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日本人として日々の暮らしの中で思うこと、知りたかったこと

「征夷」という言葉が意味する古代

2019-07-04 22:44:54 | 日本人論
「征夷(せいい)」という言葉は「未開な民族を征討すること。特に蝦夷(えぞ)を征討すること」とあります。「未開な民族」という言い方はあくまでも歴史上の勝者の側からの見方であって、「蝦夷」とは何を意味しているのでしょうか。

「蝦夷」という言葉を調べてみると以下の様にあります。

「古代,日本の北辺,実際には中部以東,北陸,関東,奥羽地方に住む人々は,大和朝廷より,蝦夷という名で異民族扱いされていた

蝦夷はまたエミシとも読む。彼らがいかなる人種,民族であったかは,江戸時代以後多くの史学者によって論じられてきたが,決め手がなく,一方,人類学者もこの解明を手がけたが,人骨などの実証拠が乏しかった。」

「新井白石や本居宣長は蝦夷すなわちアイヌ説をとった」

「長谷部言人ら人類学者は石器時代人骨の研究から,非アイヌ説をとり,日本人でも東国,北辺に住む化外 (けがい) の民を蝦夷と称した」

言語学者でかつ民族学者でアイヌ語研究の本格的な創始者とされる金田一京助は、「奥羽地方に残る地名をアイヌ語で解釈できるものとして,奥羽地方にいた蝦夷はアイヌであると考える」と指摘していたそうです。

一方で、日本の「考古学者」からは「考古学的資料からはにわかに説明しがたく、また、東北地方出土人骨のうち、アイヌであると思われるものはごく少い」などと切り捨てられています。どうも日本の考古学者らは「勝者」の作った歴史を「忖度」する人々のようです。


福島県の「三貫地貝塚」には縄文時代後期~晩期の長期に渡り人々が生活していた痕跡として百数十件の(縄文人の)人骨が見つかっており、国立遺伝学研究所の縄文人のゲノム解析研究から、縄文人は沖縄から北海道まで住む現代日本人の内、アイヌの人々に最も色濃く、(70%も)「縄文人ゲノム」が受け継がれていることが判っています。この研究では代々の沖縄県民(琉球人)が40%、本土ヤマト人が10%という数字だったそうです。


このゲノム解析の結果から想像できることは、アイヌの人々は古く縄文時代から日本列島本土に住んでいた人々で、大和朝廷という「征服者」によって「蝦夷」と呼ばれながら「征夷」される以前は、北海道などの 辺境地のみならず、奥羽地方などに住んでいた古代日本人の一集団だったということ。


近世以降では「蝦夷」はアイヌと同一視されているようですが、要するに「蝦夷」という概念は時代とともに変ってきているもののようです。

「蝦夷」は元々「大和朝廷」の支配に属さない地域の「先住民」のことで、「征夷大将軍」率いる「大和朝廷」側の武力によって、北へ北へと追われて定住場所を辺境へと移していった人々であり、彼らは「いくつかの系統に大別される古代日本人集団」の中の一集団であり、その言葉の中に古代ヘブライ語の痕跡があるということは、ルーツとして古代ヘブライ語圏との繋がりがあるということですね。

「征服者」によって「言葉」と「歴史」が奪われたとすれば、例えば東北地方に伝わる盆踊り民謡の「ナニャドヤラ」の囃子歌は現代日本人には何が歌われているのかわからなくなってしまったということなのかもしれません。

「言葉」と「歴史」は「征服者」のものなのだから。

東北地方の青森県から岩手県にかけ、民謡「ナニャドヤラ」は古く昔から歌われてきたものの、その「言葉」の意味を理解する者は誰もいなくなってしまったわけです。

しかし、子々孫々その曲や歌詞はいくつものバリエーションで歌い継がれ、夏祭りの盆踊りの中で踊り続けられて、征服者の「歴史」を超えて残ってきました。

夏祭りという「非日常」を許されたときだけ「自分達の言葉」で囃子歌を唄い、それ故にそこにだけ「失われた言葉」が残った、ということなのかもしれません。

このような例として挙げられているものに、北海道の日本海沿岸のニシン漁のときに歌われる「ソーラン節」があります。「チョイ ヤサエ エンヤサーノ ドッコイショ」はヘブライ語で解釈すると「神の御力により、押し進んでいけますように 」というような意味になるらしいのです。


