ネット長屋の内弁慶

当ブログへようこそ。実生活では小心者の私ですが、ネットの上では少しだけ強気にコメントしています。どうぞよろしく。

謹告

2006-07-19 01:36:43 | お知らせ
長らく更新が滞り、申しわけありません。

 先刻よりブログ移転を周知しておりますが、事情により移転に手間取っています。
そのため、こちらを当分残します。ただし更新は行いませんのでご了承ください。
今までご覧くださった方に、この場を借りて御礼申し上げます。

なお移転後のブログURLは、あらためてお知らせします。

 当ブログの記事は今後少しずつ移転するつもりですが、移転先の機能の都合で
コメントやトラックバックは移転できないこともあります。
 また記事移転に際し、加筆修正を行う場合がありますので、ご了承ください。

ブログ主の突然の身勝手をお詫びします。

問題点は他にもある

2005-12-06 22:01:32 | 世間の話題
※今日の一枚:JR富山駅8番のりば。富山港線の列車が発着するホームに、かつての国鉄急行色に塗り替えられた475系電車が停車中。富山港線は午前10時から午後4時までの時間帯は単行のワンマンカーが走り、電車は富山駅でラッシュをひたすら待つ。国鉄時代の姿に戻された電車は、来年3月に路面電車化される同線への餞(はなむけ)なのか。この型の車両が同線で活躍を始めたのは二十年前。八十年を超える同線の歴史の四分の一を走ってきたことになる。
 
 人間である以上、どんな偉人や英雄にも欠点や弱点は付き物です(稀に「完全無欠な聖人君子」も存在するかもしれないが)。そんな人間が作る機械や道具に欠陥や弱点があっても、何ら不思議ではありません。むしろ完全無欠な機械・道具こそ「有り得ない」。それらの欠陥なり弱点なりは、時として人間に不利益をもたらすことさえあります。それでも人間は機械を求め、使いたがることが多い。それは、その機械を持つことで欠陥や弱点を補って余りある利益を享受できるからに他ならないと思います。

 今や生活必需品となりつつある感じの携帯電話ですが、それとても欠陥や弱点と無縁ではいられません。「携帯を持つ上での不安」を認識するユーザーも少なくないようです。定額制や各種割引制度の普及で、ひと頃ほど騒がれなくなったとはいえ、子供の通話料請求に苦慮する親御さんの話を今も耳にすることがあります。また列車内での使用ルールも「遵守されている」とは言いがたいようです。優先座席に堂々と腰掛けた若者が携帯をチェックしている姿を時々見かけます。一昨年あたりから各鉄道会社では「優先座席付近では携帯の電源を切る」ことを周知しているはずなのですが。

 私の携帯はメール交換が主たる目的になっており、インターネットに若干使用、カメラとして若干使用(デジカメがバッテリー切れを起こした時などは結構助かる)、通話は緊急時以外殆ど使いません(というより、殆ど誰も掛けてこない?)。それでも稀に、運転中に電話が掛かってきて、近くに駐車スペースがないかと慌てることもあります。一番良いのは電源を切ることですが、これでは何のための携帯か。
 あと迷惑メールも厄介です。驚いたのは新機種を契約して間もなく、得体の知れないメールが立て続けに送られてきたこと。メール送信業者?は一体どこからアドレスを仕入れるのでしょうか。「まさか電話会社が・・・」と根拠もなく疑ってしまいそうです。アドレスは限られた範囲にしか教えないのに。

 確かに使用ルール違反や得体の知れないメールも不安ですが、もっと大きな不安というか欠陥が以前から問題になっているはずです。携帯電話から発せられる電磁波の人体への影響です。これなどは電話会社がCMで「あなたの健康を害する恐れがあります。携帯の使いすぎに注意しましょう」と呼びかけても良さそうなものですが、変に不安を煽るようなことは言いたくないのでしょう。
 もっとも、今でこそ「健康増進法」などで公共施設からは目の敵にされているタバコだって、少し前までは「タバコと肺がんの因果関係が証明されたのか」と、タバコ害悪説に反発する声が少なくなかったようです。携帯電話が普及したといっても、たかだか十数年。携帯の電磁波が人体に及ぼす影響についての研究は途上であり「携帯の人体への害悪が完全に実証される」のは、まだ当分先のことでしょう。

 七、八年ぐらい前になりますが、私の先輩で携帯用のイヤホンを買った人がいました。「運転時の着信に備える」という目的だったようですが、他に「電磁波対策」も考慮していたかもしれません。同じ頃、勤め先で後輩が「携帯使うと脳みそがチーン状態(=加熱されて茹で上がる?)になるんだってね」と話したこともありました。チーンといえば電子レンジの電磁波も「危険だ」と言われて久しいようです。 
 私自身は、携帯での通話をなるべく避けています(携帯を持つ意味ないだろ、と言われそうだが)。着信は数えるほどだし、外から電話を掛ける時はまず公衆電話を使います。もっとも最近は公衆電話自体が少なくなっており、やむを得ず携帯で通話することもありますが。
 
 携帯の電磁波についてまとめたサイト(ケータイ電磁波レポート)の中で「イギリス政府は16歳以下の子供への携帯電話使用を控えるように指導しているそうではないか」とありましたが、わが国では高校生の携帯所持は当たり前、小中学生の携帯所持も珍しくなくなりつつあるようです。彼らにしてみれば、体を壊すことより「仲間外れになること」が怖いのでしょうか。しかし昨今のように子供が狙われる事件が多発すれば、むしろ親が子に「万一に備え」携帯を持たせる風潮が顕著になるかもしれません。

お詫び

2005-10-14 00:26:23 | お知らせ
当ブログをご覧の皆様へ

 当ブログをご覧いただきありがとうございます。管理人生来の怠慢に加え、ここ数日諸般の事情により記事投稿及び更新が滞っており、誠に申しわけありません。
 遅筆が性分ゆえ、今しばらくは投稿頻度が間延びするかと思います。お詫びを申し上げると共に、今後ともよろしくお願いします。

 なお勝手ながら、もう一つのブログ「ネットの片隅で独り言」へのリンクを近日中に外します。同ブログは私の「別の趣味」専用に今後も続けますので、ご贔屓のほど宜しくお願いします。

アキハorアキバ?

2005-10-01 23:24:20 | 鉄道独り言
※今日の一枚:地下鉄銀座線末広町駅付近。同駅は秋葉原電気街の最寄り駅となっており、出口案内にもちゃんと「電気街」と書いてある。中央通りと蔵前橋通りが交差する一帯は「外神田」と称され、秋葉原の北部にあたる。ここまで来るとさすがに電器店は少ないが、中央通りを万世橋方向へ少し歩けばヤマギワ・ソフマップなどの有名店が目に付く。末広町駅からJR秋葉原駅へは凡そ500m、数分の歩行は気分転換にもなる。銀座線では神田駅も秋葉原の最寄りである。なお日比谷線にはズバリ「秋葉原駅」が存在するが、JR秋葉原駅の東側にあり、中央通りへ抜けるには少し分かりづらい。 


 毎週土曜日のNHK「おはよう日本」は、関東甲信越の場合は朝8時から約10分程度、エリア内の名所旧跡を紹介する番組(タイトルは失念。たしか「土曜ちょっといい旅」みたいな感じだったと思う)を流します。滝島雅子アナと女性レポーター(だいたい各局の女性アナが担当)が対談・問答する形式で、今朝は東京豊島区雑司が谷の鬼子母神界隈が紹介されました。
 ここで気になったのが「鬼子母神」の読み。レポーターは「きしもじん」と読みましたが、番組に登場した都電の停留所「鬼子母神前」はローマ字で「Kishibojinmae」つまり「きしぼじんまえ」と書いてありました。「も」と「ぼ」、どちらが正しいのか。IMEでは「きしもじん」「きしぼじん」どちらも「鬼子母神」と変換します。

 「電車男」の大ヒット?や、つくばエクスプレスの始発駅として何かと話題の秋葉原。最近の若者は「アキバ」と呼ぶことが多いようです。先月開店したヨドバシカメラも店舗名を「マルチメディアAkiba(アキバ)」と称しています。地名を略すのは珍しくないとして、秋葉原は「あきばら」なのに何故「アキ」?
 秋葉原という地名の起こりは、明治時代に遡るようです。現在の秋葉原一帯は明治の初め、「火除け地」として、類焼を防ぐための空き地とされたそうです。そこへ1870(明治3)年、火除けの神様として「鎮火神社」が建てられたとのことです。それが後に「秋葉神社」と改名され、地元の人は誰ともなく「秋葉原(あきばがはらorあきばのはら)」と呼ぶようになったとのことです。「秋葉」と改名したのは、鎮火神社が静岡の秋葉大権現から勧請(かんじょう)されたことに由来すると思われます。
「秋葉原(あきはばら)の由来」によれば「あきばはら」「あきばっぱら」とも呼ばれたらしい。ちなみに私の親もかつて秋葉原を「あきばはら」と読んだことがあるが、あながち間違いではない?)

