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ネット長屋の内弁慶

当ブログへようこそ。実生活では小心者の私ですが、ネットの上では少しだけ強気にコメントしています。どうぞよろしく。

アキハorアキバ?

2005-10-01 23:24:20 | 鉄道独り言
※今日の一枚:地下鉄銀座線末広町駅付近。同駅は秋葉原電気街の最寄り駅となっており、出口案内にもちゃんと「電気街」と書いてある。中央通りと蔵前橋通りが交差する一帯は「外神田」と称され、秋葉原の北部にあたる。ここまで来るとさすがに電器店は少ないが、中央通りを万世橋方向へ少し歩けばヤマギワ・ソフマップなどの有名店が目に付く。末広町駅からJR秋葉原駅へは凡そ500m、数分の歩行は気分転換にもなる。銀座線では神田駅も秋葉原の最寄りである。なお日比谷線にはズバリ「秋葉原駅」が存在するが、JR秋葉原駅の東側にあり、中央通りへ抜けるには少し分かりづらい。 


 毎週土曜日のNHK「おはよう日本」は、関東甲信越の場合は朝8時から約10分程度、エリア内の名所旧跡を紹介する番組(タイトルは失念。たしか「土曜ちょっといい旅」みたいな感じだったと思う)を流します。滝島雅子アナと女性レポーター(だいたい各局の女性アナが担当)が対談・問答する形式で、今朝は東京豊島区雑司が谷の鬼子母神界隈が紹介されました。
 ここで気になったのが「鬼子母神」の読み。レポーターは「きしもじん」と読みましたが、番組に登場した都電の停留所「鬼子母神前」はローマ字で「Kishibojinmae」つまり「きしぼじんまえ」と書いてありました。「も」と「ぼ」、どちらが正しいのか。IMEでは「きしもじん」「きしぼじん」どちらも「鬼子母神」と変換します。

 「電車男」の大ヒット?や、つくばエクスプレスの始発駅として何かと話題の秋葉原。最近の若者は「アキバ」と呼ぶことが多いようです。先月開店したヨドバシカメラも店舗名を「マルチメディアAkiba(アキバ)」と称しています。地名を略すのは珍しくないとして、秋葉原は「あきばら」なのに何故「アキ」?
 秋葉原という地名の起こりは、明治時代に遡るようです。現在の秋葉原一帯は明治の初め、「火除け地」として、類焼を防ぐための空き地とされたそうです。そこへ1870(明治3)年、火除けの神様として「鎮火神社」が建てられたとのことです。それが後に「秋葉神社」と改名され、地元の人は誰ともなく「秋葉原(あきばがはらorあきばのはら)」と呼ぶようになったとのことです。「秋葉」と改名したのは、鎮火神社が静岡の秋葉大権現から勧請(かんじょう)されたことに由来すると思われます。
「秋葉原(あきはばら)の由来」によれば「あきばはら」「あきばっぱら」とも呼ばれたらしい。ちなみに私の親もかつて秋葉原を「あきばはら」と読んだことがあるが、あながち間違いではない?)

 ところが1890(明治23)年11月1日に当地に開業した佐久間町貨物駅が後に「秋葉原(あきはばら)貨物駅」と改名されました(小学館の「各駅停車シリーズ」では秋葉原改名の時期を不詳としている)。同駅を開業したのは日本鉄道という当時の大手民鉄でしたが、実態や地名の起こりを無視した役所的命名だとして地元の評判は良くなかったようです。もともと秋葉原一帯では「鉄道は危ない」と、上野からの日本鉄道線延伸に反対だったそうで、同社は「踏切に遮断機を付ける」などの条件を整えた上でようやく秋葉原への延伸にこぎつけたとか。そのような「歓迎されない誕生」だった上に「地元無視の命名」だったわけですが、当初は神田川の水運と連携した行き止まりの貨物専用駅として機能していました。
(なお日本鉄道は、1906(明治39)年公布の「鉄道国有法」により国有化された)

 秋葉原駅が大躍進を遂げるきっかけとなったのが、大正末期の旅客営業開始でした。関東大震災から間もない1925(大正14)年11月1日、神田-上野間に旅客線が開通し、東京止まりだった京浜線電車が上野まで乗り入れました。また山手線電車の環状運転が始まったのも同日からで、秋葉原はこれらの電車の旅客を扱うこととなりました(ちなみに同日、御徒町駅も開業した)。
 旅客線は高架で新設され、秋葉原駅の貨物設備も後に高架化されました。まだ珍しかったエレベーターなどが設置され、高架下にトラックや荷車が待機して貨物を受け渡すという近代的な光景が展開しました。貨物取り扱いは戦後もしばらく続き、廃止後は電車の留置線として活用されていました。

 昭和に入ると、秋葉原は重要な乗換駅となります。1932(昭和7)年7月1日、総武線が両国から御茶ノ水へ延伸され、秋葉原に総武線ホームが増設されました。同ホームは東北線(山手・京浜東北)ホームをまたぐ形で架けられ、利用者のために国鉄としては初めてエスカレーターを設置したそうです。
 同時に両国-市川間で電車運転が開始され、それは翌年には船橋へ、さらに1935(昭和10)年には千葉まで延伸されました。秋葉原は山手・京浜東北線と、千葉方面及び御茶ノ水乗換えで中央線方面との連絡を担う一大拠点となりました。神田川にかかる万世橋付近にあった万世橋駅が1943(昭和18)年に廃止されると、同駅に隣接していた交通博物館の新たな最寄り駅としての役割をも担うことになりました。

 戦前から一部のラジオ取り扱い業者が店を構え「電気街」の下地が萌芽しつつあった秋葉原界隈は、敗戦後の短期間に多くの電器・無線取り扱い業者が進出し、現在の秋葉原の原型が整いました。そして日本の復興・高度成長と歩みを揃えるかのように、秋葉原電気街は年々発展しました。80年代に入るとマイコン・パソコンを扱う店も登場し、90年代半ばにはパソコン関連の売り上げが家電製品のそれを上回りました。秋葉原の名は海外にも知れ渡り、外人が電気製品を買い求める姿も珍しくありません。
 秋葉原が発展した理由の一つに「交通至便」が挙げられるようです。総武線と東北線の乗換駅となって七十余年、今度は「つくばエクスプレス」が加わり、北関東への新たな玄関口となりました。

 秋葉原の愛称?となった「アキバ」ですが、見方を変えればむしろ「当初の地名(=あきばがはらetc)に基づいた」呼び名とも言えそうです。だからといって、今さらJRが駅名を変えるとも思えません。何しろ国際的に「アキハバラ」が認知されているのですから、「元の呼び名」に戻しても混乱するだけでしょう。
 しかし例外的に「元の呼び名に戻した」ケースもあります。日豊本線の苅田(かんだ)駅は戦時中「東京の神田と紛らわしい」という理由で「かりた」に変更されてしまいましたが、戦後十数年経って「かんだ」に戻りました。また函館本線の旭川(あさひかわ)駅は明治の後半から「あさひがわ」と呼ばれていましたが、1988(昭和63)年に「あさひかわ」に戻りました。もしかすると「あきはばら」も見直される?