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14 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
毛人 (泉城)
2019-07-05 07:24:30
kamakuraboyさん
おはようございます。
『旧唐書』や『新唐書』では倭国、日本国のほかに日本アルプスより東・北は「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」とあって毛人の国だと記しています。
ここでは毛人は、アイヌを包括する人々ですね。
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おはようございます。 (kamakuraboy)
2019-07-05 09:08:49
コメントをありがとうございます。
『旧唐書』や『新唐書』では日本アルプスより東・北は毛人の国、アイヌを包括する人々が住む場所だったと記されているのですね。

「毛人」はえみしと読みますね。「『蝦夷』は古くは愛瀰詩と書き(神武東征記)、次に毛人と表され、ともに『えみし』と読んだ。 後に「えびす」とも呼ばれ、『えみし』からの転訛と言われる。『えぞ』が使われ始めたのは11世紀か12世紀である」とありました。

そういえば、蘇我馬子の子供で蘇我毛子という人物がいますね。秩父宮とか常陸宮などのように、名前の中に一族が治めるべき地名をつけておいた、ということなのでしょうか。
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卑下された蝦夷の名 (泉城)
2019-07-05 20:59:53
こんばんは
毛人は倭人側が呼んだ名称ですね。
蝦夷と毛人は同じ人々を指し、蝦夷を「えみし」と読んでいたので、毛人についても「えみし」の読みをつけたと思います。

毛人は、体毛が多い人という見た目を表すとともに獣のような人という侮蔑の意味が含まれているように思います。これは中華思想と同じで自分の国の外は夷蛮が住むという思想に基づく表現でしょう。

蘇我入鹿は645年の「乙巳の変」のクーデターで、中大兄皇子(天智天皇)と藤原鎌足に殺され、そして入鹿の子、蘇我蝦夷は追いつめられて自殺します。
書記では徹底して蘇我氏を悪人に仕立てて、名前までも人間以下という意味で馬子の「馬」、入鹿の「鹿」、蝦夷の「蝦(えび)」と獣の字で示したのだと思います。
いずれにしても蝦夷は夷蛮の「夷」がありますので侮辱する意味が込められています。
馬子の墓である石舞台古墳は徹底的に破壊され石室があらわになっていますね。

ところで、この蘇我蝦夷は自殺の際に舘に火を放ち『天皇記』、『国記』や珍宝を燃やしたと書記には記述されていますが、『国記』だけは救われ中大兄皇子に渡ったとされます。
私は『天皇記』には真実の天皇系譜が記され、蘇我家が天皇として名を連ねていたので燃えて無くなったことにしたのだと推測しています。
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こんばんは (kamakuraboy)
2019-07-06 00:33:16
「国書」は620年に蘇我馬子が聖徳太子と共に編纂したとされる書物ですね。

日本書紀の中に「蘇我蝦夷等誅されむとして悉に天皇記・国記・珍宝を焼く、船史恵尺、即ち疾く、焼かるる国記を取りて、中大兄皇子に奉献る」という記述があるのだそうですね。

それが残っていれば、日本の支配者の系譜がすっきりと繋がりをもってわかるということですね。
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蘇我蝦夷は『天皇記』を持っていた (泉城)
2019-07-06 07:38:20
kamakuraboyさん
おはようございます。
なぜ蘇我蝦夷は『天皇記』や『国記』を持っていたのでしょうか。
貴重な書物を蘇我氏だけが所有していたのは気になる点ですね。
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蘇我氏 (kamakuraboy)
2019-07-06 22:23:53
こんばんは。「天皇記」や「国記」を編纂して保管していた蘇我氏は何者だったのでしょうか。蘇我氏のルーツについては様々な説があるようで、これはつまり「ダミー説」などによって真実が隠されてきたと想像できますね。

蘇我氏は、武内宿祢の末裔だと「尊卑分脈」に書かれてあるそうですね。

彦太忍信命から屋主忍男武雄心命(やぬしおしをたけをこころのみこと)、その子武内宿禰、その子の石川宿禰から蘇我満智(そがのまち)宿禰と繋がっており、つまり蘇我氏は九州王朝所縁の一族(倭国の支配一族だった?)ということでしょうか。

