アメリカ:闇の支配構造と略奪戦争

社会構造を分析しています。

アメリカ人は身分格差を顕示するため過剰なまでの消費をやめられない

2012年09月20日 | 記事
>アメリカの所得格差は激しくなっている。1976年トップ10%の所得が全体の49%だったものが、データは古いが1999年には73%になっている。

小林さんが指摘しているのは資産格差の拡大であると思いますが、下位40%の人の資産を合わせても全米の資産の0.5%にしかならないそうです。

所得格差について補足しますと、アメリカでは、所得上位20%の世帯が1980年代以降そのシェアを拡大し、2000年には国全体の所得の約50%を占めるに至っています。逆に、それ以下の所得階層のすべてでシェアを縮小しています。さらに所得階層上位5%が国全体の所得の2割以上を占めています(米国商務省人口統計)。

つまり、資産(ストック)においても所得(フロー)においても富める者がますます富み、格差が拡大していっています。

これに消費性向のデータ(高額所得層ほど消費性向が高い)を勘案すると、次のようなことが見えてくると思います。それは、未だアメリカは、身分社会ではないかということです。その身分とは、白人のアメリカ市民であり、身分が上位である白人アメリカ人はそれ相応の暮らしぶりをしなければならないという意識があるのではないかということです。

>結果、大衆消費者(移民)たちは、まず「アメリカ市民」になろうとした。アメリカ市民であるとは、それらしくみえることである。郊外住宅に住み、守るべき財産と家族をもつことであり、物事を民主的かつ合理的に考えることであった。商品と結びついたデザインや広告は、この「アメリカ市民」らしく見せるにはどうしたらいいかを指示したのである。『アメリカの消費体質』

その結果として象徴的なのが、アメリカでは所得階層と人種が連動していることです。家計の中位所得(家計水準で中央に位置する家計の所得)でみると、1970年以前から一貫して白人が上位で、黒人やヒスパニックは約7割の所得水準で推移しています。貧困層(4人家族で世帯年収18000ドル以下)は、全米で約3500万人(全人口の12.1%、2002年)おり、人種別人口に対する比率は黒人の24.1%、ヒスパニックの21.8%に対して、白人は8.0%に留まります。

また、アメリカでは企業のトップが高額な給与を得ていますが、CEOの給与が工場労働者の何倍かを示したデータでは、1980年に42倍だったものが、1990年には85倍、1997年には326倍になっています。ちなみに、売上高上位1500社で社長・副社長の地位についているマイノリティは男性で0.8%、女性で4.3%に留まります。

さらに、身分意識はキリスト教によって正当化され、強化されているのではないでしょうか。

>人間と動物を断絶する論理は、同様にキリスト教徒とそうでないもの、ヨーロッパ人とそうでないものなどを断絶し、ヨーロッパ社会の内部においてはユダヤ人に対する迫害であるとか、非常に根強い階層意識などを形成してきました。また、ヨーロッパ社会の外部に向けては度重なる略奪・殺戮行為であるとか、人種差別などとして発現してきました。『西欧と日本の階層意識の違い』

キリスト教信者はアメリカ人の9割近くを占め、毎週教会に礼拝に行く人はアメリカ人の4割、聖書の言葉を文義通り信じている人もアメリカ人の4割に達するという調査もあります。

白人が"選ばれた民族"であり、身分相応の消費と資産の保有→格差の拡大は当然のことと考える精神文化があるのではないかと思います。この身分意識は、国外に対しても向けられているかもしれません。


熊谷順治

小泉の支持率と目先の秩序収束

2012年09月19日 | 記事
小泉の自己正当化の為の攻撃的詭弁とパフォーマンスに、支配層の3/4→庶民の1/2が飛び付いている。その世論を背景に、官邸による報道規制の圧力が強まっていることも容易に見て取れる。
これは、かなり危ない。いったい、何故小泉の支持率は高いのか?

庶民の過半は、私権が閉塞し、もはや私権追求には可能性がないと分かっているが、それでも次の収束先が提示されない以上、目先の私権に収束するしかない状態にある。又、収束不全⇒みんな収束の共認圧力もあって、今や根無し草となった私権観念をあからさまに主張することは出来ないが、その分、私権派の欲求不満が蓄積されている。

収束不全⇒みんな収束の共認圧力を受けて、既存(≒私権)意識は目先の秩序に収束し、それに押されて、個人主義(≒旧観念)より国家主義(力の現実主義)の方が優勢となってきた。
その結果、要求するだけの運動や批判するだけのマスコミ報道に対する反感が、広まってきている。
これは、十数年に及ぶ危機感・閉塞感の蓄積を経て、それでも要求し続けている一部の者の運動や主張に対する違和感→怒りが、顕在化し始めたということだろう。

注:力の現実主義とは、私権時代の支配階級を貫く根幹意識であり、戦後保守勢力の一貫したアメリカ追従も、力の現実主義に基づいている。(しかも、戦後保守党はアメリカの力を絶対視させ、その力の幻影をチラつかせることによって国民を脅し、自分たちの支配の安泰を図る道具にしてきた。)

過半の庶民がロクに探索もせずにこのような目先の秩序(国家や力の原理)に収束したことは、由々しい事態である。その背後には、答えを出せない以上、根本問題は捨象して、目先、無難に過ぎれば良しとする表層充足の風潮がある。この目先、無難に過ぎれば良しとする誤魔化しの表層充足の風潮こそ、過半の庶民を目先の秩序に収束させ、小泉の攻撃的詭弁に飛び付かせた土壌である。

