導入を後回しにしてまで優先されたらしい」という話もあり、過ぎたこととはいえ「もし福知山線ATS整備を優先していたら」という気持ちになります。
 仮に案内放送が首都圏のような標準語でなく、関西弁を生かしたものだったら、もう少し雰囲気が改善されるのではないかと思うのですが「実用的でない」と一蹴されるでしょうね。でもせめて、声優A.M氏を起用した現行案内放送の見直しについて前向きに検討願えませんか、JR西日本さん。 

※草津-西明石間の駅案内放送については以前に「二列に並んで」という記事で触れている。  

アジサイのメッセージ

2005-06-17 23:44:43 | 漫画アニメ独り言

※今日の一枚:雨模様の夕方、磐越西線咲花駅に進入するSLばんえつ物語号。今や磐西のスターとして欠かせない存在である。近所の住民や温泉宿の客もSLを見ようとホームに集まる。SLのヘッドマークは数年前から月ごとにデザインを変えるようになった。6月はアジサイがSLの先頭を彩る。



 今年は例年に比べ梅雨入りが遅れているようですが、それでもここ一週間ほどで九州から東北南部までが順次梅雨に入りました。といっても西日本を中心に「空梅雨」模様で、まとまった降雨を期待できないという予報もあります。その一方で沖縄では記録的な大雨が続き、農作物や交通機関への被害が懸念されています。
 梅雨は湿度が高くなり不快感が増すだけでなく、カビや食中毒の対策に追われる厄介な時期でもありますが、適度な雨のおかげで農作物が成長し、さらに水源地が潤うという一面もあります。梅雨は生活を支え、季節にアクセントを添える大事な時期とも言えそうですが、度を過ぎた大雨は勘弁してほしいものです。

 梅雨を迎え、各地でアジサイの花便りが聞かれるようになりました。今日の新聞にもアジサイに関する記事が載っていました。アジサイの花に含まれているアントシアニンという色素は本来赤い色だそうですが、アルミニウムと結びついて青く変化するそうです。アジサイが植えられた土壌が酸性だと、土中に含まれるアルミニウムが溶け出して根から吸収されやすくなり、花の色素と結びついて青い花になるといいます。カリウムや硫酸アルミニウムといった肥料は花を青く色づかせ、窒素肥料は赤く色づかせると、新聞に書いてありました。

 過去に「アジサイの色変化」を殺人事件の謎解きに使った漫画がありました。今から十年前、週刊少年ジャンプに連載されていた「人形(からくり)草子 あやつり左近(原作・写楽麿(シャラクマーロー)、作画・小畑健)」の一つのエピソードで、花の色をヒントに被害者の遺体を土中から発見するという話でした。
(WOWOWでアニメ化されていたとは知らなかった。「信州百狐血雨地獄」にアジサイが種明かしで登場)

 若き天才的人形遣い・橘左近は招待先の旧家・秋月家で事件に巻き込まれます。前年に家宝の名刀「村正(百狐)」を持ち出して家出したまま行方不明の長男・恭一、恭一の失踪直後から村で頻発する辻斬り、そして左近が来訪した晩に殺された秋月家当主・宗史郎。村では「辻斬りは恭一の仕業」と噂され、秋月家には恭一を名乗り「親父を斬った」と打ち明ける電話もかかってきました(この電話、実は真犯人が携帯電話を使って仕掛けた巧妙なトリック)。しかし宗史郎の遺体が発見された状況や、恭一犯人説に疑問を抱いた左近は、兄の無実を信じて疑わない秋月家の末娘・四帆に「必ず真犯人を見つける」と約束します。
 左近は「村正」の焼入れで犠牲となった百匹の狐を供養する「百狐(びゃっこ)神社」の境内で、血の色のごとく咲き誇るアジサイの中に青い花を見つけます。「今まで青い花は見たことがない」という村人の証言から、左近はアジサイの近くの土壌が何らかの理由で変化したと考え、真犯人をおびき出すべく芝居を打ちます。