履中天皇(17代)紀二年には蘇我満智宿禰が平群氏・物部氏・円氏と共に国事に携わっており、他の氏族には出来ず、蘇我氏には出来たことが『古語拾遺』に書かれおり、それは「三蔵を検校すること」、帳簿をつけること・数字を読み書きすること、計算することだった。つまり財政を握っていたことで大和朝廷内の天皇の近くで権力をもち得たというとなのでしょうか。
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曽我氏、物部氏 (泉城)
2019-07-10 01:44:15
こんばんは

武内宿禰は、北部九州で活躍した人物と考えられ、第12代景行天皇から成務、仲哀、応神、仁徳までの5代の天皇に仕えた長寿の大臣とされます。

あまりにも長寿のため通説では架空の人物とされますが、kamukaraboyさんが示されたとおり平群都久宿禰や蘇賀石河宿禰など有力氏族は、武内宿禰を祖とします。平群氏や曽我氏などが武内宿禰の名にあやかりたいということは、偉大な実力者だったからでしょう。

物部氏はニギハヤヒの命の子孫とされ、ニギハヤヒは壱岐の高天原から九州の遠賀川流域に天孫降臨したと私は推測しており、そのときに5名の天物部と25名の物部を伴っています。

蘇我氏も平群氏も物部氏も『倭名類聚抄』にそれぞれ早良郡曽我郷(福岡県)、早良郡平群郷(福岡県)、石田郡物部郷(長崎県壱岐)などの地名があり、北部九州や壱岐の出身と考えられます。なお、三根郡物部郷(佐賀県)にも物部の地名があります。

曽我氏や物部氏は九州から近畿へやってきた氏族であり、早くから大和で権力を握っていたのは確かでしょう。そして近畿の日本国において長官のような役割を担うよう倭国から任命されたのではないかと推測します。
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蘇我氏=曽我氏 (kamakuraboy)
2019-07-10 12:22:13
こんにちは。コメントをありがとうございます。蘇我は、「曽我、宗賀、巷宜、巷哥」などとも記されるのだそうですね。

その起源は、奈良県橿原市曽我または大阪府南河内郡の石川流域とする両説があったが諸説あり、・・で、武内宿禰を祖とすれば、現在の地名では福岡市早良区脇山の辺りが起源ということですね。

何か所縁の史跡が残っているのでしょうか。物部氏も蘇我宗家も滅び、物部は蘇我馬子によって滅ぼされたことになっているものの、実際はどうだったのでしょうか。
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おはようございます (泉城)
2019-07-13 07:44:58
kamakuraboyさん
おはようございます。

武内宿禰の伝承はあるものの史跡は残っていないようです。
ただ、先にもコメントしましたが『倭名類聚抄』で北部九州に早良郡曽我郷(福岡県)、早良郡平群郷(福岡県)、石田郡物部郷(長崎県壱岐)、三根郡物部郷(佐賀県)の地名が集中しているのは、この九州北部が古代の有力氏族の本貫地であると思います。
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Unknown (weeping-reddish-ogre)
2019-07-16 23:19:42
古事記の中に出雲が出てくるのにその北の北陸などのお話が出てきていないことから、北陸などには大和朝廷に従わない異民族が住んでいたんだろうなぁっては思っていました。

仙台市の東10kmに位置する多賀城市に奈良時代から平安時代に蝦夷の備え、神亀元年(724年)に大野東人(おおのあずまんど)が征夷大将軍となって、陸奥国府や鎮守府が置かれました。

その後、少しずつ大和朝廷側が蝦夷側を北に追いやり、延暦22年(803年)に征夷大将軍・坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が蝦夷の首長アテルイを降伏させた翌年、盛岡市の紫波に外郭が840m四方の築地塀と928mの土塁を伴う外大溝によって区画される紫波城築かれました。

その途中、わたしの住む宮城県の北の方に、西側から
宮崎東山官衙遺跡
中新田城生柵
古川名生館官衙遺跡
といった砦(城)がつくられ、それらが一直線に並ぶ南側が大和朝廷、北側が蝦夷の勢力圏だったとのことです。
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