鉄路の「コメットさん」

2005-08-09 23:46:30 | 鉄道独り言
※今日の一枚:1985(昭和60)年5月、国鉄下関運転所(現・JR西日本下関車両管理室)構内で憩うEF65型電気機関車。寝台特急「明星・あかつき」は1975(昭和50)年3月改正で登場、新大阪-鳥栖間を併結して走った。1978(昭和53)年10月改正で一旦解消するが、1984(昭和59)年2月改正で再登場。翌年3月からは機関車にヘッドマークが付いた。「明星」はその後「国鉄最後の全国ダイヤ改正」で消滅し、「あかつき」は残った。

 コメット=日本語で「彗星・ほうき星」。大昔には彗星を「凶兆」と見なしたこともあったようですが、「夜空を駆ける光の筋」というイメージに合うのか、近代には航空機などの愛称に使われることがありました。例えば、イギリスが第二次大戦後初めて開発したジェット旅客機の愛称は「コメット」でした。また第二次大戦末期、当時のドイツ空軍が投入したロケット戦闘機の愛称にさえ使われました。ちょっと似つかわしくありませんね(ただしドイツ語読みで「コメート」)。さらに「キャプテン・フューチャー」でフューチャーメンたちが搭乗する宇宙船の名前が「コメット号」でした(キャプテン・フューチャーシリーズ第一作が発表されたのは1939(昭和14)年)。
 「コメットさん」は横山光輝さんが1967(昭和42)年に「週刊マーガレット」に連載したコメディーです。遠い宇宙の星から地球にやってきた少女、コメットさんは日本の民家に居候を決め込みます。様々な事件や騒動に巻き込まれますが、不思議な力を駆使して解決するというのが大まかな筋です。二度ほど実写ドラマになりました。
(九重佑三子が演じた初期版は見た覚えがないが、1978年に大場久美子が演じたリメイク版は見ていた)

 さて日本の鉄道の「コメット」です。「彗星」は今からおよそ五十四年前、東京と大阪を結ぶ夜行列車の列車名として使われたのが最初です。当時の東京-大阪間には夜行急行が三往復走っており、1950(昭和25)年10月改正で、そのうちの一往復(第13、14列車)が「銀河」と名付けられました。他の列車は翌月にそれぞれ「明星」「彗星」と命名され、さらに1953(昭和28)年11月には同区間に「月光」が増発されました。
 「彗星」は1956(昭和31)年11月の改正で不定期運転(現在は「季節運転」と呼ぶ)に格下げされましたが、翌年10月改正では戦後初の全席指定「寝台急行」として定期運転に復しました。昭和30年代には「あかつき」「金星」「すばる」と名付けられた列車も登場しました。いずれも夜行列車にふさわしい名前といえます。
 しかしこれらの列車の中で、今も東京-大阪間に健在なのは「銀河」一往復だけです。新幹線が開業した1964(昭和39)年10月の改正で「彗星」は廃止、残った列車も順次減らされ、1968(昭和43)年10月改正では増えすぎた列車名を整理すべく、東京-大阪間夜行急行の列車名は「銀河」に統一されてしまいました。

 その同じ改正で「彗星」は新大阪-宮崎間寝台特急の列車名として復活します。既に1965(昭和40)年10月の改正で、新大阪と西鹿児島・長崎を結ぶ寝台特急「あかつき」が登場していましたが、今度は東九州へのチャンネルが確保されたのです。当時、東京から九州への最も早い交通手段といえば、飛行機を別格として、新大阪乗り継ぎで新幹線と寝台特急を利用するのが一般的でした。乗り継ぎを嫌う人は東京と九州主要都市を結ぶ通称「九州特急(元祖ブルートレイン)」を選び、これらは連日多くの乗客を運んでいました。
 関西から九州へ向かうにも、夜行列車が主力の時代でした。68年10月の改正では、大阪から西鹿児島や宮崎へ向かう昼間の特急も現れましたが、所要時間は実に10時間を超え、昔より早くなったとはいえ苦痛だったことは否めません。それなら横になって行ける寝台列車が楽だと、夜行が持てはやされたと思われます。

 「彗星」は1970(昭和45)年10月改正で都城発着に延長され、1972(昭和47)年3月の新幹線岡山延伸に伴う改正では新大阪-大分間に一往復増発されました。1973(昭和48)年10月改正では二往復、翌年4月改正で更に一往復増発され五往復体制となりました。72年3月から約三年間は関西発着の寝台特急が最も充実した時期でした。「彗星」以外の寝台特急も、急行列車の格上げなどで増発が続き、最盛期の1974(昭和49)年秋には新大阪-西鹿児島・熊本・長崎・佐世保間「あかつき」七往復、新大阪-熊本間「明星(電車)」四往復、京都-西鹿児島間「きりしま(電車)」一往復という陣容となりました。他に名古屋-博多間「金星(電車)」一往復、岡山発着の「月光(電車)」が博多と西鹿児島にそれぞれ一往復ずつ走り、さらに夜行急行、加えて東京発着の寝台特急が多数走り、当時の山陽本線、殊に岡山以西は昼夜違わぬ活況を呈していました。

 転機は1975(昭和50)年3月に訪れました。同月10日、新幹線が博多まで伸びたのと引き換えに、山陽本線の昼間の特急・急行は殆ど廃止され、夜行列車も大幅に減らされます。「あかつき」は長崎・佐世保方面の列車となり、熊本・西鹿児島方面の列車は「なは」「明星」となります。また「彗星」は新大阪-大分・宮崎・都城間に各一往復ずつが残り、都城発着便を除いて電車化されます。このころから、相次ぐ値上げとストライキに音を上げた利用者が自動車または飛行機へと流れ出し、輸送量が目に見えて落ち込むようになりました。
 利用者減少→減収→特急格上げ・運賃等値上げ、という悪循環に陥り、利用者数の少ない列車はダイヤ改正で姿を消しました。「彗星」も例外ではなく、1980(昭和55)年10月改正では大分発着の一往復が、1984(昭和59)年2月改正では宮崎発着の一往復が廃止され、以後「国鉄分割民営化」をはさみ、新大阪-都城間の一往復体制が1995(平成7)年4月まで続きます。この間に「明星」は全廃、「なは」「あかつき」が一往復ずつ残りました。平成に入ると「なは」「あかつき」に座席車が付きましたが「彗星」には付きませんでした。

 95年4月改正で「彗星」は南宮崎発着に短縮され、それ以後も利用者数が伸び悩んだ結果、2000(平成12)年3月改正で京都-門司間は「あかつき」に併結という形になりました。門司以南は機関車を除きわずか四両の客車(多客期は六両)で走るという、全盛期から比べたらあまりにも寂しい姿です。
 そして今年10月1日のダイヤ改正で「彗星」は廃止されることになりました。「ついに・・・」という気持ちと「今までよく残っていた」という気持ちが半々です。「相棒」をなくす「あかつき」は、改正後は「なは」との併結が予定されているようです。ここ数年縮小が続く夜行列車。来年3月の改正でも夜行の廃止が囁かれているとか。「彗星」廃止は、明日をも知れぬ夜行列車たちの行く末を暗示しているのでしょうか。

※参考:JTB「時刻表復刻版・戦後編」、交友社「鉄道ファン」2001年3月号「ブルトレ盛衰記」ほか

出発進行

2005-06-19 21:07:45 | 鉄道独り言
※今日の一枚:天王寺駅16番のりばに停車中の関空・紀州路快速。京橋から大阪環状線内回り天王寺経由で阪和線に入り、日根野で和歌山行きと関西空港行きに分かれる。1999(平成11)年5月改正から登場。環状線内主要駅から和歌山方面への利便性を図るべく、それまでの関空快速8両編成のうち3両ないし5両を和歌山行きとした。関空利用者の伸び悩みで余裕が生じた輸送力を巧みに活用したといえる。乗務員は和歌山列車区、天王寺電車区・車掌区、京橋電車区・車掌区各区が担当。