 ある晩、左近は秋月家の一室で、家族全員と長女の婚約者、古美術商で秋月家と親しい沖克己、そして村の巡査が見守る中、あやつり人形の「右近」に宗史郎と恭一の霊を憑依させました。
(実際には憑依などなく、声色を使った左近の腹話術である。左近は来訪初日に宗史郎と実際に言葉を交わしており、恭一の声は四帆が見ていた過去の恭一のビデオから覚えた)
 この時点で左近は、恭一が既に殺されたと断定し「右近に憑依した恭一」に「ここはどこだ、暗くて冷たい、花の香りがする」と「告白」させます(これも左近の芝居)。しかし周囲は芝居だと思わず、ある者は狼狽し、ある者は「くだらん、インチキだ!」と怒り出します。左近は「この中に真犯人がいれば、アジサイの根元に埋められた恭一の遺体を別の場所へ移すはず」と睨み、四帆と共に神社へ先回りします。左近の目論見どおり真犯人は神社に現れ、アジサイの根元を掘り返したところへ左近が声をかけ、謎を解き明かします。

 アジサイの根元にはアルミニウム製のトランクが埋められており、その中には変わり果てた恭一の姿がありました。恭一は真犯人に唆され、村正を持ち出した直後に口封じのため殺されていたのです。そして遺体が詰められたトランクを神社の境内に埋めたのですが、土壌が酸性だったためかアルミニウムが溶け出し、赤いアジサイの色が青く変わったようです。どんな悪事もお天道様、いやアジサイ様はお見通しでした。

ふたご座の男

2005-06-16 23:21:18 | 漫画アニメ独り言

※今日の一枚:新潟駅南口。1980年代前半、上越新幹線開業に合わせて整備された。新潟駅が現在地に移転したのは地震前の1958(昭和33)年。地震を乗り越えた駅は、在来線高架化に向けて本格的に動き出しそうだ。今は自転車の洪水となっている駅前広場も、やがて政令指定都市の玄関として面目を一新するであろう。


 あだち充の代表作に登場するヒーロー(男の主役と言うべきか)たちの共通点、それは「誕生日が6月16日」ということです。「陽あたり良好!」の高杉勇作然り、「タッチ」の上杉達也・和也兄弟然り、「みゆき」の若松真人も6月16日だったと思います。私が読んでいない作品のヒーローたちも、誕生日は一緒かもしれません。
 「陽あたり良好!」ではフラワーコミックスの第4巻に勇作の誕生日が記載されています。冬のある日、かすみが居間で雑誌の星占いのページを読んでいると、勇作が入ってきます。かすみに「高杉君、何月生まれ?」と聞かれた勇作は「6月16日」と答えます。同作品が少女コミックで連載を開始したのが1980(昭和55)年。同年春に高校入学という設定なので、勇作は1964(昭和39)年6月16日生まれということになりそうです。

 ちなみに勇作の誕生日(とされる日)は、新潟地震が起きた日でもあります。午後1時過ぎにM7.5の地震が北陸・東北の日本海側を襲い、新潟市内では震度5を記録したそうです。軟弱な地盤の上に建てられたアパートが傾き、港の石油タンクが炎上している写真を見た憶えがあります。信濃川に架かる橋のうち、竣工間もない昭和大橋はほぼ全ての橋桁が落ちましたが、昭和初期に竣工した万代橋(現・萬代橋)は少し亀裂が入った程度で殆ど被害を受けなかったそうです。また新潟駅近くでは線路をまたぐ陸橋が落ち、真下を走っていた気動車が潰れました。回送列車として入れ換え中で乗客はおらず、乗務員も無事だったのは幸いでした。
(余談だが、今月9日夜に福島県内の只見線で、ずり落ちた工事中の跨線(こせん)道路橋橋桁に列車が接触した事故では、破損した列車は四両編成で乗客が二名だったという。夜間で客が少なかったとはいえ・・・)

 新潟地震は「液状化現象」が本格的に取り上げられたことでも知られています。信濃川河口に展開した市街地は文字通り「水の都」でしたが、それゆえ水気の多い地盤であったようです。液状化現象による建物の傾斜のみならず、現在朱鷺(とき)メッセなどがある一帯に当時存在した万代貨物駅は泥水に水没し、そのまま廃止されてしまいました。それだけの大地震であったにもかかわらず、新潟市内で犠牲者が一人も出なかったのは奇跡に近いことでした(山形県酒田市では地震で学童三人が命を落としている)。それから丁度四十年後の秋に、今度は新潟県内陸部(中越地方)で最大震度7の大地震が起きたのは、単なる偶然でしょうか。