岡田淳三郎

グローバル化の旗手は国益保護へと路線転換

2012年09月18日 | 記事
「国家統制に傾斜する米国」
米国主導で突っ走ってきたグローバル資本主義が、完全に行き詰まりをみせてきた。 市場主義という米国基準を世界に押し付け、資本を吸い上げる「いいとこ取り」の手法は壁にぶつかり、米国も世界も混沌の時代に入った。 米国に蔓延するのは手のひらを返したような「愛国主義」と国家による過剰介入だ。剣呑な時代を日本はどう乗り切るべきか。

雑誌「ウエッジ」の冒頭には、このような見出しで米国の路線転換を論じている。
具体的に追ってみると、

・テロを機に民間支援の禁を破り航空業界向けに150億ドルの救済支援。
・鉄鋼業界では、自由化どころか緊急輸入制限を打ち出した。
・マイクロソフト社に対する独占禁止法違反の訴訟を取り下げ、和解へ。
・財政政策では、減税を中心に1000億ドル規模のテコ入れ。
・金融政策では、FRBがFF金利を1.75%という超低金利で金融緩和。
・景気テコ入れとして、自動車ローンの金利をゼロに。

グローバル化の旗手だった米国は、規制緩和を推し進め自由競争の確保という市場経済の基本原則を世界に押し付けながら、今やあられもない国益重視路線に出ている。自国の経済が悲鳴を上げ始めているからには、需要政策をとるのは当然のことだろう。

さて、小泉内閣に目をやれば、
あくまでもグローバル化や規制緩和を目標とした「構造改革路線」だが、当の米国はいち早く国家統制へと路線変更してしまった。外圧に押され米国に追従してきた日本だが、小憎らしい米国に学ぶ必要もある。


また、この米国の転換は以下のことを示している。
・グローバリズムは破綻したのであり、欧米はすでに路線変更している。
・「自由」な市場も「国際協調」も、国益保護・覇権闘争のための詭弁である。
・市場経済は国家の保護(国家統制)なくしては成立しない。

あたかも世界標準のようにグローバル化を叫ぶのは、もう終わりにしてもらいたい。そして、このような事実を突き付けていく必要性を感じる。



衛藤信義

マネー経済拡大の原因 グローバリゼーション

2012年09月17日 | 記事
マネー経済拡大の原因を考えていくうちに、どう考えてもアメリカが疑わしく思えてきました。これはアメリカの支配戦略の一環に違いないと言うことです。以下のように戦略的にマネー経済化の誘導を果たしたのではないでしょうか?

金融市場を戦略的に利用する方法としてグローバリゼーションが立案されたこと。これにはアメリカの支配戦略が大きく関わっているように感じます。1980年代の世界は、ソ連の力の衰えが明白になり、軍事力ではもはや敵はいない。逆に市場では日本の経済的な強さとアジア諸国の成長性の高さが際だち、アメリカは産業の弱さと三つ子の赤字に苦しんでいた。そこでこの市場で優位に立ち、アメリカのヘゲモニーを確立する必要があったわけです。
 
金融市場をテコにして一気に逆転を狙った戦略、それが一言で言えばグローバリゼーションです。アメリカは自由という旗印があり、一方で基軸通貨国です。これを最大限利用して考えられた戦略です。自分の国に有利な制度を先行して作り、それを自由化・市場化の名の下に他国に押しつける。その後はヘッジファンドなど闇の勢力が押し寄せ食い物にする。それには、様々な規制は邪魔でしかありません。食い散らかした後はさらにアメリカのIMFが手当と称してさらに深く関与していく。
 
マネー経済が急拡大した背景には、国際間の垣根を取っ払い世界の金融市場をオープンにするグローバリゼーション化が大きく作用した。これはアメリカの支配戦略の結果に他ならない。そしてこの表と闇の使い分けは劇的な効果を生み、今や世界のほとんどがアメリカの市場戦略に組み込まれてしまった。

井上宏

環境問題への関わり方

2012年09月16日 | 記事
環境問題はどの視点から見るかが大切なことだと思います。
本来はどの視点とかの問題ではないかとも思いますが・・・

今、日本には車が溢れかえっています。
車があることによる環境負荷は非常に大きいと思います。
車自体の燃料、排ガスはもちろん、車があるために道路が舗装され、
新しく作られる。
そして、毎年何万もの人が交通事故で亡くなっています。

しかし、車自体をなくそうという声は上がってきません。
そして各企業は「環境にやさしい車」とこぞって宣伝しています。

この根底にあるのは「経済」です。
つまり「環境」を考える時に避けて通れないのが「経済」だと思います。

原子力発電の問題も色々とあります。
以前、私も放射性破棄物や災害・事故などに放射能汚染、そのものに
不安を抱いていました。

しかしヨーロッパ諸国が脱原発になったのは、それだけではありません。

日本の科学技術庁が10年前に試算した「原発事故が起こった時の被害
総額」は100兆円と国家予算をはるかに超えています。
事実、ソ連が崩壊したのはチェルノブイリが引きがねになっています。

つまりヨーロッパ諸国は、それひとつの事故で国家が転覆してしまう
危険なものは脱却するしかないという結論になったのです。

日本でこういった事が一般的にならないのは「経済」「既得権益」が
あるからにほかならないでしょう。ちなみに各電気会社は利益率が法律で決められています。つまり余剰利益は使わなければなりません。その莫大な余剰利益が宣伝広告費にまわっています。そしてスポンサーの機嫌を損ねる訳にいかないのがマスコミです。

「命」と「お金」、どちらが大切かと言われれば、ほとんどの人が「命」と答えるでしょう。
「環境問題」はゆっくりと進行しているので実感出来ないというところが問題だと思います。

しかし「環境」を考えることによって個々の意識が変わってきているのも事実だと思います。

西田栄喜