 4月25日の事故以来不通が続いていた福知山線(JR宝塚線)尼崎-宝塚間は今日から運転を再開しました。事故前と比べ本数は変わらないものの、最高速度の引き下げや、事故のあったカーブでの速度制限強化(最高時速60km)、駅での停車時間を最大15秒程度延ばすなど、全体的にダイヤにゆとりを持たせています。また事故を起こした列車の番号(5418M)は欠番となりました。さらにATS-Pも本格稼動しました。
 しかし同じ日に紀勢本線で特急が300mのオーバーランを起こし、他線区とはいえ運転再開にミソを付けてしまいました。また昨日までの運休に伴う減収は15億円、振替輸送を行った阪急などへの支払いが約9億円と見込まれているそうです。さらに運休中に阪急などへ転移した利用者を再びJRへ呼び戻せるかどうか、そして何より、事故の遺族や被害者への補償など、運転再開の行く手には多くの問題が待ち構えています。

 今回のダイヤは来年3月までの「暫定」であり、JR幹部によると利用者の意見を聞いたうえで来年3月以降は速度の引き上げも検証する」と見直しに含みを持たせています。また「遅れの回復は運転士の責務、当然やってもらう」と、回復運転を正当化しており、再び「スジを立てる気か」と不安になります。
 一方で、来春から東海道線の新快速の所要時間を若干延長(京都-大阪間、大阪-三ノ宮間で各一分程度)するとの報道もあり、現場では試行錯誤が続いているのだろうと思います。今回の暫定ダイヤで所要時間が増えたことにより、尼崎駅での他線への接続は事故前よりも待ち時間が増えていると思われますが、来春の見直しで改善されるかもしれません。利用者の要望次第では、前倒しで見直しされる可能性もあります。
※6月25日追記:JR西日本は来年3月の福知山線ダイヤ見直しについて「速度制限を継続する」と発表。

 「鉄道事業者は安全最優先で列車を運行すべき」この点は異論がないと思いますが、事業者が安全に気を配っても、利用者や第三者の行動が安全や定時運行を妨げてしまうことが往々にしてあります。踏切事故や飛び込み自殺は運転妨害の最たるものですが ホームでの駆け込み乗車も定時運転の妨げとなります。ドアを何度も開閉し、安全確認で時間を取られ発車が遅れてしまい、最悪の場合は体をドアに挟まれたまま引きずられることもあります。過去に新幹線の駅で、ドアに挟まれた客が引きずられて死亡する事故も起きました。
 それだけに現場の社員は、駆け込み乗車に対し神経を尖らせることになります。東京都内では先日、中央線快速電車の乗務員が車内放送で駆け込み乗車への苦言を呈したそうですが、内容がやや感情的(駆け込み乗車で怪我をしても乗客の自己責任云々、と言ったらしい)であったことが災いし、乗客がJRに抗議したとか。駆け込み乗車は社員だけでなく、ルールを守っている乗客をも気まずくさせるようです。

 <以下、やや過激な独り言に見えるかもしれません>
 大阪や尼崎などのJR主要駅(とりわけ草津-西明石間の在来線各駅)ホーム(JR西日本では「のりば」と称する)で、列車到着前に「今度、○番のりばに到着の電車は・・・二列に並んでお待ちください」、列車が着くと「お忘れ物のないようご注意ください」「降りる方が済みましたら前の方に続いてご乗車ください」、そして発車直前に「ドアが閉まりますからご注意ください」「駆け込み乗車はお止めください」等々、案内放送が延々繰り返されます。放送自体は他の鉄道でも行われていますが、JR西の場合は少し気になる点があります。
 「お待ちくださいっ!」「お止めくださいっ!」「ご注意くださいっ!」「新快速ヒメジッ!行きです」「停車駅は尼崎、アシヤッ!サンノミヤッ!」と、ややブッキラボウにも聞こえる男性の声。駅構内で現場社員の方々が頭を下げ声をからして詫びる一方で、のりばでは頭上から間断なく、無機質かつ無愛想な口調で細かく指示される。やや血の気の多い利用者が(交代のため待機中の)乗務員に暴言を浴びせたり物を投げつけるといった行為の背景には、駅のりばの案内放送への「隠れた不快感」があると考えるのは早計でしょうか。

 現行の案内放送は2002(平成14)年7月、草津-西明石間への「運行管理システム」導入に伴い始まったと言われています(大阪駅ではその前年に、従前の女性だけの声から男女混合?の放送に変更されたらしい)。その「ご自慢のシステム」が実は「福知山線へのATS-P導入を後回しにしてまで優先されたらしい」という話もあり、過ぎたこととはいえ「もし福知山線ATS整備を優先していたら」という気持ちになります。
 仮に案内放送が首都圏のような標準語でなく、関西弁を生かしたものだったら、もう少し雰囲気が改善されるのではないかと思うのですが「実用的でない」と一蹴されるでしょうね。でもせめて、声優A.M氏を起用した現行案内放送の見直しについて前向きに検討願えませんか、JR西日本さん。 

※草津-西明石間の駅案内放送については以前に「二列に並んで」という記事で触れている。  

答えは、デンシャで出せ。

2005-06-08 23:24:45 | 鉄道独り言
※今日の一枚:大阪駅3番のりばで発車を待つ福知山線篠山口行き快速電車。車両はかつての「新快速」117系。国鉄末期に大阪地区専用車として登場、後に名古屋地区にも配置され、JR初期まで新快速として活躍。その後は色を塗り替え車内を若干手直しした車両が福知山線や紀勢本線などに転属、また岡山支社へ旅立った仲間もある。なお画像の3番のりばは現在工事中。電車右手のホームが現在3,4番のりばとなっている(事故前に撮影)。

 いかに周囲からの罵倒が重荷だったとはいえ、暴走行為が正当化されるわけではない-JR西日本の運転士が深夜の暴走行為で捕まった件は、その後の調べで「尼崎事故の後で客に罵られストレスを感じていた」と話したそうですが、彼は事故前から暴走を繰り返していたとされ、客の暴言云々が直接原因とは言い難いと警察は見ているようです。ダイヤ厳守と安全運転の板挟み、ミスを起こせば日勤教育が待っている、そんな乗務時の息苦しさを忘れようと、彼は「ハンドルを握った瞬間に人格を切り替えて」路上で憂さを晴らしたのか。
 事故発生後の乗務員に対する暴言・暴行等は、度を過ぎた面があると思います。だからといって世間が同情するわけでもありません。もし仮に暴走行為で死傷者が出ていたら、それこそ袋叩きにされていたでしょう。

 百七人の犠牲者と五百人以上の怪我人という大事故を起こした上に、事故直後の社員の行動や日頃の労務管理なども暴露され、マスコミは鬼の首を取ったかのごとく連日JR西日本をバッシング。それと呼応するように、線路への障害物放置(列車妨害)やJR社員への嫌がらせが続きました。列車妨害は関西のJRに留まらず、広島県内やライバル関係にある阪急線でも起こりました。さらには事故に便乗した「脱線詐欺」の横行。もはやJRへの批判・非難の裏返しというよりも、トラブルやパニックを期待している「愉快犯」そのものです。
 「列車の脱線を見たかった」などという輩は論外ですが、乗務員に八つ当たりしている人たちも、そろそろ矛を収めるべきではないか。暴言や暴力を浴びた乗務員が動揺してミスを起こさないとも限らないし、ミスが事故につながったら取り返しがつきません。第一、乗務員に八つ当たりしても犠牲者は生き返らないのです。

 乗務員に同情すべき点もないではありません。遅れが容易に回復できない厳しいダイヤで「時間厳守」を要求され、途中の駅で乗降に時間を取られたら制限速度を超過してでも遅れを取り戻す行為の常態化。遅れた理由を利用者に転嫁できず、客を装った社員の監視に怯える毎日。運転業務以外に切符やツアーの販促ノルマを課せられ、何とかノルマを達成しようと、ツアーは公休日に自費参加。減給と日勤教育を避けるべく運転ミスの虚偽申告さえ厭わない雰囲気。これらに加え、事故後は暴言や暴力に晒される毎日。こうした重圧に耐え、信頼を回復しようと運転業務に黙々と取り組む大多数の乗務員が存在すると信じたいのです。