 映画公開が迫った「タッチ」ですが、達也と和也の誕生日は連載初期に披露されたと記憶しています。和也に憧れていた下級生女子と達也が何故かデートをして、女子に誕生日を聞かれた達也が「6月16日」と答えると、相手が「あは、双子座ね」と笑ったシーンを微かに覚えています(タッチのコミックスが手元にないので)。
 しかし作者がなぜ6月16日にこだわるのか。タッチは主役が「双子」だけに「双子座」にあやかったとも考えられますが、それだけでは6月16日の根拠が脆弱です。6月16日に特別な思い入れでもあったのか。
 ところで今日、小学館から「タッチ完全版」1~3巻が発売されることになっていたようですが、店頭に並んだのでしょうか。タッチはあまり熱心に読まなかったので、この機会に読み直してみようかとも思います。

 双子座の性格として「器用」「野心・好奇心旺盛」「理知的で感覚が鋭い」「移り気で落ち着きがない」などが挙げられるようです。達也や勇作が「理知的」かどうかは意見が分かれるところですが、器用さや好奇心の強さは当たっているようです。特に勇作は空手の心得があり、一方で野球のセンスもあるという特異な男です。
 野球といえば、長嶋一茂の子供(つまり長嶋茂雄氏の孫)は双子にして6月16日生まれだそうです(ただし女の子)。広島カープの「赤ゴジラ」嶋重宣は1976(昭和51)年の6月16日生まれ。16日にこだわらなければ「拝啓・石井浩郎」(1964年6月18日)や西武の和田一浩(1972年6月19日)、広島の前田智徳(1971年6月14日)、そしてヤンキースの松井秀喜(1974年6月12日)など、球界で「双子座の男」が華々しく活躍しています。あと有名人では、先ごろ高山みなみと婚約を発表した「名探偵コナン」の青山剛昌が1963年6月21日生まれ、最近ヒロシの陰に霞みがち?の波田陽区が1975年6月5日生まれ、社会人野球チーム総監督を承諾したらしいガッツ石松が1949年6月5日生まれ、等々。漫画でも現実でも「双子座の男」は話題に事欠かないようです。

カントリー・ロード

2005-06-15 23:22:01 | 音楽独り言

※今日の一枚:長野県と群馬県の境、渋峠付近に立つ「日本国道最高地点」の標柱。近くには白根山(標高2,106m)、横手山(標高2,305m)がそびえ立つ。これだけの高さまで道路が整備されていることに驚きを禁じ得ないが、11月中旬から翌年4月下旬までは通行止めとなる。どんなに技術が進んでも、大自然の厳しさには逆らえない。



 「8時だヨ!全員集合」のDVD第二弾が今月24日から発売されるそうな。「全員集合」に夢中だった世代の一人として、懐具合が寂しくなければ購入したいものです。できれば第一弾も買い揃えたいところですが、まだ辛うじて入手できそうかな?それにしても、もう少し安くならないものだろうか、DVDボックス。
 第二弾(8時だヨ!全員集合2005)はゲストとのコントのほか「少年少女合唱隊」の映像が収録されそうです。思えば、志村けんの「東村山音頭」は1976(昭和51)年ごろ「合唱隊」で披露されたように記憶しています。同コーナーでは翌77(昭和52)年に「ディスコばあちゃん」が披露され、さらに80(昭和55)年には「合唱隊」の時間をフルに使い「ドリフの早口ことば」を出演者に歌わせました。これには三船敏郎も挑戦し、今回発売の第二弾にもその様子が収録されているとか。志村は「早口ことば」で常にボイスチェンジャーを使っていました。

 「少年少女合唱隊」では賛美歌や海外曲も披露されました。アメリカのミュージシャン、ジョン・デンバーの代表作「カントリー・ロード(原題:Take Me Home,Country Roads)」をゲストが歌ったこともあります。アグネス・チャンや細川たかしがハンドウッドブロックを片手に、英語の原詩に挑戦していたものです。アグネスは英語が得意で見事に歌いましたが、細川は演歌の調子で「かんとりーろーど!」と叫んで大失敗。歌手たちにも得手不得手があることを知りました。「早口ことば」オンリーよりも、毎週違う歌を披露するほうが面白かった。

 カントリー・ロードは1971年に発表され、日本ではオリビア・ニュートン・ジョンが歌うバージョンのヒットで知られるようになったそうです。一時期トヨタ自動車「カリーナ」のCMソングに使われたこともあり、最近ではフジテレビ系「もしもツアーズ」の出演者たち(もしツアオールスターズと呼ぶらしい)がリメイク(歌詞は日本語)しています。これからも歌詞や歌い手を変えながら、ずっと歌い継がれる名曲なのかもしれません。