 ところが1890(明治23)年11月1日に当地に開業した佐久間町貨物駅が後に「秋葉原(あきはばら)貨物駅」と改名されました(小学館の「各駅停車シリーズ」では秋葉原改名の時期を不詳としている)。同駅を開業したのは日本鉄道という当時の大手民鉄でしたが、実態や地名の起こりを無視した役所的命名だとして地元の評判は良くなかったようです。もともと秋葉原一帯では「鉄道は危ない」と、上野からの日本鉄道線延伸に反対だったそうで、同社は「踏切に遮断機を付ける」などの条件を整えた上でようやく秋葉原への延伸にこぎつけたとか。そのような「歓迎されない誕生」だった上に「地元無視の命名」だったわけですが、当初は神田川の水運と連携した行き止まりの貨物専用駅として機能していました。
(なお日本鉄道は、1906(明治39)年公布の「鉄道国有法」により国有化された)

 秋葉原駅が大躍進を遂げるきっかけとなったのが、大正末期の旅客営業開始でした。関東大震災から間もない1925(大正14)年11月1日、神田-上野間に旅客線が開通し、東京止まりだった京浜線電車が上野まで乗り入れました。また山手線電車の環状運転が始まったのも同日からで、秋葉原はこれらの電車の旅客を扱うこととなりました(ちなみに同日、御徒町駅も開業した)。
 旅客線は高架で新設され、秋葉原駅の貨物設備も後に高架化されました。まだ珍しかったエレベーターなどが設置され、高架下にトラックや荷車が待機して貨物を受け渡すという近代的な光景が展開しました。貨物取り扱いは戦後もしばらく続き、廃止後は電車の留置線として活用されていました。

 昭和に入ると、秋葉原は重要な乗換駅となります。1932(昭和7)年7月1日、総武線が両国から御茶ノ水へ延伸され、秋葉原に総武線ホームが増設されました。同ホームは東北線(山手・京浜東北)ホームをまたぐ形で架けられ、利用者のために国鉄としては初めてエスカレーターを設置したそうです。
 同時に両国-市川間で電車運転が開始され、それは翌年には船橋へ、さらに1935(昭和10)年には千葉まで延伸されました。秋葉原は山手・京浜東北線と、千葉方面及び御茶ノ水乗換えで中央線方面との連絡を担う一大拠点となりました。神田川にかかる万世橋付近にあった万世橋駅が1943(昭和18)年に廃止されると、同駅に隣接していた交通博物館の新たな最寄り駅としての役割をも担うことになりました。

 戦前から一部のラジオ取り扱い業者が店を構え「電気街」の下地が萌芽しつつあった秋葉原界隈は、敗戦後の短期間に多くの電器・無線取り扱い業者が進出し、現在の秋葉原の原型が整いました。そして日本の復興・高度成長と歩みを揃えるかのように、秋葉原電気街は年々発展しました。80年代に入るとマイコン・パソコンを扱う店も登場し、90年代半ばにはパソコン関連の売り上げが家電製品のそれを上回りました。秋葉原の名は海外にも知れ渡り、外人が電気製品を買い求める姿も珍しくありません。
 秋葉原が発展した理由の一つに「交通至便」が挙げられるようです。総武線と東北線の乗換駅となって七十余年、今度は「つくばエクスプレス」が加わり、北関東への新たな玄関口となりました。

 秋葉原の愛称?となった「アキバ」ですが、見方を変えればむしろ「当初の地名(=あきばがはらetc)に基づいた」呼び名とも言えそうです。だからといって、今さらJRが駅名を変えるとも思えません。何しろ国際的に「アキハバラ」が認知されているのですから、「元の呼び名」に戻しても混乱するだけでしょう。
 しかし例外的に「元の呼び名に戻した」ケースもあります。日豊本線の苅田(かんだ)駅は戦時中「東京の神田と紛らわしい」という理由で「かりた」に変更されてしまいましたが、戦後十数年経って「かんだ」に戻りました。また函館本線の旭川(あさひかわ)駅は明治の後半から「あさひがわ」と呼ばれていましたが、1988(昭和63)年に「あさひかわ」に戻りました。もしかすると「あきはばら」も見直される?

葬り去れない史実

2005-08-20 23:44:05 | 世間の話題
※今日の一枚:日本旅行協会(現JTB)発行の「時間表昭和15年10月号」に掲載された南満州鉄道(満鉄)鉄道総局の広告。昭和初期、軍部の謀略により中国東北部に「建国」された「満州国」は「五族協和」「王道楽土」の理想郷として大いに喧伝され、日本からの開拓者を募った。美辞麗句に踊らされた開拓者を待っていたのは、厳しい風土と野蛮な匪賊だった。そして戦争末期、ソビエト軍の侵攻によって多くの人が犠牲となり、または抑留され、孤児が残された。
 
 今週16日(火)からNHK総合で連続放映された特番「アウシュヴィッツ」。ナチスドイツが「最終的解決」と称してヨーロッパのユダヤ人を大量に収容・殺戮した施設の記録を追ったドキュメンタリーです(イギリス・アメリカ共同制作)。第二次世界大戦中、ヨーロッパ全体ではおよそ六百万人のユダヤ人が、ナチスとその手先によって死に追いやられたと言われており、このうち百万人余りが現在のポーランドに建設されたアウシュヴィッツ強制(絶滅)収容所(隣接するビルケナウ収容所を含む)で命を奪われたとされています。
 この「最終的解決」という言葉自体、その意味するところに諸説が入り乱れているようです。「ユダヤ人をヨーロッパから追放する」という解釈もあれば「ユダヤ人根絶」という解釈もあります。しかし結果的に、親衛隊長ヒムラーや親衛隊将校アイヒマンらは、この「最終的解決」を「ユダヤ人根絶」と解して、アウシュヴィッツ・ビルケナウ建設や同所へのユダヤ人移送を指示した、というのが一般的な説となっているようです。

 ナチスは結党以来、ユダヤ人蔑視・排除を主張しており、1933年1月に政権を掌握した後はドイツ国内のユダヤ人に対する迫害を公然と進めます。また同年3月にはダッハウに最初の強制収容所が開設され、ユダヤ人や反ナチス的とされた市民らが連行されました。1935年には「ニュルンベルク法」を制定し、同法により定義されたユダヤ人から公民権を奪います。そして1938年11月7日、フランスでユダヤ人青年によるドイツ外交官射殺事件が起きたことを口実として、同月9日から11日にかけてドイツ各地でユダヤ人経営の商店やユダヤ教会などが襲われ、一説には二万人のユダヤ人が捕らえられたといいます(いわゆる「水晶の夜」事件)。
 ナチス政権樹立直後から国外へ逃げ出すユダヤ人も少なくありませんでしたが、同事件の後はそれが加速されます。第二次世界大戦勃発までは、むしろナチスはユダヤ人脱出を好ましく受け止めていたようです。

 しかし第二次世界大戦が始まり、ドイツがポーランドなど隣国を瞬く間に占領すると、その占領地域に多くのユダヤ人が居住しているという事実に突き当たります。彼らの中には、戦前にドイツから逃げ出してきたのに戦争で再びドイツの支配下に置かれてしまうという、皮肉な運命に巡り合わせてしまった人もいました。
 ナチスは彼らを占領地域外へ移送(追放)しようとしますがうまく行かず、一方でポーランド占領地域内にユダヤ人居住区(ゲットー)を開設し、彼らをそこへ押し込めてしまいます。ゲットーの劣悪な環境下で、およそ50万のユダヤ人が命を落としたと言われています。ドイツのみならず、キリスト教を信奉するヨーロッパ各国では、ユダヤ人は「キリストを裏切ったユダの子孫」として蔑まれ、積極的に受け入れようとはしませんでした。
 1941年6月にドイツとソビエトが戦争状態に入ると、ドイツに占領されたソビエト領内に居住するユダヤ人までもナチスの標的となりました。このころから組織的なユダヤ人殺害が始まったとされています。

 アウシュヴィッツは1940年に開設され、翌年春にはビルケナウ収容所が増設されました。当初はドイツ本国の強制収容所同様「ナチスにとって好ましくない人間」を扱うこととされたようですが、同年秋に同じポーランド地域内のヘウムノに最初の「絶滅収容所」が建設され、占領地内のユダヤ人収容が本格化すると、アウシュヴィッツにも「絶滅収容所」としての機能を付加することが決まり、1942年春にはビルケナウに大規模なガス室が建設されました。同年1月、ナチス閣僚・官僚を招集した「ヴァンゼー会議」において「最終的解決」の方針が確認され、同年中にルブリン、ベウジェツ、ソビボール、トレブリンカにも絶滅収容所が開設されました。
 ゲットーに収容されていたユダヤ人や、占領地域内で捕らえられたユダヤ人、さらには敵国捕虜や少数民族、ジプシー(ロマ)などの不定住者なども絶滅収容所へと連行され、その多くがガス室へ送られたとされています。「アンネの日記」の著者、アンネ・フランクも1944年にアウシュヴィッツへ連行されたと言われています。

 連合国側は早くから、強制(絶滅)収容所の存在を知っていたとされていますが、それに対して具体的に行動した気配がないことを番組では取り上げていました。アイヒマンは1944年に「百万人のユダヤ人と一万台のトラックを交換してほしい」と、ユダヤ人指導者を通じて連合国側へ働きかけたと言われていますが、「ドイツを利するだけだ」と拒絶されてしまったそうです。また連合軍の爆撃機はアウシュヴィッツを上空から確認・撮影したにもかかわらず、同施設を爆撃しなかったそうです。「他の重要目標へ投下する爆弾しか持ち合わせていなかった」と反論されてしまいそうですが、その目標とアウシュヴィッツとは数キロしか離れていなかったとも言われ、もし収容所に爆弾が落とされていたら、同所での残虐行為はその時点で終了していたかもしれません。
 結局、アウシュヴィッツは1945年1月27日にソビエト軍によって解放されましたが、それ以前にガス室などの殺戮施設や一切の証拠書類は破壊、焼却され、歩くことのできた収容者たちは西へ移送されていました。収容所を管理していた親衛隊員らも脱出していました。ソビエト軍を迎えたのは、病気や衰弱で歩くこともままならなかった骨と皮だけの数千人の収容者、そして処理し切れなかった夥しい数の遺体と人骨だったそうです。