 レールの外で暴走行為に及んでしまった乗務員にも言い分はあると思います。「駅進入時に、オーバーランを期待するかのごとくカメラを向けられた」という発言は、駅で列車を撮影することも多い私には少々耳の痛いものでした。一部の野次馬の行為とはいえ、鉄道ファンの品位を問われかねない出来事であり、列車の撮影行為への批判に発展しかねない。自分のミスを「フォーカス」されて喜ぶ人は、まず存在しませんよね。
 しかし、クルマのアクセルを吹かすとき、彼は「自分たちに世間が注目している」ことに気づかなかったのでしょうか。大事故の直後という微妙な時期に、人の命を預かるはずの乗務員が無謀な運転で警察沙汰になれば、信頼回復のため必死で働く仲間たちを裏切ることになってしまうと、思い返さなかったのでしょうか。線路への置石も、路上での暴走行為も、他人に迷惑を及ぼす危険な行為であることに変わりはありません。

 事故が起きた区間では昨日から試運転が始まったようです。運転再開を望む声も少なくないとはいえ、事故現場周辺の住民からは不安の声も上がっているようです。壊れたマンションの住民に対するJRの説明会は双方の意見が食い違い、住民からは失望の声が上がったとか。JR西日本は事故補償に加え運転再開、安全設備の充実、労務管理の見直し、社風の改革など手掛けることが多すぎて、暫くは多忙を極めることと思います。世間やマスコミの目も一段と厳しくなるかもしれません。事故で失った信頼を戻すのは至難の業です。
 真摯に安全輸送に取り組み、誠心誠意謝罪し、二度と悲劇を繰り返さないことが利用者への回答であり、そして被害者や犠牲者への何よりの供養となることを今一度認識してほしい。レールの外に答えは無い。

でも、何かが違う

2005-05-08 23:28:18 | 鉄道独り言
※今日の一枚:糸魚川駅にて。2番のりばに着いた普通電車は運転士が交代し、6分後に直江津へ折り返す。北陸の片隅を走る電車も、京阪神を貫くように走る電車も「生活を乗せて走る」「人の命を預かって走る」ことに変わりはない。乗務員の双肩に使命と責任が重くのしかかる。

 「呆れたけれど、驚くには値しない」。これが正直な気持ちです。次々に明らかになった事故当日のJR西日本一部社員の行動。何だか、数年前の某県警幹部と一緒ですね。十年にわたり監禁されていた女性が見つかったという報告を受けていながら、管区上級幹部の接待を打ち切ろうとしなかった某県警本部長らは県民の厳しい批判を受け、本部長は依願退職に追い込まれました。しかもこの時、県警上層部は女性発見に至った経過を改ざんして発表するという「虚偽会見」も行っていたことが判明し、警察への不信が一挙に高まりました。今回の事故にしても、オーバーラン距離の改ざんが判明しています。「時代は繰り返す」と言いますが・・・

 「管区局長が雪の新潟へはるばる訪れたのだから、失礼のないように心を尽くして歓待を」。同業の上級幹部の視察でさえここまで気を使うのだから、ましてや国会会期中で疲れている議員センセイが永田町から「わざわざ」丹波篠山までお越しになるのであれば「事故が起こったので今回はお引取りを」と無碍に断るわけにも行かなかったのだろう、と想像してしまいます。宴席に呼ばれたとされる代議士も「断ろうかと思ったが、折角のお誘いだからと参加した」と複雑な胸中を明かしています。参加するのは個人の自由、と言ってしまえばそれまでですが、民主党が広範に支持を得られない原因は、案外こんなところにあるのかもしれません。

 今夜の「さんまのスーパーからくりTV」の替え歌コーナーでは、以前にも出演したらしい「離婚で別れた娘と再会した父親(名前は忘れた)」が再登場していました。前回は、高校を中退してキャバクラ嬢になっていた娘と再会したときの驚きを切々と?歌い上げたそうで、今回は娘に会いにキャバクラへ出かけたことを「恋の季節」のメロディに乗せて熱唱。「最近、娘とメール交換できるようになった」と、まんざらでもなさそうな父親。
 本来なら切実な話題となるのでしょうが、バラエティで取り上げられた故にギャグネタとして扱われる始末。今や「女子高生が退学して水商売」という実態すら何とも思われないご時世なのか。だいたい、娘がそのような顛末を辿った原因の一端が自分にあるのだと、この父親は自覚しているのでしょうか。本当に自覚しているというなら自分の娘を、バラエティの生中継でネタにして晒すような真似などできないと思いますけどね。

 事故を起こした電車に同乗していた運転士二人が救助活動をせず電車区への出勤を急いだことも明らかになっていますが、これについては運転士ばかりを責めるのは酷な気がします。事故に遭ったことを聞いた上司が救助活動への参加を指示せず、出勤を促した背景は何だったのか。事故に対する認識の不足(犠牲者が百人を超すような事故だと思わなかった)もあったのでしょうが、仮にその時点で大事故であることを認識していても「管轄が違うから」と救助活動を指示しなかった可能性があります。もっとも二人のうちの一人の所属は福知山線も受け持つ尼崎電車区であり、管轄外とは言えないはずですが、尼崎の運転士は10時からの支社長講演に参加するため出勤を急いだのでは、という見方もあるようです。仮に講演がなかったとしても、はたして救助活動従事を上司が認めたのかどうか。分割民営化以来人員が減らされ、交代要員の手配すら覚束ない状況ではなかったか。救助活動が長引けば乗務に差し支える、自分の代役はいない、事故で気が動転していても「乗務に穴は空けられない」と、人命よりも勤務を優先する心理が無意識のうちに育っていたのでは。

 JR発足直後に聞いた話です。ある会社で車掌が勤務中に階段で転び肋骨を折る重傷を負いましたが、胸に晒しを巻いただけの応急処置で、痛みをこらえて列車に乗務し、勤務が明けた後は会社主催のパーティーに出席したそうです。パーティー終了後に倒れて病院に運ばれた時はすでに手遅れで、折れた肋骨による内臓破裂で帰らぬ人となったそうです。乗客の命だけでなく社員の命すら軽んじられているのでしょうか。
 分割民営化の前後に採用を控えたことなどが原因で、30歳代の中堅社員が少なく若手と年配者の極端な二分化という年齢構成。またJRへ引き継ぐ国鉄職員が所属組合や分割民営化に対する姿勢によって選定されたこと。そしてJR発足直後は危機意識をあおり「会社への忠誠」を求めた(らしい)こと。これらが長じて「物言えぬ社員」を育て上げたのだとすれば、分割民営化の意義そのものが問われることになりはしないか。
 分割民営化に当たって、新会社を担う人材として選別された職員が「大事故直後にもかかわらず宴会やボーリングに興じる」人だったというなら、何のための選別だったのか。何のための分割民営化だったのか。

穿った見方をすれば、宴会やボーリングは「社内での息苦しさ」の捌け口だったのかもしれませんが。

手塚・塚口・宝塚

2005-05-02 23:10:27 | 鉄道独り言
※今日の一枚:事故前の伊丹駅にて。快速も停まる主要駅の一つ。駅から大阪空港への路線バスもある。伊丹市内には阪急伊丹線も乗り入れ、JR伊丹駅から西へ800mほど離れて阪急伊丹駅がある。阪急塚口で乗換えというハンデはあるが、梅田へはJR(大阪)よりも安く行ける。

