25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

いま 世界の哲学者が考えていること

2017年05月23日 | 文学 思想

「いま 世界の哲学者が考えていること」

(岡本裕一朗、ダイヤモンド社)を読んでいる。心理学にしてもそうだが、日本人の学者というのは先進国の学術研究を拠り所にしたがる。マルクス主義だ、実存主義だ、構造主義だの、ポスト構造主義、ポストモダン、言語論的転回、メディア 技術論的転回だの、哲学研究がフランスやドイツから英米に移ったことなどを知っても、相変わらずだなあ、と思う。日本の思想家の本でも読んでみろよ、と言いたくもなるが、翻訳でいる力がないと英文するのも、また出版事情からも難しいことだろう。

 心理学にしても西洋のものが日本列島人に当てはまるかといえばあやしいものだ。精神の奥深くには日本列島的なものがある。脈々と無意識の海に眠っているものだ。そう考えれば、哲学だってそうだと思う。カント、ニーチェ、マルクス、今通用するとは思えない。けれど学ぶべきところはある。

 ぼくは、身体とこころ、精神を、15年ほど前から、一緒に考える必要があると思ってきた。またこころは内蔵と脳もネットワークだと思ってきた。あながち間違っているとは思えないが、分子生物学も、解剖学も著しい発展を遂げ、細胞レベルで考えなければならなくなってきた。そう思っていたら、人間の原始形である腸からの神経発展形である脳との関係もあきらかになってきた。さらにはたんぱく質質でできる遺伝子の編集レベルまで医学も進んできた。

 ぼくらの思考は遠い、遠い過去にまで延長できることとなった。すると日本人というのもあやしくなってきた。曖昧になってきたのである。

 こころの成り立ちも、母や父の育て方ばかりを問題にするのもあやしくなってきている。

 しかし、三次産業社会は精神病が増え続けるという有り様であり、善し悪しは別として、繊細でか細い人が増えてきた。新しい産業病である。

 BT. IT. Iot. ビットコイン、ブロックチェイン、AI  という言葉が登場した。これらによって人間はどこへ向かうのだろうか、と問うテツガクシャが多い。革命だととらえている学者もいるようである。

 科学技術が進もうとも、人間は百年や二百年でそうそう変わるわけでもあるまい。相変わらず人は殺すし、国家の戦争もある。

 軍事力を振りかざす国がある。人類が目指すべき課題はいろいろあろうが、飢餓と戦争だけは無化しなければならない。哲学者の考えることは、学者レベルの世界から降りて、人の生活のレベルにも入り込み、飢餓と戦争を無化できる平易な言葉を使用することだ。

  この本から見えてくることはお粗末な翻訳と、お粗末な解説であるが、何が「世界最高の知の巨人が現代のとけない課題に答えをだす」だ。ちっとも答なんてなかったというしかない。

 

 



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