 アウシュヴィッツは現在、ナチスの蛮行を物語る施設として残されており、犠牲となった人たちが履いていた何万足もの靴や、彼らの脂肪から作った石鹸などが展示されているそうです。平和の希求と「過ちは二度と繰り返さない」という強い決意は、洋の東西を問わず共通の認識だと信じたいのですが・・・

 十年ほど前、当時文芸春秋が発行していた「マルコ・ポーロ」という雑誌に「ガス室はなかった」「ホロコースト(大量虐殺)は幻だ」と称する西岡某氏の記事が掲載されました。当然、この記事はユダヤ人団体をはじめとする各方面から非難・糾弾され、「マルコ・ポーロ」はこれがもとで廃刊に追い込まれます。
 文芸春秋という出版社は以前から「南京大虐殺はなかった」などの主張を繰り返しており(これは文春に限ったことではないのだが)、愚かにもその舌鋒がアウシュヴィッツに向けられたことで、文春は世界的に失笑を買う羽目となりました。幼稚園や小学校から英語を学ばせて「国際化」を促進しようとしたところで、海外で「ホロコーストをどう考えるか」と聞かれて「I don't know」としか答えられない人間が「国際人」と言えるのか。
 「新しい歴史教科書」の普及に熱心な出版社の系列マスコミが「韓国で放映された「731部隊」の記録映像が実は中国映画からの盗用だった」と、鬼の首でも取ったかのように非難していますが、映像が盗用されようがされまいが、「満州」に731部隊(関東軍防疫給水部)が存在したという事実を覆すことは出来ないのです。

※参考:学研「歴史群像シリーズ42 アドルフ・ヒトラー(権力編)」(1995年刊)ほか

鉄路の「コメットさん」

2005-08-09 23:46:30 | 鉄道独り言
※今日の一枚:1985(昭和60)年5月、国鉄下関運転所(現・JR西日本下関車両管理室)構内で憩うEF65型電気機関車。寝台特急「明星・あかつき」は1975(昭和50)年3月改正で登場、新大阪-鳥栖間を併結して走った。1978(昭和53)年10月改正で一旦解消するが、1984(昭和59)年2月改正で再登場。翌年3月からは機関車にヘッドマークが付いた。「明星」はその後「国鉄最後の全国ダイヤ改正」で消滅し、「あかつき」は残った。

 コメット=日本語で「彗星・ほうき星」。大昔には彗星を「凶兆」と見なしたこともあったようですが、「夜空を駆ける光の筋」というイメージに合うのか、近代には航空機などの愛称に使われることがありました。例えば、イギリスが第二次大戦後初めて開発したジェット旅客機の愛称は「コメット」でした。また第二次大戦末期、当時のドイツ空軍が投入したロケット戦闘機の愛称にさえ使われました。ちょっと似つかわしくありませんね(ただしドイツ語読みで「コメート」)。さらに「キャプテン・フューチャー」でフューチャーメンたちが搭乗する宇宙船の名前が「コメット号」でした(キャプテン・フューチャーシリーズ第一作が発表されたのは1939(昭和14)年)。
 「コメットさん」は横山光輝さんが1967(昭和42)年に「週刊マーガレット」に連載したコメディーです。遠い宇宙の星から地球にやってきた少女、コメットさんは日本の民家に居候を決め込みます。様々な事件や騒動に巻き込まれますが、不思議な力を駆使して解決するというのが大まかな筋です。二度ほど実写ドラマになりました。
(九重佑三子が演じた初期版は見た覚えがないが、1978年に大場久美子が演じたリメイク版は見ていた)

 さて日本の鉄道の「コメット」です。「彗星」は今からおよそ五十四年前、東京と大阪を結ぶ夜行列車の列車名として使われたのが最初です。当時の東京-大阪間には夜行急行が三往復走っており、1950(昭和25)年10月改正で、そのうちの一往復(第13、14列車)が「銀河」と名付けられました。他の列車は翌月にそれぞれ「明星」「彗星」と命名され、さらに1953(昭和28)年11月には同区間に「月光」が増発されました。
 「彗星」は1956(昭和31)年11月の改正で不定期運転(現在は「季節運転」と呼ぶ)に格下げされましたが、翌年10月改正では戦後初の全席指定「寝台急行」として定期運転に復しました。昭和30年代には「あかつき」「金星」「すばる」と名付けられた列車も登場しました。いずれも夜行列車にふさわしい名前といえます。
 しかしこれらの列車の中で、今も東京-大阪間に健在なのは「銀河」一往復だけです。新幹線が開業した1964(昭和39)年10月の改正で「彗星」は廃止、残った列車も順次減らされ、1968(昭和43)年10月改正では増えすぎた列車名を整理すべく、東京-大阪間夜行急行の列車名は「銀河」に統一されてしまいました。

 その同じ改正で「彗星」は新大阪-宮崎間寝台特急の列車名として復活します。既に1965(昭和40)年10月の改正で、新大阪と西鹿児島・長崎を結ぶ寝台特急「あかつき」が登場していましたが、今度は東九州へのチャンネルが確保されたのです。当時、東京から九州への最も早い交通手段といえば、飛行機を別格として、新大阪乗り継ぎで新幹線と寝台特急を利用するのが一般的でした。乗り継ぎを嫌う人は東京と九州主要都市を結ぶ通称「九州特急(元祖ブルートレイン)」を選び、これらは連日多くの乗客を運んでいました。
 関西から九州へ向かうにも、夜行列車が主力の時代でした。68年10月の改正では、大阪から西鹿児島や宮崎へ向かう昼間の特急も現れましたが、所要時間は実に10時間を超え、昔より早くなったとはいえ苦痛だったことは否めません。それなら横になって行ける寝台列車が楽だと、夜行が持てはやされたと思われます。

 「彗星」は1970(昭和45)年10月改正で都城発着に延長され、1972(昭和47)年3月の新幹線岡山延伸に伴う改正では新大阪-大分間に一往復増発されました。1973(昭和48)年10月改正では二往復、翌年4月改正で更に一往復増発され五往復体制となりました。72年3月から約三年間は関西発着の寝台特急が最も充実した時期でした。「彗星」以外の寝台特急も、急行列車の格上げなどで増発が続き、最盛期の1974(昭和49)年秋には新大阪-西鹿児島・熊本・長崎・佐世保間「あかつき」七往復、新大阪-熊本間「明星(電車)」四往復、京都-西鹿児島間「きりしま(電車)」一往復という陣容となりました。他に名古屋-博多間「金星(電車)」一往復、岡山発着の「月光(電車)」が博多と西鹿児島にそれぞれ一往復ずつ走り、さらに夜行急行、加えて東京発着の寝台特急が多数走り、当時の山陽本線、殊に岡山以西は昼夜違わぬ活況を呈していました。

 転機は1975(昭和50)年3月に訪れました。同月10日、新幹線が博多まで伸びたのと引き換えに、山陽本線の昼間の特急・急行は殆ど廃止され、夜行列車も大幅に減らされます。「あかつき」は長崎・佐世保方面の列車となり、熊本・西鹿児島方面の列車は「なは」「明星」となります。また「彗星」は新大阪-大分・宮崎・都城間に各一往復ずつが残り、都城発着便を除いて電車化されます。このころから、相次ぐ値上げとストライキに音を上げた利用者が自動車または飛行機へと流れ出し、輸送量が目に見えて落ち込むようになりました。
 利用者減少→減収→特急格上げ・運賃等値上げ、という悪循環に陥り、利用者数の少ない列車はダイヤ改正で姿を消しました。「彗星」も例外ではなく、1980(昭和55)年10月改正では大分発着の一往復が、1984(昭和59)年2月改正では宮崎発着の一往復が廃止され、以後「国鉄分割民営化」をはさみ、新大阪-都城間の一往復体制が1995(平成7)年4月まで続きます。この間に「明星」は全廃、「なは」「あかつき」が一往復ずつ残りました。平成に入ると「なは」「あかつき」に座席車が付きましたが「彗星」には付きませんでした。

 95年4月改正で「彗星」は南宮崎発着に短縮され、それ以後も利用者数が伸び悩んだ結果、2000(平成12)年3月改正で京都-門司間は「あかつき」に併結という形になりました。門司以南は機関車を除きわずか四両の客車(多客期は六両)で走るという、全盛期から比べたらあまりにも寂しい姿です。
 そして今年10月1日のダイヤ改正で「彗星」は廃止されることになりました。「ついに・・・」という気持ちと「今までよく残っていた」という気持ちが半々です。「相棒」をなくす「あかつき」は、改正後は「なは」との併結が予定されているようです。ここ数年縮小が続く夜行列車。来年3月の改正でも夜行の廃止が囁かれているとか。「彗星」廃止は、明日をも知れぬ夜行列車たちの行く末を暗示しているのでしょうか。

※参考:JTB「時刻表復刻版・戦後編」、交友社「鉄道ファン」2001年3月号「ブルトレ盛衰記」ほか

ヤハリ反省ノ色ナシ

2005-07-29 18:38:49 | テレビ芸能独り言
※今日の一枚:東横線渋谷駅へ進入する東横特急。NHK本局は渋谷区内にある。東横線で通勤するNHK職員もいるだろうし、この電車にも職員が乗っていたかもしれない。NHK職員も人の子。無謬の聖人君子ばかりではないだろう。時に間違いや戸惑いにぶつかる事もあろう。だが、自ら求めて公共放送現場に入った以上、その身と一挙一動を常に公が見守っていることを自覚すべきだろう。視聴者あってのNHKではないのか。