 JR福知山(宝塚)線脱線事故から一週間が過ぎました。テレビや新聞では連日、事故関連の報道が続いています。復旧のめどが立たず阪急への振替輸送が続き、マンション住民も避難を余儀なくされています。
 事故を起こした電車は、恐らくカーブ直前に急ブレーキをかけたことが原因で脱線前後に片輪走行状態に陥ったとの見方も出てきたようです。片輪走行なんて自動車の世界の話とばかり思っていましたが・・・。
 かつて「いすゞジェミニ」のCMで、ジェミニが片輪走行している場面が登場しました。それが友人との間で話題になり「死重を片側に積んでいるんだろうか」と話した憶えがあります。また70年代後半の漫画「サーキットの狼」やアニメ「グランプリの鷹」でも、主人公のマシンが片輪走行する場面が出てきました。
 
 今回の事故に伴う救命活動では、怪我の度合いに応じ治療順位を決める「トリアージ」が本格的に実施されたそうです。怪我の度合いから治療の優先順位を判断し、色分けしたタグを怪我人に付けるることで、重傷者に対し迅速な治療を施すのが目的です。赤いタグが付いた怪我人は治療が最優先され、黄・緑の順に優先順位が下がります。黒いタグを付けられた人は残念ながら「助かる見込みがない」と判断された人だそうです。
 もしブラック・ジャックが実在したなら、彼は黒いタグの怪我人をも救うことが出来たのでしょうか。

 漫画「ブラック・ジャック」の作者、手塚治虫さんは幼少期から青年期を宝塚で過ごしました。学校へ通うには阪急電車を使っておられたようです。当時通っていた大阪府池田師範学校附属池田小学校(現・大阪教育大学附属池田小学校。四年前に児童殺傷事件がおきた学校である)は阪急宝塚線池田駅が最寄駅でした(現在の附属池田小は若干移転したが、最寄駅は池田である)。事件の後に改築された校舎のエレベーターには、ここが手塚さんの母校であることを主張しているかのように、扉にアトムや火の鳥が描かれています。

 福知山線の川西池田駅は兵庫県川西市が所在地ですが、1949(昭和24)年以前は池田駅と称していました。駅から北東へ400mほど進むと阪急宝塚線川西能勢口駅があり、国道176号線沿いに東へ1キロ半ほど進めば池田市に入ります。今回の事故で亡くなられた方の中に、川西市在住の方が18人おられたようです。
 福知山線と阪急宝塚線は川西池田(川西能勢口)から宝塚までほぼ並行しています。一昨年のダイヤ改正で快速停車駅となった中山寺駅は阪急中山駅に近接しています。駅数は阪急の方が多く、地元の人にはそれだけ利用しやすいことになりますが、駅数が少ないJRに比べ所要時間が多くなります。それでも福知山線が電化される前は阪急が所要時間で勝っていました。国鉄末期の電化で速度が上がり運行本数も増え、JR発足後はそれが一層顕著となって車両も近代化されると、阪急は安閑としていられなくなりました。

 福知山線は1893(明治26)年、摂津鉄道という私鉄により池田から尼崎(開通当時は尼ヶ崎)まで開通したのが始まりとされています。当時の尼崎は海岸寄りの駅で、現在の尼崎駅(当時は神崎という駅名だった)とは別でした。摂津鉄道から営業を引き継いだ阪鶴鉄道は1898(明治31)年、塚口から神崎に至る路線を建設し、大阪方面への乗り入れを企図しました。当初は東海道線上り線の外側から合流する形でしたが、1934(昭和9)年に神崎-塚口間を複線化した際、下り線は神崎駅西方で東海道線をまたぐ形で増設され、従来の路線は上り専用となりました。そして1997(平成9)年、上り線を下り線に並行させて尼崎駅構内に入る形に改められ、現在に至っています。東西線との直通、東海道線との乗換え改善を視野に入れた構内改良でした。
 
 97年の路線変更でカーブが生じたことを事故の背景に挙げる記事もありますが、その根源は明治時代に遡るのかもしれません。歴史に「イフ」は無意味ですが、もし摂津鉄道が当初から大阪乗り入れを検討していたなら、路線を初めから神崎(現尼崎)につなげていたかもしれないし、その接続に無理が生じないようなルート(あるいは神崎以外で接続し、塚口駅などの位置も変わったかもしれない)を選定したと思うのです。
 ちなみに神崎は1949(昭和24)年に駅名を尼崎に変更し、従来の尼崎は尼崎港に改名しました。そして塚口-尼崎港間は1981(昭和56)年、塚口-宝塚間電化と引き換えに旅客営業が廃止され貨物専用線となり、1984(昭和59)年1月末限りで路線自体が廃止されました。神崎接続が尼崎港の運命を変えたのでしょう。
(参考:小学館「全線全駅鉄道の旅8 近畿JR私鉄1300キロ(1991年刊)」ほか)

行き過ぎた理想

2005-04-28 23:50:11 | 鉄道独り言
※今日の一枚:2004年3月、新大阪駅にて。国鉄時代の代表的近郊電車113系。04年10月のダイヤ改正でJR京都線・神戸線からは姿を消した。晩年は朝夕ラッシュ時の快速に細々と使われていた。JR東海名古屋圏・JR東日本東京圏からも急速に姿を消しつつある。

 JR福知山(宝塚)線での脱線事故による犠牲者が百人を超えてしまいました。運転士を含む遺体収容で捜索は終了し、今後は事故原因究明と犠牲者、負傷者及び遺族への補償に重点が置かれる模様です。
 今回の事故の潜在的要因の一つに、複雑かつ限度一杯のダイヤ設定が挙げられているようです。複数の路線への乗り入れ、乗り継ぎ駅の同一ホームでの接続、平行民鉄線より一分でも早く目的地に着くための速度設定、これらの条件を可能な限り盛り込んで組まれた関西圏のJRダイヤは、もはや芸術の域に達した感すらあります。しかし裏を返せば「ライバルを出し抜くサプライズがなければ利用者に見向きもされない」という、競争また競争の厳しい世界で(大袈裟に言えば)生き残りをかけた窮余の策、とも受け取れるのです。

 国鉄が分割民営化を控えた1986年9月、草思社という出版社から一冊の本が出されました。タイトルは「東京圏通勤電車事情大研究」、著者は川島令三(かわしまりょうぞう)という人でした。
 川島氏は学生時代から鉄道に興味を持ち、鉄道関係の出版社に勤めるジャーナリストでした。彼はその著作で首都圏の国鉄や民鉄、地下鉄の旅客輸送についての現状と、あるべき姿を提言していました。副題に「各線別徹底批評」とあるとおり、路線ごとに問題点や改善案を具体的に記すという斬新かつ挑発的な内容で、当時話題になりました(私は88年夏に購入したが、初版から実に第11刷を数えていた)。反響に気を良くした?川島氏は87年に「関西圏通勤電車事情大研究」を、90年には「新東京圏通勤電車事情大研究」を世に問い、その後は各地域ごとの鉄道の現状の研究本や、新幹線計画に言及した著作などを上梓しています。
 
 川島氏の主張は、やや過激とも思える表現と「~すべき」を連発する論調が若干鼻につく嫌いがありますが、利用者の側に立った苦言や疑問を展開し、乗客本位のサービスを各鉄道会社に求めた点は画期的でした。だからこそ、鉄道ファンのみならず世間でも取り上げられ、ベストセラーになったのでしょう。
 例えば、処女作「東京圏~」に見られる「営団地下鉄の車両を冷房化すべき」「京浜東北線で快速運転を行うべき」「京葉線西船橋-市川塩浜間の連絡線を使って武蔵野線電車を東京へ乗り入れるべき」といった幾つかの提言は、後に実現しています。昔だったら「一利用者の我侭」で片付けられていたかもしれません。

