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ネット長屋の内弁慶

当ブログへようこそ。実生活では小心者の私ですが、ネットの上では少しだけ強気にコメントしています。どうぞよろしく。

獅子と三日月

2005-06-04 23:42:15 | 昔話
※今日の一枚:開業から九十余年を経て、今なお現役の東京駅丸の内口駅舎。戦時中の爆撃で上部が焼け落ち原型とは異なる形で修復されたが、原型に復元する計画もあるようだ。

 今日から一週間(10日まで)は「歯の愛護週間」。その第一日目(つまり6月4日)は「虫歯予防デー」として知られていますが、これが制定されたのは1928(昭和3)年。実に八十年近い歴史があるのですね。
ライオン(株)HPの「会社案内」の中の「ミュージアム第二展示室」に詳しいことが記されている)

 大正初期に海外から伝わった「歯磨教練(歯磨体操)」を全国に普及すべく、ライオンの前身の(株)小林商店は1922(大正11)年ごろから学校への実地指導に取り組み、大正末期からは「全国学校歯磨教練運動」として大々的に展開していました。昭和に入ると「虫歯予防デー」制定に加え1931(昭和6)年には学校歯科医令が公布され、翌32(昭和7)年に虫歯予防デーの関連行事として初の「学童歯磨教練体育大会」が東京と大阪で開催されました。この大会は戦争で一時中断され、戦後の1953(昭和28)年に「学童歯磨訓練大会」として復活、94(平成6)年から「学童歯みがき大会」に改称され現在に至っています。しかし「歯磨体操」は60年代後半に効果を疑問視する声が上がり、次第に個別指導へ転換された結果、平成初期に姿を消したようです。
 
 「ライオン歯磨」は1896(明治29)年から発売され、大正初期までに歯ブラシや子供向け歯磨粉などが登場していました。同時期に伝わった「歯磨教練」は小林商店にとって、自社製品を普及させる絶好の機会となったことでしょう。そして昭和に入り戦雲急を告げるころ、「学童の健康増進」即ち「未来の皇軍戦士の育成」を図るべく「健康報国」「銃後健康増進」等を掲げ、国策として歯科衛生に力を入れることになったと思われます。
 ちなみに私は「歯磨体操」を知りませんでした。あるいは学校で実施していたのかもしれませんが憶えていません。むしろ「フッ素洗口」は今も憶えています。こちらは後に安全性が問題になったようです。
 歯磨体操には号令用の音楽も作られ、レコードが学校に配布されたようです。最近、福島県歯科医師会が「歯みがきサンバ」という歌を制作し、CDを小学校に配布したそうですが、まさに「時代は繰り返す」?

 ライオンと並ぶ総合生活用品メーカー、花王(株)も歯みがき関連用品を発売しています。我が家はかつて、歯ブラシや歯みがき粉はライオン製品を使っていましたが、最近は花王製品にシフトしています。
 花王とライオンは、その歴史や事業範囲が非常に類似しています。花王の前身、長瀬商店が1887(明治20)年に東京馬喰町で小間物屋を開業し、その三年後に「花王石鹸」を製造発売します。その翌年の1891(明治24)年にはライオンの前身、小林富次郎商店が東京神田でマッチと石鹸の原料取次ぎを始め、二年後に「高評石鹸」などを製造発売しました。両者とも石鹸からスタートしましたが、間もなく小林は歯磨事業が主力となり、大正半ばには歯磨事業主体の(株)小林商店と石鹸部門が独立したライオン石鹸(株)の二社体制となりました。小林商店は戦後の1949(昭和24)年にライオン歯磨(株)となり、ライオン石鹸は太平洋戦争前の1940(昭和15)年にライオン油脂(株)に改称、そして1980(昭和55)年に両社は合併、ライオン(株)となり現在に至ります。

 一方長瀬商店は1925(大正14)年に法人化し「花王石鹸(株)長瀬商会」となります。昭和に入ると大日本油脂(株)や日本有機(株)を設立し、戦後間もない1946(昭和21)年には花王石鹸(株)長瀬商会が「(株)花王」に社名変更します。同社は49(昭和24)年に大日本油脂と合併して花王油脂(株)となりますが、同じ年に今度は日本有機が花王石鹸(株)に社名変更します。そして54(昭和29)年に両社が合併して社名は「花王石鹸(株)」が存続、それから三十年余りが経過した85(昭和60)年に「花王(株)」に社名変更し、現在に至っています。
 花王のシンボル「月のマーク」は初代花王石鹸発売時から使われていますが、左向きになったのは戦時中の1943(昭和18)年からで、それ以前は右を向いていたようです。また昔は「お爺さん」みたいな顔つきでしたが、戦後間もなく性転換?と若返り?で表情を一新、53(昭和28)年から現行と同じ顔つきになりました。85年の社名変更時に、マーク左側に「花王」のロゴを入れたスタイルとなり、二十年経った現在も使われています。