 不祥事は続くよどこまでも・・・昨年来、番組制作費の着服などが問題視されているNHKで、またしても職員の着服・不正経理が明らかになりました。ビール券を不正に請求・換金したり、五輪チケットを転売したりと、公共放送に携わる人間としてあるまじき行為の連発です。相次ぐ不祥事を受けて「業務総点検」を行った挙句に判明したことなのでしょうが、今回明らかになった行為も所詮は「氷山の一角」なのかもしれません。本気で点検すれば、まだまだ似たような不祥事が出てくるのかもしれません。テレマップで「古代エジプト展開幕!」などと呑気に宣伝している場合じゃないでしょう、日本放送協会さん。

 昔の出来事を蒸し返すのは好ましくないのかもしれませんが、先日の未成年タレント飲酒問題で減給・無期限出演停止を食らった上にマスコミからバッシングを受けているフジテレビ菊間千乃アナに比べ、十五年前に酔っ払ってタクシー運転手に暴行を働いた松平定知アナへ下した処遇が果たして妥当だったのか。菊間アナは警察から事情を聞かれたそうですが、当時の松平アナも交番へ連れて行かれたのです。未成年を飲酒の場に呼んだ行為も問題ですが、暴力沙汰には至りませんでした。しかし松平アナは酔っ払った上に、他人に暴力を振るったのです。「人気アナだから」「酔った上での過ちだから」といって許されることではない。

 確かに松平アナは事件後、朝のニュースを降板し一時は謹慎状態でした。また局次長級ポストから部次長級へと降格される処分を受けました。しかしNHKは彼に謝罪の場を与えました。形はどうあれ、ブラウン管を通じて彼は視聴者に謝罪したのです。事件から一年以上過ぎると彼は特集番組の司会として復帰し、1993(平成5)年初めには「4月から夜7時のニュースを担当させる」という話も出たようです。ところがその矢先に「ムスタンやらせ事件」が発覚し、彼のニュース復帰は先送りになったと言われています。当時読んだ週刊誌によれば「ヤラセ問題で叩かれている時に松平を復帰させたら『寝た子を起こす(=彼の暴力沙汰を蒸し返される)』結果になりかねないと判断した」とか。彼がニュースに復帰したのは1996(平成8)年4月のことでした。

 暴力沙汰から一年近く過ぎたころ、元NHKアナの某氏が雑誌で「松平アナはデスクワークに徹したほうが良いのでは」と言及していました。彼はまた「松平アナの復帰に対して懐疑的な視聴者は少なくない」とも書いていました。しかし三行半を突きつけて辞めていった人のアドバイスに耳を傾ける気などなかったのか、NHKは松平アナをスタジオに復帰させました。なんと心が広い組織でしょう。一説には、当時の会長が松平アナを大変気に入っていたから厳罰は避けられた、とも言われたようですが(あくまで雑誌の記事である)。
 もし今、松平アナが暴力沙汰を起こしたなら、果たして謹慎と降格だけで済んだでしょうか。

 NHK職員といっても所詮は人の子、娑婆と無縁でいられるはずはありません。フジの佐野アナみたいに海外で風俗にハマった人もいるかもしれません。時には息抜きも大事です。NHKのあるベテランアナ(既に退職)は若い頃、徹夜でマージャンに興じた後に天気予報に出演し「西(シャー)の風・・・」と原稿を読んでしまったという逸話が残っているそうです。また戦時中の話として1943(昭和18)10月、学徒出陣壮行会の実況を命じられた和田信賢アナが二日酔いで潰れてしまい、急遽サブの志村正順(まさより)アナに交代したと、志村アナご本人が最近の朝日新聞で打ち明けていました。あの国難の中でさえ、そんな大らかさも罷り通ったのですね。
※志村元アナは「和田さんは、そんな(学徒出陣の)中継はいやなので酔いつぶれて僕に譲ったのですよ、きっと」と語っている。雨の神宮外苑で行われた壮行会に参加した学生の大半が戦死したといわれる。
 
 しかし今は国や地方自治体、特殊法人の「無駄遣い」が何かと槍玉に挙げられるご時世です(ややヒステリックなキャンペーンという気がしないでもないが)。NHKとて、受信料という「公費」で運営される団体です。これまでの不祥事を知って「職員の腹を肥やすために受信料を払っているわけじゃない」と立腹する視聴者が現れても不思議ではありません。むしろ、なぜ今までみんな黙って受信料を払っていたのかと、不思議に思うほどです。受信料不払いという行為を、どれだけの職員が真摯に受け止めているのでしょうか。
 正直な話、NHKは多少の受信料不払いなど堪えていないように感じます。関連会社が書籍やグッズ、映像ソフトで売上げを伸ばしているようですし、何よりも「受信料は公費」という意識が徹底していないのではないか。公共放送に携わる人間が「公共」を忘れてしまったら、もはや公共放送の意味を為しません。

 ここ数日はフジ(=菊間)叩きが耳目を集めている感さえありますが、それが一段落したら今度はNHKが標的にされるのかもしれません。いや既に「第二ラウンド」が始まっているのかもしれない。先日朝日新聞が「番組改竄問題」について再び取り上げましたが、これに対してNHKは納得の行く説明を果たしたと言えるのでしょうか。「スポンサーは視聴者の皆様」と本気で考えているなら、その視聴者の疑問や批判に誠意を持って答えてゆくことが「公共放送機関の使命」ではないのか。今はマスコミの記事を感情的に反駁する時ではないはず。全国の視聴者がNHK職員の一挙一動に注目していることを自覚していただきたい。事あるごとに画面に映し出される「まっすぐ、真剣」のフレーズは、単なるポーズや口約束といった軽い言葉ではないはずです。

酒は身を・・・

2005-07-19 23:06:59 | 世間の話題

※今日の一枚:青葉城址から仙台市街を見下ろす伊達政宗像。戦国時代の男子は十代後半で元服することが半ば当然だったようだが、現代の二十歳は昔の十五歳よりも幼いのかもしれない。それにしてもお膝元で未成年タレントが飲酒した挙句に大騒ぎしたことを、草葉の陰の政宗公はどんな気持ちで受け止めているだろうか。


 2月に女性社員(冬季五輪金メダリスト!)が泥酔して保護されたと思ったら、今度は現役女性アナが未成年と一緒に酒を飲んだとは・・・ジャニーズの若手グループNEWSの未成年メンバーが深夜の仙台市内で泥酔して補導された一件は、彼とフジテレビの菊間千乃アナらが酒席を共にしていたことが明らかになり、菊間アナは一週間程度の謹慎、未成年メンバーも当分謹慎という処分が科されました。
※7月20日追記:菊間アナは19日午後減給処分を言い渡された上、当分の間テレビ出演を自粛することになった。彼女への当初のペナルティに対しては視聴者などから抗議が相次いだ他、国家公安委員長が「処分が甘い」と発言し、フジとしても彼女を庇いきれなくなったのであろう。そして今回の処分を受けて、青木さやかが「だから女子アナは・・・」とネタでボルテージを上げそうな気がするのは私だけだろうか。

 それにしても、菊間アナは踏んだり蹴ったりですね。七年前に「めざましテレビ」の避難訓練体験の中継で、緩降機からすっぽ抜けて転落し重傷を負ったと思ったら、今度は未成年へ飲酒を勧めたとして謹慎処分とは。緩降機は腋をシッカリ締めていれば、すっぽ抜ける事はまず無いはずなのですが。十年ほど前、新潟県で避難訓練中に緩降機を使った男性が転落して命を落とした事故がありましたが、この時も男性が腋を締めずに、半ば「バンザイスタイル」で緩降機のベルトに身を委ねた為に悲劇が起こりました。もっとも、いくら腋を締めても緩降機自体に欠陥があれば、緩降機メーカーの責任を問われることになりますが。
※緩降機「オリロー」製造発売元・松本機工(株)

 未成年を飲酒の場に同席させること自体は、誰でも経験があるかと思います。家庭で夕食時、子供を前にお父さんが晩酌をするのは典型例。また飲食店などに行くと、孫や子供の横でビールを飲むお父さんやお祖父さんを見かけます。今回は「オトナの居場所」に未成年メンバーが同席した上、飲酒に及んだのです。彼がアルコールを欲したのか、周りのオトナがアルコールを勧めたのか、どちらにしても、アルコールを摂取した彼だけでなく周囲のオトナたちも「連帯責任」とばかりに責められてしまいます。
  
 かなり昔の話ですが、ポンジュースのテレビCMで、小学生くらいの男の子が「どうしてパパはビールが好きなんだろう。あんなに苦いのに」と呟き、母親が「どうしてそんなこと知っているの?」と尋ねると、奥から父親の咳払いが聞こえるという場面がありました。あと「魔女っ子メグちゃん」でも、メグちゃんが酒に酔うシーンがありました。この時は、妹のアポが密かに憧れているゴローが神崎家に遊びに来て、彼がメグちゃんとばかり話していることにヤキモチを焼いたアポがノンに唆され、酒入りの紅茶をメグちゃんに飲ませてしまったのです。酔って絡んできたメグちゃんに閉口したゴローは家を飛び出してしまいます。とそこへノンが現れ「私と友達になって」と彼を誘いますが、アポから全てを聞いたメグちゃんに阻止されます。彼女は「ノンが悪いのよ。ノンなんか好きにならないで」と弁明しますが、ゴローは「ケンカするなんてメグもノンも嫌いだ。僕が好きなのはアポちゃんみたいな子だ」と告白、照れるアポを羨ましそうに見ているメグちゃんでした。