 勤め先の近くに小学校があり、昼休みになると校内放送が聞こえてきます。週に一、二回音楽を流しますが、時々カントリー・ロードが聞こえるのです。歌詞は日本語で、若い女性が歌っていますが「もしツア」の歌とも違います。調べてみたらどうも、1995(平成7)年に公開されたジブリ作品「耳をすませば(近藤喜文監督)」の主題歌だったようです。歌い手は主人公(の声)を演じた本名陽子という声優さん。この主題歌の訳詞は、ジブリの鈴木プロデューサーのお嬢さんによる労作だとか。ちょっと悲しく聞こえる歌詞と歌声が印象的です。
 今年は「耳をすませば」公開からちょうど十年ということもあり、舞台となった東京都多摩市では同作を前面に押し出した町おこしを計画しているようです。ちなみに私、同作をまだ観ていないんですよね。
(参考:Ryoukan様「耳すまNET's」、(有)人の森様「1970年代 勝手に青春ミュージック」)

 ドリフネタに戻ります。かつて「ドリフ大爆笑」の雷様コーナーで、尾崎紀世彦がゲスト出演しカントリー・ロード(原詩)を歌ったことがありました。彼といかりや長介はトークで盛り上がり、最後は高木ブーが取り残されてしまうオチでしたが、ここで尾崎紀世彦がカントリー・ロードにちなんだギャグを披露したのです。
 カントリー・ロードを歌った後、尾崎紀世彦はアメリカの田舎町について語りました。いわく「ウエストバージニアの田舎町に行くと、街から郊外に向かってカントリー・ロードが続いているんだ。そのカントリー・ロードと並行してもう一本道があって、酒場で飲んだくれた酔っ払いたちがその道を歩いて家へ帰るんだ。その酔っ払いたちが歩く道は、何て呼ばれているか知ってる?知りたい?教えようか?」と。「勿体ぶらずに教えてくれよ」と何度も催促する長介に対し、尾崎紀世彦は一呼吸置いてボソッと答えました。「サントリー・ロード」

かつてレコード大賞を受賞した大物歌手の一言に、思わず凍りついた私でした。

答えは、デンシャで出せ。

2005-06-08 23:24:45 | 鉄道独り言
※今日の一枚:大阪駅3番のりばで発車を待つ福知山線篠山口行き快速電車。車両はかつての「新快速」117系。国鉄末期に大阪地区専用車として登場、後に名古屋地区にも配置され、JR初期まで新快速として活躍。その後は色を塗り替え車内を若干手直しした車両が福知山線や紀勢本線などに転属、また岡山支社へ旅立った仲間もある。なお画像の3番のりばは現在工事中。電車右手のホームが現在3,4番のりばとなっている(事故前に撮影)。

 いかに周囲からの罵倒が重荷だったとはいえ、暴走行為が正当化されるわけではない-JR西日本の運転士が深夜の暴走行為で捕まった件は、その後の調べで「尼崎事故の後で客に罵られストレスを感じていた」と話したそうですが、彼は事故前から暴走を繰り返していたとされ、客の暴言云々が直接原因とは言い難いと警察は見ているようです。ダイヤ厳守と安全運転の板挟み、ミスを起こせば日勤教育が待っている、そんな乗務時の息苦しさを忘れようと、彼は「ハンドルを握った瞬間に人格を切り替えて」路上で憂さを晴らしたのか。
 事故発生後の乗務員に対する暴言・暴行等は、度を過ぎた面があると思います。だからといって世間が同情するわけでもありません。もし仮に暴走行為で死傷者が出ていたら、それこそ袋叩きにされていたでしょう。

 百七人の犠牲者と五百人以上の怪我人という大事故を起こした上に、事故直後の社員の行動や日頃の労務管理なども暴露され、マスコミは鬼の首を取ったかのごとく連日JR西日本をバッシング。それと呼応するように、線路への障害物放置(列車妨害)やJR社員への嫌がらせが続きました。列車妨害は関西のJRに留まらず、広島県内やライバル関係にある阪急線でも起こりました。さらには事故に便乗した「脱線詐欺」の横行。もはやJRへの批判・非難の裏返しというよりも、トラブルやパニックを期待している「愉快犯」そのものです。
 「列車の脱線を見たかった」などという輩は論外ですが、乗務員に八つ当たりしている人たちも、そろそろ矛を収めるべきではないか。暴言や暴力を浴びた乗務員が動揺してミスを起こさないとも限らないし、ミスが事故につながったら取り返しがつきません。第一、乗務員に八つ当たりしても犠牲者は生き返らないのです。

