25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

邂逅

2016年07月09日 | 日記

  「あんた、19歳のときに神宮球場でアイスクリーム売っとったやろ。おれ、見たで」と隣の席にいた男が話しかけてきた。顔をしげしげと見せてもらったが、心当たりがない。しばらく、その男は僕の中学時代の話を始め、東京でずっと僕のブログを読んでいてくれていた。まだ思い出せず、僕はついに、

「すまんけど、名前教えてもらえんやろか」と彼に言ったのだった。名前を聞いても思いだせない。なにせ、40年以上前のことである。

 彼とは同じクラスになったことはなく、同じクラブでもなかった。そして僕はついに思いだした。喧嘩相手だった。殴り合ったことを思い出した。それははずかしいもので、僕が悪かったのか、彼が何か僕の気に障ること言ったのか、今は思い出せない。

 理不尽にやられたら、いつまでも恨みとして残る。彼の表情からは僕に恨みをだいている風でもなかった。

定年後、尾鷲に帰ったらしい。最近奥さんがなくなったらしい。するとこの店にくる客で僕の同級生の4、5人の話題となった。三人が奥さん失っていた。

 一人暮らしも気楽かとも思うがやはり互いにずっと寄り添っていた連れ合いをなくせば、喪失感は相当なものだろうと思う。

「最近、ブログ読んでないんさ」と言うので、「また読んでくれさあ」と言い、「なんでヤプログから移転したん?」と訊くので、「ヤプログのミスで迷惑メールが大量にくるようになってな」

 「犬も歩けば棒にあたる」だっという諺の意味は、よいことに当たるのではなく、酷いことに当たる、というのが本当の意味である。昨夜のような場合をどういうのだろうか。

 たぶんこれからもちょくちょく会うことだろう。尾鷲のような小さな町では知り合いの年上よりやはり同級生が安穏である。その晩は家に帰ってもにさしぶりに興奮した。興奮を鎮めるのに、武満徹の「波の盆」を最終章まで聴いた。そして石原慎太郎の「天才」を読んだ。政治家になってからの田中角栄からは石原慎太郎独自の解釈が色濃くなってきた。20ページほどで眠ってしまった。



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