Corugen's Workplace

日常の風景をつづり、社会の非道を断じ、自らの趣味を披瀝するアナーキーな広場

■新聞奨学生の思い出

2004年07月07日 | 002思い出
もう18年前のことになるが浪人2年目から大学1年まで新聞少年をやっていた。いま思うとよくやったなぁ、今だったらやれないなぁとつくづく思う。

高3で私立大学に合格していたにもかかわらず、その進路に納得できず結局親を説得して浪人の道へ。それを2回もやったものだから、さすがに2浪目は親の経済力もあてに出来ず、予備校はとりあえず特待生でただで行けることにはなったが、受験資金は自分で稼がにゃならなくなった。手っ取り早くてコンスタントで昼間の時間拘束されないバイトで思いついたのが新聞配達だった。浪人時代は朝刊だけ。それでも朝3時半起き。夜型の自分には当初は負担だったが、夜10時には寝る、3時半には起きるという生活サイクルが出来ていく中で、結果としては規則正しく、また昼間の充実した勉強を進めることが出来た様に思う。150件ほどの新聞の種類、道順、入れる順序、憶えるのは結構大変だったが、意外と1ヶ月ぐらいやってみると体がそれを覚えるようで、また体力もある年代でもあり、楽だったのを記憶している。

その甲斐あって東京の大学へ。まったくの博多っ子、東京に親類縁者のいない自分にとってとりあえず食住を確保するには、と考えたのが新聞屋サンへの住み込みだった。新聞奨学生になれば奨学金も出る。学費だけは親から出してもらえることにはなっていたが、生活費まではとても面倒見切れない。それじゃ生活費は自分で何とかする。いま思えばそれまで親がかりだった自分としては相当無謀なことをやったなと思うのであるが行きがかり上、やむを得ない選択であった。当初の進路設計とは裏腹にまず東京に出たいという思いが強くなったためである。第一志望の地方の国立大学は合格していたが、最後に受けた東京の私大に魅力を感じたからである(これは勉強の部分でも東京という環境の部分でも)。2浪したその後の先行きも考えて。気分は「青春の門」の伊吹信介といったところか。

田端の朝日新聞の専売所に住み込むことになった。同じ年代の人がたくさんいた。大学生もいたし専門学校で建築や電子、英語の学校に通う若者がいた。大学を中退して浪人(まさに浪人)している兄貴もいた。販売店のご主人夫婦は福岡の人で、お子さんも私の年齢の上下ぐらい、なんだか兄弟が一気に増えたような、東京に独りで出てきたというにはあまりにもにぎやかな環境であり、ホームシックとは無縁ではあった。

仕事は厳しい。朝3時半起きは従前の通り、チラシを組んで、新聞に差し込み、自転車の前後に積んで、200件近くを6時ぐらいまでに配り終える。朝日新聞や日刊工業新聞、日刊スポーツ、電波新聞、繊研新聞?などの新聞を山積みにしてごっつい自転車を走らせる。田町は下町である。エレベーターなど付かない4階建てのアパートやマンション、昔ながらの下宿も多かった。やせっぽちの自分ではあったが、ふとももだけは筋肉もりもりで太くなった。でも最初の1ヶ月は順路になれないせいもあり、またこの年は雨が多かった。仕事をしながら切ない思いをすることもあった。

自分で選んだ道ではあったが、肉体的にというより精神的に行き詰まり感というか、大学に行くとみんないわゆるキャンパスライフを謳歌しているじゃないですか。勿論授業は出てたし、クラスで友達も出来たし、休みの時には遊びに行ったりもしたけど、平日は夕刊も配るわけです。
月末~月初は集金もあるわけです。勧誘もやったりする。朝よりも昼夜の方が、拘束感があってね。割り切りだとは思うんだけど。例えば、みんなは学校がはねたら飲みに行ったり、遊びに行ったり、映画に言ったりする。自分は早く帰って夕刊配らにゃならない。その辺でね、ちょっと。のんびり自分の時間を過ごすことが出来るのは夕刊のない日曜日とか、新聞休刊日だったりする。

ひょんなことから司法試験の受験サークルに入ったのですが、その中の小サークルの勉強会(通称Uゼミ)が水曜日だったので、水曜日だけ夕刊の休みを貰ってね、そのゼミに出てました。合宿とかにはなかなか参加できなかったけど。でもそのサークルでの出逢いが、その後の自分の運命を変えたかもしれない。ここで出会った先輩方及び盟友たちが今に続いており、また彼らは一介の地方出身者である私にこの上ない親愛と勇気を与え、私を支えてくれた。(これについては別途書きたいと思います)

結局、仕事には馴れてきてそれなりに充実もしていたけど、日本育英会の奨学金も貰えることになり、また返済義務なしの民間奨学金も貰えることが決まり、また東京には別のバイト(残り3年間は塾講師)で生計が立てられそうだということがわかってきたので、大学生活をもう少しだけ充実したものにするべく、田端での新聞奨学生生活を1年でうち切ることにしたのです。

でも浪人時代含めた2年間、特に田端での1年間で学んだこと、自信として得たものは言葉にはいい尽くせないものがあり、販売店の皆さん、お客さん、商店街の皆さんのことを思い出すと熱いものがこみ上げてきます。あの1年があったから、あの1年の充実と不安と腐心、そして周りの皆さんとのご縁があったから、今の自分があるといってもいいかもしれません。親がかりで福岡で20年過ごしてきた自分が、ここで一つの転機を迎えたということかもしれません。1987年から88年のことです。わたしはあの場所で<耐えること><負けそうになりつつも絶対に負けないという心持ち>を知ったと思います。

あの販売店のご主人夫婦も今は引退され、息子さんにあとを任せられているとのこと。年賀状のやりとりは続けておりますが、いつか子供たちをつれてご挨拶に行きたいと思っています。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