25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

現在の趨勢

2017年08月17日 | 文学 思想

   町も普段の姿になった。車の数も道を歩く人の数も、店の客数も普段のようになった。明日から、東京の友達が八人を連れて、尾鷲にやってくる。そのうちの二人は知っているがあとの六人は知らない。夜はバーベキューとなるのだろう。

 どうやら彼らが帰るまで普段に戻らない。また友遠方より来る、である。積もった話をすることだろう。同じ同人誌の友人なので、そんなことが話になる。僕は一冊の本を販売するまでにこぎつけたから、そのノウハウを教えようなどと思っている。変わりゆく現在、そしてそのあとの未来に僕らは柔軟に対応していきたいものだと思っている。知り合いの弁護士はパソコンが使えない。仕事上、それがどれだけ不便で、客にとって厄介なものか。何度言っても、「わしはこれまでとおりのやり方でいいんだ。今さら帰るつもりはない」と頑固に主張する。写真一枚送るのだって、彼の場合、郵便で送ってくれ、となる。ちょっとした判例探しで、いいものが見つかっても、その資料を郵便で送ってくれ、とか直接100キロ先まで持ってきおてくれという。困ったものだが、彼はパソコンを習う気がないし、ようやく説得して替えさせたスマホも仕事に使う気がない。このようにして時代の趨勢に仕事のやり方が間に合わなくなっていく。弁護士とてそうである。

 出版界もその流れにある。売れそうな本しか出さない。リスクが大きいからだ。現在の日本の書籍流通制度はほぼ壊れかかっていると僕は思う。それはアマゾンの登場である。つまりは高速で大容量のPCやインターネットの普及による新しい事業の形態である。本を作りたかったら、自分で作って売ればいいのだ。出版社にリスクを背負わせることもない。同じ本を何度もトラックで運ぶこともない。売れなかった場合の磨き屋さんや倉庫も要らない。

 また編集者も要らない。どうして自分が書いたものを編集者の目を通さなければならないのか。彼らは売れるか売れないかを基本の判断にするはずだ。もちろん編集者によってより優れた作品となることも知っている。それならば独立した編集者がおればよい。

 とこんな風に業界が変わりつつある。書店での書籍販売は低下し続ける。売れる本が「良い本」だというわけではない。売れない本で「良い本」もある。売れない絵画がその後「良い絵画」になることもある。ゴッホがそうだ。若冲がそうだ。

 すでに津島佑子の「夜の光に追われて」は絶版になっている。あんな良い本が今は書店にはない。また再販されるという噂を聞くが、古本としてもあることを知るのはアマゾンである。

 ということで、僕はアマゾンで自作の本を販売してみようと試みた。これは大きな変化、これまでとは違う状況である。「どうやって知らしめるか」というマニュアル本までアマゾンで探せばすぐにわかる。

 たぶんこんなことを僕は友達に話題に出すだろう。みなマスコミの連中である。どんな反応をするのか、楽しみである。

 文学とは、書くということは「自己慰安」であると僕は思っている。それは売れる売れないという以前の大切な事であると思っている。 



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