 一方で「東京圏~」において彼が紙数を費やしていた主張の一つに「競争とスピードアップ」がありました。当時既にバブル景気が始まっており、都心やその周辺では土地が値上がりし「夢のマイホーム」を求める人は都心から離れた地域へ移転せざるを得ませんでした。こうして遠距離通勤者が増えたにもかかわらず「電車のスピードは昔と変わっていない」と批判し、国鉄及び並行する民鉄に「関西のように互いに競争すれば自ずとサービスは良くなる」とハッパをかけ、挙句「電車はもっと早く走れるはずだ。スピードを上げて所要時間を短縮すべきだ。そうすれば都心から離れた地価の安い町もベッドタウンとなり得る」と持論を展開しました。
 さらに「「窓が小さいと車内が暗く、景色も見えにくく精神衛生上宜しくない。窓を高くしたり、網棚上部に採光窓を設けるなど工夫がほしい」という提言もあります。結果論になりますが、今回の事故はスピードの出し過ぎが原因の一つと見られ、また事故車両は大きな窓がその特徴の一つでした。窓面積を広げたことが車体強度の低下につながったとも思えてなりません。そして窓ガラスの破片でけがをした人も少なくないようです。

 奇しくも川島氏は兵庫県出身です。87年に刊行した「関西圏~」では、地元だからとベタ褒めすることなく、JR西日本や民鉄各社・各線に奮起を促しています。福知山線についても「現状(87年当時)では阪急に勝てない」「車両が汚い。阪急を見習うべきだ」と辛口に批評しています。それを真に受けた訳でもないと思いますが、それから十年間で福知山線は面目を一新しました。車両の更新が進み、複線化は篠山口に達し、速度は上がり本数は増え、ダイヤ見直しで東西線だけでなく京都・高槻方面への直通も実現し、阪急を脅かす存在となりました。まさに「競争でサービスが向上した」実例と言えますが、利便性と快適性を追求する一方で、その芸術的ダイヤは現場の苦悩と背中合わせの「ガラス細工のような脆さ」を抱え込んだのかもしれません。

連鎖反応

2005-04-26 23:36:19 | 鉄道独り言
※今日の一枚:JR西日本207系電車の車内。大きな窓と落ち着いたシートの色が印象的。通勤型には珍しく、天井の蛍光灯にカバーが付いている。中間車の場合、着席できる人数は一両あたり大人54人。この車内が阿鼻叫喚の修羅場に変わろうとは、誰一人想像しなかったことだろう。

 JR福知山(宝塚)線での脱線事故による犠牲者は今夜11時の時点で78人に達し、なお車内に十数人が取り残されている模様です。怪我人は460人近くを数え、重傷者も少なくないようです。事故現場を含む尼崎-宝塚間は運転再開の見込みが立たず、宝塚以北や東西線などでも運転本数が減らされているようです。
 当初8メートルとされたオーバーランは、その後の調べで40メートルだったことが明らかになりました。車掌と運転士が口裏を合わせたということらしいですが、乗務員にあるまじき行為と非難されても致し方ありません。伊丹駅から電車に乗ったという乗客は「いつも停まる場所より二、三両分ぐらい過ぎてから停まった」と、25日のNHKニュースで話していました。一両の長さが約20メートル、乗客の証言から見れば到底8メートルオーバーでは済まなかったわけです。もし事故がなければウソの報告が罷り通ってしまったかもしれない。

 事故を起こした電車は、宝塚を発車してしばらく走った時点で異変が起きていたようです。モーターが付いていない4両目で「ゴーとかキー」という音が聞こえたとすれば、それはモーターの激しい唸りだったのか、それとも他の機械部分が悲鳴をあげていたのか。技術が進んでメンテナンスに手が掛からなくなったとはいえ、日常点検を手抜きして良いはずはありません。置石や速度超過だけでなく電車自体の具合はどうだったのか。
 伊丹を発車後、オーバーランについて事情を聞こうと指令が運転士を呼び出したらしいですが、応答がなかったそうです。回復運転に集中していたのか、騒音で無線が聞き取れなかったのか(実際に聞き逃すことはあると、JR側も認めている)、それとも無線に応答できない別の要因があったのか、真相は不明です。
(運転中の乗務員を無線で呼び出すか?でもタクシードライバーは運転中も無線でやりとりしているよね)

 一方で運転士の健康状態を疑う指摘も出ています。一昨年二月に山陽新幹線で運転士が運転中に居眠りをした事件(これで「睡眠時無呼吸症候群」がクローズアップされた)は記憶に新しいところです。また1982年2月、羽田空港に着陸しようとした日航機が手前の海に落ちる事故がありましたが、心身症を患っていた機長の異常行動(逆噴射)が原因とされています(当時「逆噴射」が一寸流行語になったような気がする)。
 これほどの病気でなくとも、たとえば何か気がかりなことがあって運転に集中できなかったとか、つい考え事をしてブレーキのタイミングを誤ったとか。オーバーランの直後で気が動転していたのかもしれません。
 いずれにせよ、今後は乗務員の健康管理(身体のみならず精神面も)の見直しも課題となりそうです。

 「もう二度と乗りたくない」という怪我人のコメントがありましたが、207系を見ただけで事故を思い出し気分が悪くなる、という一種のトラウマを生じる人が現れても不思議ではないと思います。四年前の大阪教育大付属池田小の事件の後、同小は校舎を全面的に建て替えましたが、だからといってJRが全ての207系電車を速やかに別の車両に置き換えることが実際可能でしょうか。何しろ全部で500両近い一大勢力ですから。
 それにしても、電車が潰れた映像が「これでもか」と連日流され、さらに「ステンレス車は強度不足。側面への衝撃には弱い。だから被害が大きくなった」などと専門家が口を揃えたら、一般の人だけでなく現場の人も「JR宝塚線は怖い、ステンレスの電車は危ない」と萎縮し、却って士気が削がれるのではないでしょうか。 

 この事故でJR西日本の株価が下がり、またNHKなどで放映予定だった鉄道関連の番組は放映中止を余儀なくされました。株価はともかく、テレビ番組にまで過剰に反応するのはいかがなものかと思いますが。
 さらに悪いことに、今日は常磐線の踏切で特急スーパーひたちがトラックと衝突する事故がありました。トラック運転手が軽傷で特急の乗員乗客は無事だったものの、スーパーひたちは最高時速130km/hを出します。しかも事故があった区間は、宝塚線ほどではないにせよ比較的運転本数が多く、一歩間違えば二日連続の大惨事となったかもしれません。東西で大事故の連鎖反応なんて、下手なジョークにすらなりません。

安全第一で

2005-04-25 23:23:12 | 鉄道独り言
※今日の一枚:東海道線(JR神戸線)塚本-大阪間を走る207系電車。外側の線路を走る新快速電車の車内から撮影。今回事故を起こしたのと同型の車両である。東西線・片町線(学研都市線)は全てこの車両で統一されている。すっかり京阪神に溶け込んだ存在であったが・・・

 大変な事故が起きてしまいました。尼崎市内のJR福知山線で快速電車が脱線してマンションに激突し多数の死傷者を出すという、JR発足以来最悪といわれる大惨事が起き、今なお救出活動が続いています。亡くなられた方のご冥福を祈り、まだ車内に取り残されている方の一刻も早い救出を願うばかりです。
 午後1時からのNHKニュースでは、事故に遭った電車に乗り合わせていた神戸放送局の小山正人アナが撮影したという事故直後の車内の画像が映し出されました。また毎日新聞の記者も同じ電車に乗り合わせていたらしく、事故の直前直後の様子を語った記事が同社サイトから配信されていました。
 
