25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

21世紀の課題

2015年12月14日 | 文学 思想

 ここしばらく、人類の進化、失敗、日本神話などの本を読んでいて思うことがある。それはアマゾンの奥地で暮らす「ピダハン」のことである。アメリカ人のキリスト教布教者がピダハンの住む村に布教に出かけるのであるが、結局彼は最後に棄教した。

 ピダハンには言語はある。だが見えるものしか信じない。したがって時間という概念がない。左右もない。兄弟姉妹もない。神は言うに及ばず、精霊の概念もない。「神はいるのだ」と言えば、「そんなに言うのなら見せてみろ」とくる。

暮らしていくに困難な地域の人間は、小さな共同体を維持していくために、発する主な言語は「あれ」や「それ」、「川」「や「海」のような名詞、それにタブー語や命令後、「~してはいけない」「しろ」「~しよう」というものだったに違いない。これを「外に出す言語」とすれば、ホモサピエンスが人類の頂点に立ったのは「自分の中の内なる言語」、つまり「思うこと」「自分で自分の語ること」を誕生させたからではないか、と今僕流に思うようになっている。

 生き残っていくためには共同体を維持しなくてはならなかった。共同体には維持するための禁忌が産まれた。自分の中だけで語る言葉が共通の思いとして口に出すものが当然現れる。すると自分とよく似たことを思っている。神の誕生はそこにあった。神という概念を作れば、そこに自分の思いと共同体の思いを合致させることができた。しかしながら神を生む、芽のようなものとしての「精霊」さえ産まなかったピダハン。想像するに、「豊か」な地域で偶然今日まで暮らせたのではないか。

 アフリカの環境危機から中東へ、アジアへ、そしてパプアニューgニア、オーストラリア、ニュジーランド、ヨーロッパ、ロシア、アラスカ、南北アメリカに渡っていった人々の中で、偶然にも食べ物に過不足なくやっていけ、今にまで残ったのはアマゾン流域の豊かさであった、と言えるのではないか。

 文学。これは内なる言語の活動である。それを極めているのが詩や、歌や、純文学なのだろう。外に向けて書くのは大衆小説なのだろう。貧困で辛苦を舐めた人々の間から神は誕生したし、聖書や仏典のような文学が誕生したと言ってもよい。

 個人が思うことと集団が思うことはときに軋轢する。集団の論理を強制するのがファシズムである。これに人間は懲りたはずだが、まだ克服できていないのが現状である。21世紀はなおもこの問題の解決に取り組む世紀であることは間違いない。



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