25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

僕が死について思うこと

2015年05月07日 | 文学 思想
お昼のテレビ通販では結構めちゃくちゃなことをさも知っているように宣伝しています。脅しのようなものです。それにくっついて相槌をうつタレントの馬鹿さにもあきれます。
 軟骨が擦り切れてくるといってコンドロイチンやグルコサミンといったものの宣伝を母親が見ているのを、隣の部屋で声だけ聞いていました。MSMとか西洋ヤナギもそうです。確かに炎症止めとして古くから、ヤナギは使われてきました。現代医学ではそれをアスピリンという形にしていきました。
 話を戻します。軟骨成分をいくら飲んだとしてもそれが軟骨になるわけではありません。
 軟骨をすり減らさないようにするためには、とにかく負担のかからない姿勢や歩き方にあります。ジョギングをしても膝頭を内側にひねって走っているようではいくら健康によいからといって、膝の関節が悪くなっていく一方です。
 そもそも口に入れたものは食道を通って胃に行き、すい臓からの消化酵素が出て、消化をし、次に十二指腸に行き、そこでもまた胆汁液などで消化されます。そして小腸で、身体に通すものだけを通して、肝臓に向かいます。肝臓は化学工場のようなところで、様々に微小な分子になったものを化学変化を起こして分解したり、新たなものに変えたりするわけです。何度も言うように髪の毛を食べたからと言って髪の毛が多くなるわけではありません。そんなことは知っているはずなのに、テレビでガンガンと矢継ぎ早に言ってくると人はなんだか思い込んでしまうようです。
 最近のアメリア国立衛生研究所からの報告によるとサプリメントを多様する人は短命であると報告されています。なんらかのサプリメントを飲んでいて、病院に行って薬をもらってそれを飲むと、サプリメントと反応して危険な場合もあります。

 僕は長寿がよいとも思わず、短命もよいとは思いませんが、「死」ということだけは自分で経験できないものです。僕はまずそれを前提に考えているので、死ねば死にっきり、だと思っています。私が死んでも青葉は輝き、海の満ち引きは変わりません。
 ですが、ねるべく死ぬ前に家族に多大な困難を与えたくはないと思っていますが、それもいたしかたがない、とも思っています。

 僕の養生訓としてははなはだ自慢できるものではありませんが、一応、書いておきます。

  1.人間は不規則にできていると考えていること
  2.睡眠はなるべく7時間はとること
  3.寝る前と朝起きがけに水を飲むこと
  4.さっさと忘れること
  5.嫌な人には近づかないこと
  6.姿勢を意識すること
  7.動物性のたんぱく質を意識してとること
  8.美しいものを見たり、聴いたりすること

 となります。本当はもっとあってもいいのですが、思いつきません。運動も適当です。早寝早起きではありません。夜中まで本を読んだりしています。母から学んだことは「性分として生きる意欲があること」です。
 だいたいが子供大きくなって、本来の動物から言えば、もう付録のような年代です。弾丸が飛び交うようなところを走っているようなものです。それで死んだって、自分は経験できない、というのがなんども言うようですが、私の思想です。
 シューベルトは31歳で死にました。僕としては悔やまれます。モーツアルトも35.6歳で死にました。これも悔やまれます。でも本人には後悔もなにもないはずです。知らぬ間にいなくなったのだと思います。作品だけが残っているというわけです。それでいいのだ、と思いますね。

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