 事故が起きた福知山線は尼崎と福知山を結ぶ幹線です。大阪近郊を走る路線でありながら長らく電化されず、国鉄末期の1981(昭和56)年4月にようやく塚口-宝塚間が電化され、大阪から宝塚まで電車が走るようになりました(1956年に尼崎-塚口間が電化されたが、特急列車の回送に使われただけだった)。
 かつて大阪と宝塚の往来は阪急宝塚線の利用者が圧倒的に多かったと言われています。戦前から電車を頻繁に走らせ、戦後は国鉄に比べ安い運賃と本数の多さ、所要時間の短さで常に優位を保ってきました。
 劣勢だった国鉄がヤル気を見せたのは1986年11月のことでした。分割民営化を翌年に控え「国鉄最後の大改正」と銘打って全国規模のダイヤ改正を行いますが、その目玉となったのが福知山線でした。

 宝塚止まりだった電化区間を終点の福知山まで延長し、併せて新三田まで複線化を実施しました(尼崎から宝塚までは1980年暮れまでに複線化された)。新三田は三田市内に造成されたニュータウンの最寄り駅として、ダイヤ改正と同時に開業しました。そして大阪と新三田の間には電車が大増発されました。
 1987年に発足したJR西日本は、福知山線を大阪近郊の通勤生活路線として重視し、阪急への対抗意識を強めます。88年3月からは大阪-篠山口間に「JR宝塚線」という愛称を付け、福知山線が伊丹・宝塚へのルートであることを宣伝します。また快速電車の設定、普通電車の増発をダイヤ改正ごとに行います。

 1997(平成9)年3月の東西線(京橋-尼崎)開業は、福知山線にとっても一大転機となりました。東西線を介して、福知山線の電車が片町線(学研都市線)へ乗り入れるようになったのです。
 具体的には、片町線の快速電車が東西線を通って(東西線内は各駅停車)尼崎から福知山線に入り、快速運転を行って宝塚で折り返します(朝夕のラッシュ時は新三田・篠山口まで乗り入れる)。快速は15分間隔で運転され、尼崎では東海道線(JR神戸線)の電車に接続して神戸・京都方面との便宜を図っています。
(なお早朝・深夜は片町線~福知山線の直通電車は各駅停車となるものもある)

 今回事故を起こした電車は宝塚から片町線の同志社前へ向かう快速でした。宝塚折り返しの快速電車には、折り返し時間が2分程度という慌しいものがあります。また近年は中山寺にも快速が停まるようになりましたが、停車駅を増やしても所要時間はあまり延ばせないから、ダイヤ設定は厳しくなったことでしょう。
 国鉄時代、列車のダイヤには「余裕時分」が盛り込まれていたといいます。途中で何分か遅れても、すぐに所定の時間に戻せるよう、あらかじめ所要時間に若干ゆとりを持たせたようです。しかし国鉄末期から「余裕時分」を切り詰めて、スピードアップを図る方向に切り替えられます。例えば1965年以来、新幹線ひかり号は東京-新大阪間を3時間10分で走っていましたが、1985年に余裕時分を詰めて3時間8分に短縮しました。

 阪急への対抗意識のあまり、207系という軽量高性能電車の能力上限一杯で福知山線のダイヤを組んでいた、というのは考えすぎでしょうか。ただでさえ余裕を詰めた厳しいダイヤなのに、遅れが出たらそのダイヤを上回る勢いで走らないと遅れを戻せない、遅れを戻さなければ尼崎で東海道線に接続できない、それより処分が怖い・・・伊丹でオーバーラン・1分半の遅れを出してしまった運転士は焦っていたかもしれません。
 
 かつてJR西日本の駅待合室で「最大のサービスは安全です」という同社のPRポスターを見かけました。その謳い文句は同社の真剣な決意の表れだったのか、それとも単にカッコ付けたかっただけなのか。

イメージキャラ

2005-04-03 23:32:24 | 鉄道独り言
※今日の一枚:長岡駅にて。上野から金沢へ向かう寝台特急は、この駅で方向転換する。真夜中ゆえ客の乗り降りは扱わず、乗客の中には駅に停まっていることすら気づかない人もいるだろう。ここで赤い機関車に交代し、いよいよ日本海を望む北陸への旅支度が整う。

 今夜の大河ドラマ「義経」に夏木マリが丹後局(たんごのつぼね)役で初登場。はっきり言って、不気味さが画面から漂ってきました。得体の知れない女性キャラを演じさせたらピカイチかもしれない。
(「千と千尋の神隠し」の湯婆の声もやたら憎憎しく聞こえたものだ)
 彼女は元々、歌手としてデビューしたらしいですが、やがて女優に開眼し、今は歌手と役者のの二枚看板で活躍しています。昔、歌謡番組で「お手やわらかに」を歌う彼女を見た記憶が微かにあります。
 ちなみに源仲綱役で登場した光石研は、2003年の大河ドラマ「武蔵」で吉岡伝七郎を演じた人ではないだろうか。どっかで見た顔だと思っていたが。

 夏木マリ様は以前、NRE(日本レストランエンタプライズ。かつての日本食堂を1998年に社名変更)の駅弁「フレッシュ&ヘルシーキャンペーン」にイメージキャラとして広告やPR誌などに登場されていました。「O-bento(オーベントー=OH!弁当?)」誕生直後には、そのイメージキャラとしても活躍したかもしれません。
 しかしキャンペーンのチラシを見たときは「もっとイメージに合う人がいるだろうに」と思ったものです。精力的に活躍する彼女も適役なのかもしれませんが、あまり若い世代向けではないと感じました。
 「じゃあ誰が適役なんだ?」と言われても直ちに名前を挙げることは出来ませんが、たとえば藤原紀香あたりが適役ではないかと、個人的には思います。でも紀香サンは兵庫県出身、東日本エリアというより西日本エリア向けのキャラかもしれない。それなら関東出身者から選んだら、ということになると誰が適役か。すぐには名前が思いつかない。関東以外なら宮城出身の鈴木京香、新潟出身の大桃美代子あたりが適役かも。

 思えばJR発足直後、東日本会社のイメージキャラを務めたのが「元祖国民的美少女」の後藤久美子でした。発足直前から「誕生まであと何日」というTVCMに出ていたのを憶えています。また当時「新鉄道唱歌・逢えるかもしれない(B面・彼と彼女のソネット)」を歌った原田知世のオレンジカードが87年の夏ごろ、首都圏の駅で発売されていました。でも原田知世は長崎県出身、どちらかというとJR九州のイメージだよね。
 そのJR九州は発足当初、福岡出身の酒井法子をイメージキャラに起用しました。同じ福岡(久留米)出身の松田聖子よりも、デビュー間もない「のりぴー」が新生会社のイメージに合ったのでしょうか。
(なお原田知世は1998年、JR九州の「ナイスゴーイングカード」のイメージキャラに起用された)

 JR西日本は発足当初、誰をイメージキャラに起用したのか。発足直後については分かりませんが、1988(昭和63)年3月のダイヤ改正ポスター・パンフレットには大阪出身の大西結花が登場しています。
 しかし同年夏には兵庫県出身の南野陽子に交代し、以後90年春までナンノがJR西日本の「顔」となります。90年夏以降は神奈川県出身の西田ひかるや、千葉県出身の田中美奈子が数年間イメージキャラに起用されました。彼女たちは関東出身ですが、好感度の高い人気者なら出身地は問わない、ということなのかと思います。でも西田ひかるについては、苗字に「西」が入っていることも起用の一つの理由かもしれません。
(その理屈だと、鹿児島県出身の小西真奈美もJR西日本のイメージキャラになれる?)