 手塚治虫さんは、中学二年生の時に作った「昆虫手帳」という記録ノートに「カオーセッケンコウコクダマシ」なる架空の蝶のイラストを載せていますが、これは1925-42年当時に使われていた花王石鹸の「月のマーク」をヒントにしたようです。これには戦後のマークをもとに書き改めたバージョンも存在?します。

星になった「やえもん」

2005-05-17 23:06:21 | 昔話
※今日の一枚:大宮駅を後にする東北線(宇都宮線)下り普通電車。かつて当たり前のように見られた115系電車も、今や大宮界隈では臨時や回送以外は見られない。岡部冬彦さんも生前、忙しなく行き交う115系電車を自宅の窓から幾度となく眺めていたのだろうか。

 絵本「きかんしゃやえもん(阿川弘之・作)」の挿絵を担当したことで知られる漫画家・岡部冬彦さんが16日に亡くなられたそうです。「やえもん」は1871(明治4)年にイギリスから輸入された「一号機関車(形式150)」がモデルだと言われています。同機は翌年の鉄道開業時から活躍し、明治末期に鉄道院から島原鉄道に払い下げられましたが、後に鉄道省が買い取り、1936(昭和11)年から東京の万世橋(秋葉原)に開設された鉄道博物館(現・交通博物館)に陳列されています。1958(昭和33)年には鉄道記念物に指定されました。
 
 岡部さんは「ベビーギャング」などの代表作がありますが、私は読んだことがありません。「きかんしゃやえもん」の絵本は図書館で読んだかもしれません。小学校のころ、国語の授業で「やえもん」を教わった記憶がありますが、今にして思うと教科書の挿絵は柳原良平さんだったような気がします。柳原さんはトリスウイスキーのCMキャラ「アンクルトリス」の作者として有名であり、また鉄道と船舶の愛好家という一面もあります。
 かつて相模鉄道で「ほほえみ号」という電車を見かけましたが、それは車体一面に柳原さん作画のイラストが描かれたものでした。港町ヨコハマのイメージをまとっていた電車は、もう走っていないのでしょうか。

 岡部さんの訃報を聞き、そういえば彼の鉄道談義を掲載した本があったはずだと、引っ張り出したのが1982年9月20日発行の小学館「全線全駅鉄道の旅4-関東1500キロ」。編集委員の原田勝正さんとの対談が冒頭に載っていました。詳細は省きますが、戦前に東京の中央線を走っていた電車や戦時中の機関車のことなど、かなり「濃い」話が展開され、お二人の鉄道への並々ならぬ思い入れが行間から伝わってきました。
 その中で岡部さんの住まいについての記述がありました。今は「さいたま市」と呼ばれる、当時の浦和市内の東北本線旅客線と貨物線が並行する区間の貨物線に近いところに「汽車が見えるから」という理由で家を建てたのだとか。また子供の時分には原宿と千駄ヶ谷のほぼ中間地点に家があり、汽車や電車を見る機会に恵まれていたそうです。「物心ついたときから身近に鉄道がある」という環境で育ったのですね。

 そのくだりを読んだ時、昔見たテレビCMを思い出したのです。1976(昭和51)年ごろオンエアされていた日軽サッシのCMに、窓から電車が見える家が紹介されました。家主であろう初老の男性が登場し、「○○さん(ナレーターが彼の名前を明かしたはずだが、思い出せない)はこの窓がお気に入り。なぜなら大好きな電車が見えるから」という趣旨のナレーションの後、窓の外を走る国鉄の色とりどりの電車が大写し。椅子に座った男性が窓を眺めているシーンに「やっぱりいいなぁ、電車は!」という独白が重なり、CMは終わります。
 この男性こそ、若かりし日の(といっても、当時すでに50代前半だったであろう)岡部さんだったのだろうかと、今になって思い返しました。あの時はサッシや男性よりも、電車の印象が強かったのです。

 尼崎の事故で被害を受けたマンションは、福知山線を行き交う電車が部屋の窓から見えたのでしょうか。福知山線を担当する運転士の中には、以前からあのマンションに恐怖感を覚える人すら存在したようです。
 JR西日本社長は国会審議において「マンションを買い取ることも検討中」とした上で、毎年法要を営む考えがあることを述べたようです。その一方で「日勤教育」と事故との関連や、速度超過運転日常化の疑惑などを否定する発言もあるようです。岡部さんは病床で、今回の事故や鉄道の行く末を案じていたのでしょうか。