 未成年飲酒をネタにした漫画の話をもう一つ。「陽あたり良好!」の「伸学期-クラス替え」というエピソードです。かすみと下宿のメンバーは二学年に進級しますが、美樹本伸は男子だけで編成されたクラスに入ってしまいます。ショックを受けた伸は下宿で管理人のおばさん相手に「三年への進級時はクラス替えなし、卒業までの二年間、男ばっかに囲まれて過ごすわけですネ」と自棄酒をあおります。翌朝は二日酔いと男子クラスへの絶望感から、なかなか起きようとしませんでしたが、勇作に「クラスに女子はいなくても学校には大勢いる」と言われ、それもそうだと気を取り直して登校します。ところが伸のクラスの担任・白坂先生は若い女教師。伸もクラスメートも呆気に取られます。彼が立ち直ったのは言うまでもありません。 

 その晩、伸は嬉しさのあまり再びおばさん相手に酒を飲みます。そして酔っ払って風呂場で寝込み風邪をひいてしまいます。翌朝、四十度の高熱を押して登校しようとする伸を、下宿メンバーはベッドに縛り付けて阻止します。しかしその日、かすみと勇作のクラスの担任が「オレは白坂先生と結婚することになった。彼女は仕事と両立させる自信がないというので学校をお辞めになる」と宣言、思わず顔を見合わせるかすみと勇作。翌日、だいぶ楽になったと言う伸に二人は「まだ熱がある。ちゃんと治したほうがいい」と休養を勧めます。でも白坂先生に会いたい伸は、二階の窓からロープを伝って脱出し、学校へ向かいます。そのころ男子クラスでは、ヒゲ面で凶暴そうな男教師が「わしの記念すべき担任第一日から遅刻するとはいい度胸だ」と伸を待ち構えていました。そうとも知らずルンルン気分で学校へ急ぐ伸のカットで物語は終わります。

未成年諸君、斯様にアルコールは恐ろしさを伴うものなのだよ。

参考:池原しげと「魔女っ子メグちゃん」2004年・イーストプレス刊
    あだち充「陽あたり良好!」第四巻・1981年・小学館フラワーコミックス

似て非なること

2005-06-21 23:14:45 | お知らせ

※今日の一枚:今年3月、名鉄市ノ坪駅にて。600型電車は、その特異な外見ゆえ口の悪いファンから「馬ヅラ電車」と呼ばれていたらしい。1970(昭和45)年、美濃町線電車の新岐阜(現・名鉄岐阜)乗り入れ用として誕生、優れた車両に贈られる「ローレル賞」に選ばれたこともあったが、2000(平成12)年に新型車が投入された後は画像の606号を除いて廃車された。揖斐線・美濃町線・岐阜市内線の最期を見届けた同車は転用先もなく、引退と相成った模様だ。


 「視聴率男」が視聴率に泣かされた・・・「久米宏復帰作」という鳴り物入りで始まった日曜夜8時台(放送開始は夜7時57分から)の日テレ情報番組「A」は、今月26日の放送を以って打ち切りが決まったようです。アジア各地の話題を紹介し、ネット中継も交えるという意欲的な構成でゴールデンタイムに挑んだものの、初回から視聴率は芳しくなかったそうで、今月18日の時点で久米氏が降板を意思表示していたとも言われています。もともと久米氏は、番組開始前から「面白くなかったら(番組を)辞める」と宣言していたそうで、打ち切りはある意味「公約を守った」ということかもしれません。しかし、あの「ニュースステーション」でさえ開始当初は視聴率があまり高くなかったと言われており、開始から三ヶ月足らずで白旗を掲げるというのは、いささか性急に見えなくもありません。「視聴率に裏切られた」視聴率男・久米宏。再起のチャンスは与えられるのか。

 「A」は先月15日に一度見ました(その日の放送は唯一、視聴率が10%を超えたらしい)。最初に思ったのは「オセロと夏木マリがレギュラーというのは、NHKに対する当てつけ?」ということでした。夏木マリは「義経」に丹後局役で出演中だし、松嶋尚美も亀の前として出演、さらに中島知子も千鳥役で出演しました。両番組とも事前録画だから同じ時間帯のバッティングも可能なわけですが「Aが振るわなかったのは事前録画のせい」という見方もあるようです。確かにNステや「ザ・ベストテン」など、久米氏は生放送が主な活動の場でした。
 番組自体の着目点は悪くなかったと思うし、松浦亜弥、若槻千夏、山口智充といった若手レギュラー陣も無難だったと思います。少し気になったのはナレーション。「ガチンコ!」でお馴染みの垂木勉氏と「伊東家の食卓」のP子役の雨蘭咲木子女史(NHKのダーマ&グレッグでも活躍)のコンビは少し騒々しく感じました。
 
 私が初めて久米宏氏をテレビで見たのはTBSの「ぴったしカン・カン」だったと思います。火曜夜7時半からの放映で、当時彼はTBS局アナでした。出題時の「ホニャララ」「ペケペケ」「恒例、一枚の写真!」という彼のセリフは今も憶えています。1978(昭和53)年から始まった「ザ・ベストテン」でも司会を務め、同年に退社・独立します。その後は日テレへも活動範囲を広げ「おしゃれ」「TVスクランブル」を経て1985(昭和60)年秋からテレ朝「ニュースステーション」が始まると、「一張羅オジサン」は「硬派キャスター」に転身しました。
 TVスクランブルは日曜夜8時から放映されていた番組でした。一度見たことがありますが、横山やすし師匠と日テレの福富達アナが共演していました(やっさんは後に降ろされたらしい)。久しぶりの日テレ、それも馴染みのある日曜夜8時台ということで、久米氏は「A」に期するものがあったと思われますが・・・

 ぴったしカン・カンが始まった頃、日曜夜7時台は日テレの「すばらしい世界旅行」を時々見ることがありました。私は当時、番組最後のクレジットに映った「ナレーター 久米明」の文字を見て「ぴったしカン・カンの司会者がナレーターだったのか」と早とちりしてしまったものです。ところが実際「世間では久米宏と久米明が混同されることが少なくなかった」と、宏氏が何かの番組で打ち明けていたらしいという話をどこかで聞きました(昔の話なので思い違いもあるかもしれない)。それを逆手に取ったかどうか知りませんが、ザ・ベストテンで久米明氏が司会を務めたことがあったようです。黒柳徹子サマの助けを借りて「え~、こ、今週の第○位・・・」と彼が紹介する場面を、私は見た憶えがあります。それがいつ頃の出来事だったかは覚えていませんが。

 久米明氏はテレビ放送開始以前から活動している俳優ですが、「すばらしい世界旅行」のナレーターを二十年以上続けるなど、声優としてのキャリアも詰まれています。昨年4月から6月までNHK総合で放映されたアニメ「火の鳥」(奇しくも「すばらしい世界旅行」と同じ日曜夜7時半からの三十分番組だった)でもナレーターを務めました。私としては、彼のナレーションは少し重苦しい感じで今一つ馴染めないのですが。正直言って「火の鳥」のナレーションも、他に適任者がいるのではと思ったものです(だったら見るなと言われそうだが)。
 なお、私の親によれば「久米明は、昔のドラマでは悪役を演じることが多かった」そうな。

 ちなみに久米明氏のご子息、久米大作氏は音楽の道へ進み、現在も精力的に活動中です。そして彼の奥さんは、かつて「異邦人」の大ヒットで知られた久保田早紀(現・久米小百合)さんです。

出発進行

2005-06-19 21:07:45 | 鉄道独り言
※今日の一枚:天王寺駅16番のりばに停車中の関空・紀州路快速。京橋から大阪環状線内回り天王寺経由で阪和線に入り、日根野で和歌山行きと関西空港行きに分かれる。1999(平成11)年5月改正から登場。環状線内主要駅から和歌山方面への利便性を図るべく、それまでの関空快速8両編成のうち3両ないし5両を和歌山行きとした。関空利用者の伸び悩みで余裕が生じた輸送力を巧みに活用したといえる。乗務員は和歌山列車区、天王寺電車区・車掌区、京橋電車区・車掌区各区が担当。

 4月25日の事故以来不通が続いていた福知山線(JR宝塚線)尼崎-宝塚間は今日から運転を再開しました。事故前と比べ本数は変わらないものの、最高速度の引き下げや、事故のあったカーブでの速度制限強化(最高時速60km)、駅での停車時間を最大15秒程度延ばすなど、全体的にダイヤにゆとりを持たせています。また事故を起こした列車の番号(5418M)は欠番となりました。さらにATS-Pも本格稼動しました。
 しかし同じ日に紀勢本線で特急が300mのオーバーランを起こし、他線区とはいえ運転再開にミソを付けてしまいました。また昨日までの運休に伴う減収は15億円、振替輸送を行った阪急などへの支払いが約9億円と見込まれているそうです。さらに運休中に阪急などへ転移した利用者を再びJRへ呼び戻せるかどうか、そして何より、事故の遺族や被害者への補償など、運転再開の行く手には多くの問題が待ち構えています。