 乗務員に同情すべき点もないではありません。遅れが容易に回復できない厳しいダイヤで「時間厳守」を要求され、途中の駅で乗降に時間を取られたら制限速度を超過してでも遅れを取り戻す行為の常態化。遅れた理由を利用者に転嫁できず、客を装った社員の監視に怯える毎日。運転業務以外に切符やツアーの販促ノルマを課せられ、何とかノルマを達成しようと、ツアーは公休日に自費参加。減給と日勤教育を避けるべく運転ミスの虚偽申告さえ厭わない雰囲気。これらに加え、事故後は暴言や暴力に晒される毎日。こうした重圧に耐え、信頼を回復しようと運転業務に黙々と取り組む大多数の乗務員が存在すると信じたいのです。

 レールの外で暴走行為に及んでしまった乗務員にも言い分はあると思います。「駅進入時に、オーバーランを期待するかのごとくカメラを向けられた」という発言は、駅で列車を撮影することも多い私には少々耳の痛いものでした。一部の野次馬の行為とはいえ、鉄道ファンの品位を問われかねない出来事であり、列車の撮影行為への批判に発展しかねない。自分のミスを「フォーカス」されて喜ぶ人は、まず存在しませんよね。
 しかし、クルマのアクセルを吹かすとき、彼は「自分たちに世間が注目している」ことに気づかなかったのでしょうか。大事故の直後という微妙な時期に、人の命を預かるはずの乗務員が無謀な運転で警察沙汰になれば、信頼回復のため必死で働く仲間たちを裏切ることになってしまうと、思い返さなかったのでしょうか。線路への置石も、路上での暴走行為も、他人に迷惑を及ぼす危険な行為であることに変わりはありません。

 事故が起きた区間では昨日から試運転が始まったようです。運転再開を望む声も少なくないとはいえ、事故現場周辺の住民からは不安の声も上がっているようです。壊れたマンションの住民に対するJRの説明会は双方の意見が食い違い、住民からは失望の声が上がったとか。JR西日本は事故補償に加え運転再開、安全設備の充実、労務管理の見直し、社風の改革など手掛けることが多すぎて、暫くは多忙を極めることと思います。世間やマスコミの目も一段と厳しくなるかもしれません。事故で失った信頼を戻すのは至難の業です。
 真摯に安全輸送に取り組み、誠心誠意謝罪し、二度と悲劇を繰り返さないことが利用者への回答であり、そして被害者や犠牲者への何よりの供養となることを今一度認識してほしい。レールの外に答えは無い。

名は体を・・・

2005-06-06 23:38:46 | 漫画アニメ独り言
※今日の一枚:西鹿児島駅から新大阪駅に着いた特急「なは」。「なは」は沖縄の県庁所在地「那覇」に通じる。大阪-西鹿児島間の昼間の特急列車として登場した1968(昭和43)年当時、沖縄はアメリカの統治下にあった。沖縄復帰の願いが列車名に込められたわけだが、復帰から三十年以上経過した今も列車名は健在だ。

 先週のフジテレビ「幸せって何だっけ」で細木センセイから「運命を変えなさい」と御宣託を受け、番組中に思わず結婚を宣言した「ブチキレ男」カンニング竹山。結婚(予定の)相手とは以前から同棲していたそうで、5日に行われた自著発売記念サイン会でも結婚を明言。今まで結婚に踏み切れなかった竹山に業を煮やし、細木センセイがわざと厳しく迫ったのかな?とも思ったりしましたが、兎にも角にも年貢の納め時と悟った模様。
 ちょうど今夜の東京フレンドパークⅡは、その竹山がゲスト。私は都合で見られませんでしたが、番組では結婚宣言の話題も出たことでしょう。ここまで明言した以上、「前言撤回」などといったら男が下がりますよ。