※川島令三氏は「新東京圏通勤電車事情大研究」で、関西の高速運転の例として「JR神戸線・京都線の新快速は(1990年時点で)最高速度を115kmに向上」と紹介した上で(現実には120km以上をいつも出している)と括弧書きで補足していた。「速度超過」が日常茶飯事であることを15年前から認識していたことになる。

居合わせて

2005-04-11 23:04:13 | 昔話
※今日の一枚:新潟市岩室(3月20日まで岩室村)にて。昭和30年代制作と思しき看板か。テレビが普及する以前は有効な広告媒体であっただろう。「一番よい電球」の謳い文句と電球のユニークな表情が却って新鮮に映る。よくぞ残っていたものだ。

 福岡・佐賀の次は千葉・茨城ですか。東関東を朝っぱらに襲った震度5強。NHKでは午前7時半前からしばらく地震のニュースを繰り返していました。途中で千葉県芝山町からの中継が入りましたが、恐らく地震が起きなければ7時55分ごろから同町の航空博物館の話題を流す手はずだったのでしょう。朝のレポーター役の高橋徹アナが急遽画面に呼び出され、揺れた時の現地の様子や成田空港の情報などを伝えました。
 現地の被害も心配ですが、この中継シーンと似た場面を以前に見たことを思い出しました。

 1997(平成9)年秋、山梨県の中央本線大月駅で、入換中の電車が折から同駅を通過する特急列車と接触する事故が起きました。たまたまその場にNHKの寒川由美子という女性記者が居合わせており、ニューススタジオにいた宮田修アナに電話で事故の状況を伝えるというシーンがテレビで放映されました。
 寒川記者がなぜ大月に居たのかということはさておき、まさに目前で起きた事故を伝える電話の声に「偶然の凄さ」を感じました。その瞬間、記者は何を思っていたのでしょう。スクープを伝えることの重みか、事故現場に居合わせた偶然への驚きか、けが人の手当と報道どちらを優先するかのジレンマか。

 十年ぐらい前にTBSが年末特番で、自局や系列局の記者の活躍を紹介したことがありました。その中で、1980年代に「ニュースデスク」でキャスターを務めた小泉正昭氏が取り上げられました。
 1963(昭和38)年11月9日夜、横浜の鶴見駅付近で脱線した下り貨物列車に横須賀線上下電車が相次いで衝突し、160人以上が犠牲になるという大惨事となりました(いわゆる鶴見事故)。
 ところがその事故現場に若かりし小泉記者が居合わせ、直ちに近所で電話を借りてTBSへ事故の第一報を報告したのだそうです。電車に乗っていて事故に遭遇したのか、近所を歩いていて事故を目撃したのか詳しい状況は忘れてしまいましたが、とにかく事故現場に居合わせたのだそうです。
 彼はその後、60年代後半に相次いだ航空機墜落事故などの現地中継などを担当し、いつしか「修羅場の小泉」と呼ばれるようになったそうです。彼のような記者たちが「報道のTBS」を支えていたのですね。

 1955(昭和30)年10月1日未明、新潟市中心部は大火に見舞われました。当時新潟市内には弁天町にNHK(1931年開局)があったほか、1952年に古町の大和デパート屋上にラジオ新潟が開局していました。
 この大火の際、ラジオ新潟の丹羽アナウンサーは、デパート屋上から実況を続けました。折からの強風と火災で生じた猛烈な上昇気流にあおられまいと、鉄塔に体を縛り付けて実況と市民への避難指示を呼びかけたと言われています。しかし猛火がデパートにも押し寄せ、身の危険を感じた報道陣は撤退、局舎は焼けてしまいます。それでも避難先の送信所から実況を続け、市民の情報の拠り所となりました。
 このエピソードも年末特番で紹介され、丹羽元アナウンサーも出演されました。

 新潟大火の前年、つまり1954(昭和29)年に映画「ゴジラ」第一作が封切られました。この中で、ゴジラに襲われた鉄塔でアナウンサーが決死の実況を行っている場面がありました。鉄塔はゴジラにへし折られ、アナウンサーらは「それではみなさん、さようなら!」の言葉を最後に落下してしまいます。報道の世界は華やかなことばかりでなく、時には目を背けたくなる場所へ行き、あるいは命を張る覚悟を求められるのかも。

でも、地震直後で忙殺されている役場へ状況確認を行うのは程々にしたほうが良いのでは、NHKさん。