 今回のダイヤは来年3月までの「暫定」であり、JR幹部によると利用者の意見を聞いたうえで来年3月以降は速度の引き上げも検証する」と見直しに含みを持たせています。また「遅れの回復は運転士の責務、当然やってもらう」と、回復運転を正当化しており、再び「スジを立てる気か」と不安になります。
 一方で、来春から東海道線の新快速の所要時間を若干延長(京都-大阪間、大阪-三ノ宮間で各一分程度)するとの報道もあり、現場では試行錯誤が続いているのだろうと思います。今回の暫定ダイヤで所要時間が増えたことにより、尼崎駅での他線への接続は事故前よりも待ち時間が増えていると思われますが、来春の見直しで改善されるかもしれません。利用者の要望次第では、前倒しで見直しされる可能性もあります。
※6月25日追記:JR西日本は来年3月の福知山線ダイヤ見直しについて「速度制限を継続する」と発表。

 「鉄道事業者は安全最優先で列車を運行すべき」この点は異論がないと思いますが、事業者が安全に気を配っても、利用者や第三者の行動が安全や定時運行を妨げてしまうことが往々にしてあります。踏切事故や飛び込み自殺は運転妨害の最たるものですが ホームでの駆け込み乗車も定時運転の妨げとなります。ドアを何度も開閉し、安全確認で時間を取られ発車が遅れてしまい、最悪の場合は体をドアに挟まれたまま引きずられることもあります。過去に新幹線の駅で、ドアに挟まれた客が引きずられて死亡する事故も起きました。
 それだけに現場の社員は、駆け込み乗車に対し神経を尖らせることになります。東京都内では先日、中央線快速電車の乗務員が車内放送で駆け込み乗車への苦言を呈したそうですが、内容がやや感情的(駆け込み乗車で怪我をしても乗客の自己責任云々、と言ったらしい)であったことが災いし、乗客がJRに抗議したとか。駆け込み乗車は社員だけでなく、ルールを守っている乗客をも気まずくさせるようです。

 <以下、やや過激な独り言に見えるかもしれません>
 大阪や尼崎などのJR主要駅(とりわけ草津-西明石間の在来線各駅)ホーム(JR西日本では「のりば」と称する)で、列車到着前に「今度、○番のりばに到着の電車は・・・二列に並んでお待ちください」、列車が着くと「お忘れ物のないようご注意ください」「降りる方が済みましたら前の方に続いてご乗車ください」、そして発車直前に「ドアが閉まりますからご注意ください」「駆け込み乗車はお止めください」等々、案内放送が延々繰り返されます。放送自体は他の鉄道でも行われていますが、JR西の場合は少し気になる点があります。
 「お待ちくださいっ!」「お止めくださいっ!」「ご注意くださいっ!」「新快速ヒメジッ!行きです」「停車駅は尼崎、アシヤッ!サンノミヤッ!」と、ややブッキラボウにも聞こえる男性の声。駅構内で現場社員の方々が頭を下げ声をからして詫びる一方で、のりばでは頭上から間断なく、無機質かつ無愛想な口調で細かく指示される。やや血の気の多い利用者が(交代のため待機中の)乗務員に暴言を浴びせたり物を投げつけるといった行為の背景には、駅のりばの案内放送への「隠れた不快感」があると考えるのは早計でしょうか。

 現行の案内放送は2002(平成14)年7月、草津-西明石間への「運行管理システム」導入に伴い始まったと言われています(大阪駅ではその前年に、従前の女性だけの声から男女混合?の放送に変更されたらしい)。その「ご自慢のシステム」が実は「福知山線へのATS-P導入を後回しにしてまで優先されたらしい」という話もあり、過ぎたこととはいえ「もし福知山線ATS整備を優先していたら」という気持ちになります。
 仮に案内放送が首都圏のような標準語でなく、関西弁を生かしたものだったら、もう少し雰囲気が改善されるのではないかと思うのですが「実用的でない」と一蹴されるでしょうね。でもせめて、声優A.M氏を起用した現行案内放送の見直しについて前向きに検討願えませんか、JR西日本さん。 

※草津-西明石間の駅案内放送については以前に「二列に並んで」という記事で触れている。  

アジサイのメッセージ

2005-06-17 23:44:43 | 漫画アニメ独り言

※今日の一枚:雨模様の夕方、磐越西線咲花駅に進入するSLばんえつ物語号。今や磐西のスターとして欠かせない存在である。近所の住民や温泉宿の客もSLを見ようとホームに集まる。SLのヘッドマークは数年前から月ごとにデザインを変えるようになった。6月はアジサイがSLの先頭を彩る。



 今年は例年に比べ梅雨入りが遅れているようですが、それでもここ一週間ほどで九州から東北南部までが順次梅雨に入りました。といっても西日本を中心に「空梅雨」模様で、まとまった降雨を期待できないという予報もあります。その一方で沖縄では記録的な大雨が続き、農作物や交通機関への被害が懸念されています。
 梅雨は湿度が高くなり不快感が増すだけでなく、カビや食中毒の対策に追われる厄介な時期でもありますが、適度な雨のおかげで農作物が成長し、さらに水源地が潤うという一面もあります。梅雨は生活を支え、季節にアクセントを添える大事な時期とも言えそうですが、度を過ぎた大雨は勘弁してほしいものです。

 梅雨を迎え、各地でアジサイの花便りが聞かれるようになりました。今日の新聞にもアジサイに関する記事が載っていました。アジサイの花に含まれているアントシアニンという色素は本来赤い色だそうですが、アルミニウムと結びついて青く変化するそうです。アジサイが植えられた土壌が酸性だと、土中に含まれるアルミニウムが溶け出して根から吸収されやすくなり、花の色素と結びついて青い花になるといいます。カリウムや硫酸アルミニウムといった肥料は花を青く色づかせ、窒素肥料は赤く色づかせると、新聞に書いてありました。

 過去に「アジサイの色変化」を殺人事件の謎解きに使った漫画がありました。今から十年前、週刊少年ジャンプに連載されていた「人形(からくり)草子 あやつり左近(原作・写楽麿(シャラクマーロー)、作画・小畑健)」の一つのエピソードで、花の色をヒントに被害者の遺体を土中から発見するという話でした。
(WOWOWでアニメ化されていたとは知らなかった。「信州百狐血雨地獄」にアジサイが種明かしで登場)

 若き天才的人形遣い・橘左近は招待先の旧家・秋月家で事件に巻き込まれます。前年に家宝の名刀「村正(百狐)」を持ち出して家出したまま行方不明の長男・恭一、恭一の失踪直後から村で頻発する辻斬り、そして左近が来訪した晩に殺された秋月家当主・宗史郎。村では「辻斬りは恭一の仕業」と噂され、秋月家には恭一を名乗り「親父を斬った」と打ち明ける電話もかかってきました(この電話、実は真犯人が携帯電話を使って仕掛けた巧妙なトリック)。しかし宗史郎の遺体が発見された状況や、恭一犯人説に疑問を抱いた左近は、兄の無実を信じて疑わない秋月家の末娘・四帆に「必ず真犯人を見つける」と約束します。
 左近は「村正」の焼入れで犠牲となった百匹の狐を供養する「百狐(びゃっこ)神社」の境内で、血の色のごとく咲き誇るアジサイの中に青い花を見つけます。「今まで青い花は見たことがない」という村人の証言から、左近はアジサイの近くの土壌が何らかの理由で変化したと考え、真犯人をおびき出すべく芝居を打ちます。

 ある晩、左近は秋月家の一室で、家族全員と長女の婚約者、古美術商で秋月家と親しい沖克己、そして村の巡査が見守る中、あやつり人形の「右近」に宗史郎と恭一の霊を憑依させました。
(実際には憑依などなく、声色を使った左近の腹話術である。左近は来訪初日に宗史郎と実際に言葉を交わしており、恭一の声は四帆が見ていた過去の恭一のビデオから覚えた)
 この時点で左近は、恭一が既に殺されたと断定し「右近に憑依した恭一」に「ここはどこだ、暗くて冷たい、花の香りがする」と「告白」させます(これも左近の芝居)。しかし周囲は芝居だと思わず、ある者は狼狽し、ある者は「くだらん、インチキだ!」と怒り出します。左近は「この中に真犯人がいれば、アジサイの根元に埋められた恭一の遺体を別の場所へ移すはず」と睨み、四帆と共に神社へ先回りします。左近の目論見どおり真犯人は神社に現れ、アジサイの根元を掘り返したところへ左近が声をかけ、謎を解き明かします。

 アジサイの根元にはアルミニウム製のトランクが埋められており、その中には変わり果てた恭一の姿がありました。恭一は真犯人に唆され、村正を持ち出した直後に口封じのため殺されていたのです。そして遺体が詰められたトランクを神社の境内に埋めたのですが、土壌が酸性だったためかアルミニウムが溶け出し、赤いアジサイの色が青く変わったようです。どんな悪事もお天道様、いやアジサイ様はお見通しでした。

ふたご座の男

2005-06-16 23:21:18 | 漫画アニメ独り言

※今日の一枚:新潟駅南口。1980年代前半、上越新幹線開業に合わせて整備された。新潟駅が現在地に移転したのは地震前の1958(昭和33)年。地震を乗り越えた駅は、在来線高架化に向けて本格的に動き出しそうだ。今は自転車の洪水となっている駅前広場も、やがて政令指定都市の玄関として面目を一新するであろう。