 TFP2で竹山と共演したのは熊田曜子。この名前を見るたび、私はあだち充の「陽あたり良好!」の「ラン!ラン!・・・ラン!?」というエピソードをを思い出してしまいます。ある晩、道端で不良に絡まれていた少女を助けた高杉勇作。名前を聞かれても「名乗るほどの者ではない」と立ち去りますが、その場で漫画の本をポケットから落としてしまいます。それは同じ下宿に住む美樹本伸から勇作が借りた本でした(それが「みゆき」のコミックスだったりする)。翌日、その少女は本を返しに勇作たちの下宿を訪れます。本に下宿の住所と伸の名前が書いてあったのです。少女は伸に助けてもらったと思い込んでいます。彼女と応対した岸本かすみは、昨夜の顛末を勇作から聞いていますが、本当のことを教えようとしません。それどころか奥から顔を出した勇作に便所掃除を押し付け、少女から遠ざけてしまいました。誤解したまま帰る少女。伸はこの時外出していました。

 数日後、伸の元に手紙が届きます。手紙の主は先日の少女でした。久しぶりのラブレターだと喜んだ伸でしたが、差出人の名前を見て怪訝な顔をします。彼女の名は「熊田花子」。訝りながらも「しかし、名前と顔とは関係ないからなぁ」と気を取り直し、翌日の放課後、伸は彼女が通う高校へ下見に出向きました。

※伸たちが通う高校は「県立明条高校」で、熊田花子が通う高校は「青華高校」。「みゆき」で主人公たちが通う高校も「青華高校」である。伸が話しかけた男子生徒は「みゆき」の間崎竜一とソックリで、恐らく「みゆき」の青華高校と同じなのであろう。ちなみに「タッチ」で主人公たちが通うのは「明青学園」である。

 花子は友人たちと校庭でボール遊びに興じていました。男子生徒に「あそこでボールを持っている子だ」と指を差した先を伸が見た瞬間、ボールを持っていたのは花子の隣の、太めで丸眼鏡をかけた女子でした。「名前どおりの顔じゃないか」と落胆する伸でしたが、その隣の美少女(=花子)を見つけ「隣の子は?」と男子に尋ねます。「あれ(=花子の隣の子)は美崎小百合だ」と教えられた伸は「やっぱり顔と名前は関係あるんだ」と勘違いしたまま学校を後にします(冷静に再度確かめておけば、後の悲喜劇は起こらなかったわけだが)。

 伸は花子に返事を書きます。「僕はすでに美崎小百合さんという女性に恋している。それを隠したまま貴方と付き合うことは出来ない。許してほしい」と。やがて花子から返事が届き「小百合は私の親友です。明日の午後公園の噴水で彼女に会えます。これが最初で最後のお節介です」という一文に伸は欣喜雀躍します。
 一方かすみは、先日下宿を訪れた少女が勇作の助けた子であることを彼に打ち明けます。花子が勘違いしていることも話し「やきもち焼いて本当のことを教えなかったわけじゃない。美樹本君が最近(出会いに)恵まれていないから・・・」と弁解します。謝るかすみに勇作は「別にそんなつもり(=花子に好いてもらいたい)で助けたわけじゃないから」とだけ答えます。それを聞いて何となく胸が軽くなったかすみでした。

 そして伸と小百合の出会いの日。いそいそと出かける伸を見送り「うまくいったらおごってもらわなきゃ」と微笑むかすみと勇作。ところが噴水の向こうで待っていたのは、あの太めで丸眼鏡の子。呆気に取られる伸に彼女は「花子から聞いたわ。あんた、私の趣味じゃないの、悪いけど」と言い残して立ち去ります。
(参考:小学館フラワーコミックスFC-715「陽あたり良好!」第5巻・セリフ等は一部省略あり)

現実にも「名前と顔は関係ない」人はいるわけで(例えば「静香」という名の男性もいますよね)。

獅子と三日月

2005-06-04 23:42:15 | 昔話
※今日の一枚:開業から九十余年を経て、今なお現役の東京駅丸の内口駅舎。戦時中の爆撃で上部が焼け落ち原型とは異なる形で修復されたが、原型に復元する計画もあるようだ。

 今日から一週間(10日まで)は「歯の愛護週間」。その第一日目(つまり6月4日)は「虫歯予防デー」として知られていますが、これが制定されたのは1928(昭和3)年。実に八十年近い歴史があるのですね。
ライオン(株)HPの「会社案内」の中の「ミュージアム第二展示室」に詳しいことが記されている)