 石坂浩二氏も89年以降、JR西日本で不定期かつ長期間イメージキャラとして活躍されました。新幹線のCMや90年の花博キャンペーン、また「九州交響旅」キャンペーンなどに登場しました。
 さらに期間限定?のスポット的キャラとしては、89年夏の「イッキに南紀」キャンペーン(特急くろしお新大阪乗り入れ)に山口智子が、97年3月の東西線開業キャンペーンに賀来千香子が起用されています。
(三人とも関東出身。ただし賀来千香子は大阪府枚方出身という説もあるようだ)
 最近では2000年から数年間、名古屋出身の愛里がイメージキャラに起用されていました。

 「地域密着」を謳い文句にしているとはいえ、イメージキャラは地元出身者にこだわらないという姿勢に柔軟さが感じられます(人気者や注目株を狙い撃ちしているだけかもしれないが)。
 JR西日本さん、日本と韓国の雲行きが怪しい今こそヨン様をイメージキャラに起用しては如何ですか。かつてソウル五輪の際「日韓共同きっぷ」を売り出し、韓国とは縁浅からぬ関係なのですから。

もう一つの「八十周年」(上)

2005-03-23 21:16:27 | 鉄道独り言
※今日の一枚:今年一月、大雪の影響で直江津に一時間半以上遅れて着いた大阪行き特急トワイライトエクスプレス。日本の鉄道は世界で最も時間が正確だといわれる。戦前からの伝統で緻密なダイヤが組まれているおかげだが、それだけに一本でも時間が乱れたら、水面の波紋の如く遅れが周囲に波及してしまう。いわば時間どおりに走ることを宿命づけられているわけだが、自然の猛威や突発的な事故には世界に冠たるダイヤも歯が立たない。

 世間では何やら「放送開始八十周年」とかで、NHKが「汚名返上」とばかりに特番を流したりしていますが、1925(大正14)年に始まったのはNHKばかりではないんです。毎月20日過ぎに書店に並ぶ「時刻表」という月刊誌のうち「JTB時刻表」は、大正14年創刊という歴史と伝統を誇っています。
 現在は交通新聞社の「JR時刻表」というライバルがありますが、創刊当時は既刊の「汽車汽船旅行案内」などのライバル誌が台頭していました。ところが後発の「日本旅行協会・汽車時間表」は「鉄道省編纂」というお墨付きで発刊されました。当初は他誌に比べ高価かつ大型で利用者から敬遠されましたが、翌年に値下げと小型化を断行して以後は次第にライバル誌を抑えて発行部数を伸ばしました。

 現在のJTBの前身、日本旅行協会が発行した「汽車時間表」は、当時の鉄道省部内で使われていた業務用時刻表を一般向けに翻刻したと言われています。明治時代から発売されていた「汽車汽船旅行案内」は現在使われている時刻表とは異なり、列車の発着時間を漢数字で表し、駅名と共に右から左へ書き並べていました。ところが業務用時刻表はアラビア数字を使い、現在とほぼ同じレイアウトでした。「汽車時間表」は業務用に倣いアラビア数字を使っただけでなく、駅の施設やサービス(駅弁、赤帽、ホーム洗面所、公衆電報取り扱いの有無)を解りやすいマークで図示しました。また乗り換え地図を本文中に挿入し、さらに昭和初期の不況が過ぎ去った頃からは観光地のグラビア写真も載せるなど、旅行の情報誌的な役割を担うようになりました。列車の増発・速度向上と相まって、日中戦争が始まる頃までは観光旅行が大いに奨励されました。

 しかし日中戦争が激しくなるにつれ、次第に貨物や軍事輸送、通勤輸送に重点が置かれるようになります。本土と大陸(=侵略地域)との往来が盛んになり、下関-釜山航路を介した連絡ルートは活況を呈しました。東京と下関を結ぶ列車が増発され、当時の朝鮮半島やいわゆる「満州国」にも「あじあ」「あかつき」などの優等列車が走りました。当時は「東京より北京ゆき」などという切符が実際に駅で発売されたのです。
 太平洋戦争が始まる頃から、旅客列車の本数は減少に転じます。1942(昭和17)年には関門トンネルが開通し本州と九州を結ぶ列車が登場したものの、動力燃料の不足に加え、戦況悪化で危険を伴う海上輸送を鉄道貨物に転嫁することになり、貨物列車大増発と引き換えに旅客列車は大削減を余儀なくされました。さらに運賃の大幅値上げ、切符の発売制限など「一般人は列車に乗るな」と言わんばかりの施策が続き、戦争末期には現場要員不足と爆撃、雷撃等による被害で鉄道輸送は大打撃を受けます。
 
 こうした動きは当時の汽車時間表にも反映します。観光地のグラビア紹介は姿を消し、一時期大判化された誌面は用紙類の統制で、1939(昭和14)年春からA5判に縮小されます。1940(昭和15)年の10月号では表紙に「国策輸送に協力」「遊楽旅行廃止」と大書きされ、一方で「皇紀2600年伊勢神宮参拝」を喧伝する民鉄広告や、国策会社「満鉄」による「大陸国策を現地に看よ」といった広告が載せられています。東京から朝鮮・中国・「満州」さらにヨーロッパへの鉄道連絡早見表も掲載されています。なお汽車時間表は39年から「時間表」と改題し、さらに42年11月号からは「時刻表」と改題し、またそれまで午前・午後12時間制表記だった本文が24時間制表記に変更され、現在に至っています(軍隊方式に倣ったといわれる)。
 太平洋戦争勃発の時点で観光広告は殆ど姿を消し、代わって防空用具などの広告が現れます。戦争が激しくなると一切の広告が排除され、空襲時の心得や、(戦費調達のための)郵便貯金への貯蓄奨励といった官製広告(今で言えば「政府広報」か)が例外的に掲載されるだけとなりました。やがて物資の不足が深刻化し、「旅行案内」は廃刊に追い込まれ、時刻表の定期発行すら覚束なくなります。

 戦争で大打撃を受けた日本の鉄道は、敗戦と同時に復興へと歩み始めます。しかし燃料不足や各種施設の疲弊、そして世情の混乱で輸送事情は一朝一夕には回復できませんでした。進駐軍のための輸送が最優先される中、日常輸送が少しづつ落ち着きを取り戻し、1949(昭和24)年には日本国有鉄道が発足します。その直後に不可解な事件が立て続けに起きるなど、多難を予感させる出発ではありましたが、同年には1944(昭和19)年以来姿を消していた特急列車が復活するなど明るい話題もありました。
 その後は日本経済の復調と共に鉄道輸送が年々増大し、経済白書で「もはや戦後ではない」と高らかに宣言された1956(昭和31)年の11月には大規模な改正が実施され、列車設定規模や各種サービスは戦前の最高水準を上回るまでに回復しました。それ以後も高度成長に後押しされるかのように毎年特急・急行列車が増発され、ついに1964(昭和39)年10月の東海道新幹線開業へと至ります。

 交通公社の時刻表は1944(昭和19)年第5号(年末発刊)を最後に冊子での発行が途絶え、翌1945(昭和20)年は7月に漸く一枚紙の印刷物、それも主要駅と主要路線のみ掲載として発売されるという体たらくでしたが、敗戦直後の同年9月には戦前並みのA5判・国鉄線全線全駅版が復刊します。しかし混乱と用紙不足から定期発行は難しく、同年は一冊のみで終わり、翌1946(昭和21)年は三回発行されただけでした。その穴埋めとして主要路線を抜粋したパンフレットタイプの時刻表が年数回発行されました。1947(昭和22)年6月号から毎月発行を再開しますが、B6判64ページで主要路線掲載、全線全駅掲載は年数回という、戦前とは程遠い姿でした。翌1948(昭和23)年12月号から毎号全線全駅掲載が復活します。

もう一つの「八十周年」(下)に続きます。

参考:JTB「時刻表でたどる鉄道史」(宮脇俊三編著・原口隆行企画執筆・1998)
    日本交通公社(JTB)「時刻表復刻版」戦前・戦中編、終戦直後編、戦後編1