 あだち充の代表作に登場するヒーロー(男の主役と言うべきか)たちの共通点、それは「誕生日が6月16日」ということです。「陽あたり良好!」の高杉勇作然り、「タッチ」の上杉達也・和也兄弟然り、「みゆき」の若松真人も6月16日だったと思います。私が読んでいない作品のヒーローたちも、誕生日は一緒かもしれません。
 「陽あたり良好!」ではフラワーコミックスの第4巻に勇作の誕生日が記載されています。冬のある日、かすみが居間で雑誌の星占いのページを読んでいると、勇作が入ってきます。かすみに「高杉君、何月生まれ?」と聞かれた勇作は「6月16日」と答えます。同作品が少女コミックで連載を開始したのが1980(昭和55)年。同年春に高校入学という設定なので、勇作は1964(昭和39)年6月16日生まれということになりそうです。

 ちなみに勇作の誕生日(とされる日)は、新潟地震が起きた日でもあります。午後1時過ぎにM7.5の地震が北陸・東北の日本海側を襲い、新潟市内では震度5を記録したそうです。軟弱な地盤の上に建てられたアパートが傾き、港の石油タンクが炎上している写真を見た憶えがあります。信濃川に架かる橋のうち、竣工間もない昭和大橋はほぼ全ての橋桁が落ちましたが、昭和初期に竣工した万代橋(現・萬代橋)は少し亀裂が入った程度で殆ど被害を受けなかったそうです。また新潟駅近くでは線路をまたぐ陸橋が落ち、真下を走っていた気動車が潰れました。回送列車として入れ換え中で乗客はおらず、乗務員も無事だったのは幸いでした。
(余談だが、今月9日夜に福島県内の只見線で、ずり落ちた工事中の跨線(こせん)道路橋橋桁に列車が接触した事故では、破損した列車は四両編成で乗客が二名だったという。夜間で客が少なかったとはいえ・・・)

 新潟地震は「液状化現象」が本格的に取り上げられたことでも知られています。信濃川河口に展開した市街地は文字通り「水の都」でしたが、それゆえ水気の多い地盤であったようです。液状化現象による建物の傾斜のみならず、現在朱鷺(とき)メッセなどがある一帯に当時存在した万代貨物駅は泥水に水没し、そのまま廃止されてしまいました。それだけの大地震であったにもかかわらず、新潟市内で犠牲者が一人も出なかったのは奇跡に近いことでした(山形県酒田市では地震で学童三人が命を落としている)。それから丁度四十年後の秋に、今度は新潟県内陸部(中越地方)で最大震度7の大地震が起きたのは、単なる偶然でしょうか。

 映画公開が迫った「タッチ」ですが、達也と和也の誕生日は連載初期に披露されたと記憶しています。和也に憧れていた下級生女子と達也が何故かデートをして、女子に誕生日を聞かれた達也が「6月16日」と答えると、相手が「あは、双子座ね」と笑ったシーンを微かに覚えています(タッチのコミックスが手元にないので)。
 しかし作者がなぜ6月16日にこだわるのか。タッチは主役が「双子」だけに「双子座」にあやかったとも考えられますが、それだけでは6月16日の根拠が脆弱です。6月16日に特別な思い入れでもあったのか。
 ところで今日、小学館から「タッチ完全版」1~3巻が発売されることになっていたようですが、店頭に並んだのでしょうか。タッチはあまり熱心に読まなかったので、この機会に読み直してみようかとも思います。

 双子座の性格として「器用」「野心・好奇心旺盛」「理知的で感覚が鋭い」「移り気で落ち着きがない」などが挙げられるようです。達也や勇作が「理知的」かどうかは意見が分かれるところですが、器用さや好奇心の強さは当たっているようです。特に勇作は空手の心得があり、一方で野球のセンスもあるという特異な男です。
 野球といえば、長嶋一茂の子供(つまり長嶋茂雄氏の孫)は双子にして6月16日生まれだそうです(ただし女の子)。広島カープの「赤ゴジラ」嶋重宣は1976(昭和51)年の6月16日生まれ。16日にこだわらなければ「拝啓・石井浩郎」(1964年6月18日)や西武の和田一浩(1972年6月19日)、広島の前田智徳(1971年6月14日)、そしてヤンキースの松井秀喜(1974年6月12日)など、球界で「双子座の男」が華々しく活躍しています。あと有名人では、先ごろ高山みなみと婚約を発表した「名探偵コナン」の青山剛昌が1963年6月21日生まれ、最近ヒロシの陰に霞みがち?の波田陽区が1975年6月5日生まれ、社会人野球チーム総監督を承諾したらしいガッツ石松が1949年6月5日生まれ、等々。漫画でも現実でも「双子座の男」は話題に事欠かないようです。

カントリー・ロード

2005-06-15 23:22:01 | 音楽独り言

※今日の一枚:長野県と群馬県の境、渋峠付近に立つ「日本国道最高地点」の標柱。近くには白根山(標高2,106m)、横手山(標高2,305m)がそびえ立つ。これだけの高さまで道路が整備されていることに驚きを禁じ得ないが、11月中旬から翌年4月下旬までは通行止めとなる。どんなに技術が進んでも、大自然の厳しさには逆らえない。



 「8時だヨ!全員集合」のDVD第二弾が今月24日から発売されるそうな。「全員集合」に夢中だった世代の一人として、懐具合が寂しくなければ購入したいものです。できれば第一弾も買い揃えたいところですが、まだ辛うじて入手できそうかな?それにしても、もう少し安くならないものだろうか、DVDボックス。
 第二弾(8時だヨ!全員集合2005)はゲストとのコントのほか「少年少女合唱隊」の映像が収録されそうです。思えば、志村けんの「東村山音頭」は1976(昭和51)年ごろ「合唱隊」で披露されたように記憶しています。同コーナーでは翌77(昭和52)年に「ディスコばあちゃん」が披露され、さらに80(昭和55)年には「合唱隊」の時間をフルに使い「ドリフの早口ことば」を出演者に歌わせました。これには三船敏郎も挑戦し、今回発売の第二弾にもその様子が収録されているとか。志村は「早口ことば」で常にボイスチェンジャーを使っていました。

 「少年少女合唱隊」では賛美歌や海外曲も披露されました。アメリカのミュージシャン、ジョン・デンバーの代表作「カントリー・ロード(原題:Take Me Home,Country Roads)」をゲストが歌ったこともあります。アグネス・チャンや細川たかしがハンドウッドブロックを片手に、英語の原詩に挑戦していたものです。アグネスは英語が得意で見事に歌いましたが、細川は演歌の調子で「かんとりーろーど!」と叫んで大失敗。歌手たちにも得手不得手があることを知りました。「早口ことば」オンリーよりも、毎週違う歌を披露するほうが面白かった。

 カントリー・ロードは1971年に発表され、日本ではオリビア・ニュートン・ジョンが歌うバージョンのヒットで知られるようになったそうです。一時期トヨタ自動車「カリーナ」のCMソングに使われたこともあり、最近ではフジテレビ系「もしもツアーズ」の出演者たち(もしツアオールスターズと呼ぶらしい)がリメイク(歌詞は日本語)しています。これからも歌詞や歌い手を変えながら、ずっと歌い継がれる名曲なのかもしれません。

 勤め先の近くに小学校があり、昼休みになると校内放送が聞こえてきます。週に一、二回音楽を流しますが、時々カントリー・ロードが聞こえるのです。歌詞は日本語で、若い女性が歌っていますが「もしツア」の歌とも違います。調べてみたらどうも、1995(平成7)年に公開されたジブリ作品「耳をすませば(近藤喜文監督)」の主題歌だったようです。歌い手は主人公(の声)を演じた本名陽子という声優さん。この主題歌の訳詞は、ジブリの鈴木プロデューサーのお嬢さんによる労作だとか。ちょっと悲しく聞こえる歌詞と歌声が印象的です。
 今年は「耳をすませば」公開からちょうど十年ということもあり、舞台となった東京都多摩市では同作を前面に押し出した町おこしを計画しているようです。ちなみに私、同作をまだ観ていないんですよね。
(参考:Ryoukan様「耳すまNET's」、(有)人の森様「1970年代 勝手に青春ミュージック」)

 ドリフネタに戻ります。かつて「ドリフ大爆笑」の雷様コーナーで、尾崎紀世彦がゲスト出演しカントリー・ロード(原詩)を歌ったことがありました。彼といかりや長介はトークで盛り上がり、最後は高木ブーが取り残されてしまうオチでしたが、ここで尾崎紀世彦がカントリー・ロードにちなんだギャグを披露したのです。
 カントリー・ロードを歌った後、尾崎紀世彦はアメリカの田舎町について語りました。いわく「ウエストバージニアの田舎町に行くと、街から郊外に向かってカントリー・ロードが続いているんだ。そのカントリー・ロードと並行してもう一本道があって、酒場で飲んだくれた酔っ払いたちがその道を歩いて家へ帰るんだ。その酔っ払いたちが歩く道は、何て呼ばれているか知ってる?知りたい?教えようか?」と。「勿体ぶらずに教えてくれよ」と何度も催促する長介に対し、尾崎紀世彦は一呼吸置いてボソッと答えました。「サントリー・ロード」

かつてレコード大賞を受賞した大物歌手の一言に、思わず凍りついた私でした。

答えは、デンシャで出せ。

2005-06-08 23:24:45 | 鉄道独り言
※今日の一枚:大阪駅3番のりばで発車を待つ福知山線篠山口行き快速電車。車両はかつての「新快速」117系。国鉄末期に大阪地区専用車として登場、後に名古屋地区にも配置され、JR初期まで新快速として活躍。その後は色を塗り替え車内を若干手直しした車両が福知山線や紀勢本線などに転属、また岡山支社へ旅立った仲間もある。なお画像の3番のりばは現在工事中。電車右手のホームが現在3,4番のりばとなっている(事故前に撮影)。