 大正初期に海外から伝わった「歯磨教練(歯磨体操)」を全国に普及すべく、ライオンの前身の(株)小林商店は1922(大正11)年ごろから学校への実地指導に取り組み、大正末期からは「全国学校歯磨教練運動」として大々的に展開していました。昭和に入ると「虫歯予防デー」制定に加え1931(昭和6)年には学校歯科医令が公布され、翌32(昭和7)年に虫歯予防デーの関連行事として初の「学童歯磨教練体育大会」が東京と大阪で開催されました。この大会は戦争で一時中断され、戦後の1953(昭和28)年に「学童歯磨訓練大会」として復活、94(平成6)年から「学童歯みがき大会」に改称され現在に至っています。しかし「歯磨体操」は60年代後半に効果を疑問視する声が上がり、次第に個別指導へ転換された結果、平成初期に姿を消したようです。
 
 「ライオン歯磨」は1896(明治29)年から発売され、大正初期までに歯ブラシや子供向け歯磨粉などが登場していました。同時期に伝わった「歯磨教練」は小林商店にとって、自社製品を普及させる絶好の機会となったことでしょう。そして昭和に入り戦雲急を告げるころ、「学童の健康増進」即ち「未来の皇軍戦士の育成」を図るべく「健康報国」「銃後健康増進」等を掲げ、国策として歯科衛生に力を入れることになったと思われます。
 ちなみに私は「歯磨体操」を知りませんでした。あるいは学校で実施していたのかもしれませんが憶えていません。むしろ「フッ素洗口」は今も憶えています。こちらは後に安全性が問題になったようです。
 歯磨体操には号令用の音楽も作られ、レコードが学校に配布されたようです。最近、福島県歯科医師会が「歯みがきサンバ」という歌を制作し、CDを小学校に配布したそうですが、まさに「時代は繰り返す」?

 ライオンと並ぶ総合生活用品メーカー、花王(株)も歯みがき関連用品を発売しています。我が家はかつて、歯ブラシや歯みがき粉はライオン製品を使っていましたが、最近は花王製品にシフトしています。
 花王とライオンは、その歴史や事業範囲が非常に類似しています。花王の前身、長瀬商店が1887(明治20)年に東京馬喰町で小間物屋を開業し、その三年後に「花王石鹸」を製造発売します。その翌年の1891(明治24)年にはライオンの前身、小林富次郎商店が東京神田でマッチと石鹸の原料取次ぎを始め、二年後に「高評石鹸」などを製造発売しました。両者とも石鹸からスタートしましたが、間もなく小林は歯磨事業が主力となり、大正半ばには歯磨事業主体の(株)小林商店と石鹸部門が独立したライオン石鹸(株)の二社体制となりました。小林商店は戦後の1949(昭和24)年にライオン歯磨(株)となり、ライオン石鹸は太平洋戦争前の1940(昭和15)年にライオン油脂(株)に改称、そして1980(昭和55)年に両社は合併、ライオン(株)となり現在に至ります。

 一方長瀬商店は1925(大正14)年に法人化し「花王石鹸(株)長瀬商会」となります。昭和に入ると大日本油脂(株)や日本有機(株)を設立し、戦後間もない1946(昭和21)年には花王石鹸(株)長瀬商会が「(株)花王」に社名変更します。同社は49(昭和24)年に大日本油脂と合併して花王油脂(株)となりますが、同じ年に今度は日本有機が花王石鹸(株)に社名変更します。そして54(昭和29)年に両社が合併して社名は「花王石鹸(株)」が存続、それから三十年余りが経過した85(昭和60)年に「花王(株)」に社名変更し、現在に至っています。
 花王のシンボル「月のマーク」は初代花王石鹸発売時から使われていますが、左向きになったのは戦時中の1943(昭和18)年からで、それ以前は右を向いていたようです。また昔は「お爺さん」みたいな顔つきでしたが、戦後間もなく性転換?と若返り?で表情を一新、53(昭和28)年から現行と同じ顔つきになりました。85年の社名変更時に、マーク左側に「花王」のロゴを入れたスタイルとなり、二十年経った現在も使われています。

 手塚治虫さんは、中学二年生の時に作った「昆虫手帳」という記録ノートに「カオーセッケンコウコクダマシ」なる架空の蝶のイラストを載せていますが、これは1925-42年当時に使われていた花王石鹸の「月のマーク」をヒントにしたようです。これには戦後のマークをもとに書き改めたバージョンも存在?します。