25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

また相撲のこと

2016年02月04日 | 日記

  相撲の小説を書いてみようと思って、相撲のドツボにはまってしまい、再度挑戦したが、またドツボにはまってしまった。素人ならでは書けることもあるかと思うが、そもそも、運動というのは重心の移動である。どの競技もこのことのバリエーションである。相撲は、力をいかにして伝えるか、相手方の力を殺すか、利用するか、バランスを崩すかの勝負である。力相撲などありえるはずもなく、見ていたらわかるように、逸ノ城にしろ、臥牙丸などは自分の体重をもてあましているだけである。技をかけることもままならない。少し重心をいじられると、あえなくころぶか、逆に押し出されるだけである。

 大相撲が六場所制になってから、相撲稽古のやりかたが変わらなければならなかったのだろう。しかし、制度を変えても、親方衆や力士の意識は変わらなかった。これだけ怪我が多いのも、とくに膝を故障させてしまうのも、股関節の使い方ができず、膝に直接負担をかけるからなのだろう。

 思うのだが、大工道具であるカンナの刃先を調節するのに、端の木の部分をコンコンと叩く。あれを裏側から手で引っ張っても動くものではない。叩くことで刃先がとびだしてくる原理がわかっていたからこそ、あの形になったのをかんがえると、先人の気づきに驚かされる。

  相撲道は制度変更以後、協会あげて、六場所に合わせた原理の研究をやってこなかったと思う。多くは怪我で泣かされている。白鵬はなにやら試行錯誤しているようである。まだうまくいっていないようだ。

 

 



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