 いかに周囲からの罵倒が重荷だったとはいえ、暴走行為が正当化されるわけではない-JR西日本の運転士が深夜の暴走行為で捕まった件は、その後の調べで「尼崎事故の後で客に罵られストレスを感じていた」と話したそうですが、彼は事故前から暴走を繰り返していたとされ、客の暴言云々が直接原因とは言い難いと警察は見ているようです。ダイヤ厳守と安全運転の板挟み、ミスを起こせば日勤教育が待っている、そんな乗務時の息苦しさを忘れようと、彼は「ハンドルを握った瞬間に人格を切り替えて」路上で憂さを晴らしたのか。
 事故発生後の乗務員に対する暴言・暴行等は、度を過ぎた面があると思います。だからといって世間が同情するわけでもありません。もし仮に暴走行為で死傷者が出ていたら、それこそ袋叩きにされていたでしょう。

 百七人の犠牲者と五百人以上の怪我人という大事故を起こした上に、事故直後の社員の行動や日頃の労務管理なども暴露され、マスコミは鬼の首を取ったかのごとく連日JR西日本をバッシング。それと呼応するように、線路への障害物放置(列車妨害)やJR社員への嫌がらせが続きました。列車妨害は関西のJRに留まらず、広島県内やライバル関係にある阪急線でも起こりました。さらには事故に便乗した「脱線詐欺」の横行。もはやJRへの批判・非難の裏返しというよりも、トラブルやパニックを期待している「愉快犯」そのものです。
 「列車の脱線を見たかった」などという輩は論外ですが、乗務員に八つ当たりしている人たちも、そろそろ矛を収めるべきではないか。暴言や暴力を浴びた乗務員が動揺してミスを起こさないとも限らないし、ミスが事故につながったら取り返しがつきません。第一、乗務員に八つ当たりしても犠牲者は生き返らないのです。

 乗務員に同情すべき点もないではありません。遅れが容易に回復できない厳しいダイヤで「時間厳守」を要求され、途中の駅で乗降に時間を取られたら制限速度を超過してでも遅れを取り戻す行為の常態化。遅れた理由を利用者に転嫁できず、客を装った社員の監視に怯える毎日。運転業務以外に切符やツアーの販促ノルマを課せられ、何とかノルマを達成しようと、ツアーは公休日に自費参加。減給と日勤教育を避けるべく運転ミスの虚偽申告さえ厭わない雰囲気。これらに加え、事故後は暴言や暴力に晒される毎日。こうした重圧に耐え、信頼を回復しようと運転業務に黙々と取り組む大多数の乗務員が存在すると信じたいのです。

 レールの外で暴走行為に及んでしまった乗務員にも言い分はあると思います。「駅進入時に、オーバーランを期待するかのごとくカメラを向けられた」という発言は、駅で列車を撮影することも多い私には少々耳の痛いものでした。一部の野次馬の行為とはいえ、鉄道ファンの品位を問われかねない出来事であり、列車の撮影行為への批判に発展しかねない。自分のミスを「フォーカス」されて喜ぶ人は、まず存在しませんよね。
 しかし、クルマのアクセルを吹かすとき、彼は「自分たちに世間が注目している」ことに気づかなかったのでしょうか。大事故の直後という微妙な時期に、人の命を預かるはずの乗務員が無謀な運転で警察沙汰になれば、信頼回復のため必死で働く仲間たちを裏切ることになってしまうと、思い返さなかったのでしょうか。線路への置石も、路上での暴走行為も、他人に迷惑を及ぼす危険な行為であることに変わりはありません。

 事故が起きた区間では昨日から試運転が始まったようです。運転再開を望む声も少なくないとはいえ、事故現場周辺の住民からは不安の声も上がっているようです。壊れたマンションの住民に対するJRの説明会は双方の意見が食い違い、住民からは失望の声が上がったとか。JR西日本は事故補償に加え運転再開、安全設備の充実、労務管理の見直し、社風の改革など手掛けることが多すぎて、暫くは多忙を極めることと思います。世間やマスコミの目も一段と厳しくなるかもしれません。事故で失った信頼を戻すのは至難の業です。
 真摯に安全輸送に取り組み、誠心誠意謝罪し、二度と悲劇を繰り返さないことが利用者への回答であり、そして被害者や犠牲者への何よりの供養となることを今一度認識してほしい。レールの外に答えは無い。

名は体を・・・

2005-06-06 23:38:46 | 漫画アニメ独り言
※今日の一枚:西鹿児島駅から新大阪駅に着いた特急「なは」。「なは」は沖縄の県庁所在地「那覇」に通じる。大阪-西鹿児島間の昼間の特急列車として登場した1968(昭和43)年当時、沖縄はアメリカの統治下にあった。沖縄復帰の願いが列車名に込められたわけだが、復帰から三十年以上経過した今も列車名は健在だ。

 先週のフジテレビ「幸せって何だっけ」で細木センセイから「運命を変えなさい」と御宣託を受け、番組中に思わず結婚を宣言した「ブチキレ男」カンニング竹山。結婚(予定の)相手とは以前から同棲していたそうで、5日に行われた自著発売記念サイン会でも結婚を明言。今まで結婚に踏み切れなかった竹山に業を煮やし、細木センセイがわざと厳しく迫ったのかな?とも思ったりしましたが、兎にも角にも年貢の納め時と悟った模様。
 ちょうど今夜の東京フレンドパークⅡは、その竹山がゲスト。私は都合で見られませんでしたが、番組では結婚宣言の話題も出たことでしょう。ここまで明言した以上、「前言撤回」などといったら男が下がりますよ。

 TFP2で竹山と共演したのは熊田曜子。この名前を見るたび、私はあだち充の「陽あたり良好!」の「ラン!ラン!・・・ラン!?」というエピソードをを思い出してしまいます。ある晩、道端で不良に絡まれていた少女を助けた高杉勇作。名前を聞かれても「名乗るほどの者ではない」と立ち去りますが、その場で漫画の本をポケットから落としてしまいます。それは同じ下宿に住む美樹本伸から勇作が借りた本でした(それが「みゆき」のコミックスだったりする)。翌日、その少女は本を返しに勇作たちの下宿を訪れます。本に下宿の住所と伸の名前が書いてあったのです。少女は伸に助けてもらったと思い込んでいます。彼女と応対した岸本かすみは、昨夜の顛末を勇作から聞いていますが、本当のことを教えようとしません。それどころか奥から顔を出した勇作に便所掃除を押し付け、少女から遠ざけてしまいました。誤解したまま帰る少女。伸はこの時外出していました。

 数日後、伸の元に手紙が届きます。手紙の主は先日の少女でした。久しぶりのラブレターだと喜んだ伸でしたが、差出人の名前を見て怪訝な顔をします。彼女の名は「熊田花子」。訝りながらも「しかし、名前と顔とは関係ないからなぁ」と気を取り直し、翌日の放課後、伸は彼女が通う高校へ下見に出向きました。

※伸たちが通う高校は「県立明条高校」で、熊田花子が通う高校は「青華高校」。「みゆき」で主人公たちが通う高校も「青華高校」である。伸が話しかけた男子生徒は「みゆき」の間崎竜一とソックリで、恐らく「みゆき」の青華高校と同じなのであろう。ちなみに「タッチ」で主人公たちが通うのは「明青学園」である。

 花子は友人たちと校庭でボール遊びに興じていました。男子生徒に「あそこでボールを持っている子だ」と指を差した先を伸が見た瞬間、ボールを持っていたのは花子の隣の、太めで丸眼鏡をかけた女子でした。「名前どおりの顔じゃないか」と落胆する伸でしたが、その隣の美少女(=花子)を見つけ「隣の子は?」と男子に尋ねます。「あれ(=花子の隣の子)は美崎小百合だ」と教えられた伸は「やっぱり顔と名前は関係あるんだ」と勘違いしたまま学校を後にします(冷静に再度確かめておけば、後の悲喜劇は起こらなかったわけだが)。

 伸は花子に返事を書きます。「僕はすでに美崎小百合さんという女性に恋している。それを隠したまま貴方と付き合うことは出来ない。許してほしい」と。やがて花子から返事が届き「小百合は私の親友です。明日の午後公園の噴水で彼女に会えます。これが最初で最後のお節介です」という一文に伸は欣喜雀躍します。
 一方かすみは、先日下宿を訪れた少女が勇作の助けた子であることを彼に打ち明けます。花子が勘違いしていることも話し「やきもち焼いて本当のことを教えなかったわけじゃない。美樹本君が最近(出会いに)恵まれていないから・・・」と弁解します。謝るかすみに勇作は「別にそんなつもり(=花子に好いてもらいたい)で助けたわけじゃないから」とだけ答えます。それを聞いて何となく胸が軽くなったかすみでした。

 そして伸と小百合の出会いの日。いそいそと出かける伸を見送り「うまくいったらおごってもらわなきゃ」と微笑むかすみと勇作。ところが噴水の向こうで待っていたのは、あの太めで丸眼鏡の子。呆気に取られる伸に彼女は「花子から聞いたわ。あんた、私の趣味じゃないの、悪いけど」と言い残して立ち去ります。
(参考:小学館フラワーコミックスFC-715「陽あたり良好!」第5巻・セリフ等は一部省略あり)

現実にも「名前と顔は関係ない」人はいるわけで(例えば「静香」という名の男性もいますよね)。