25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

時計じかけのオレンジ

2016年04月03日 | 映画

  三日続けて雨が降っている。1973年のロンドンで観たスタンリーキューブリック監督の「時計じかけのオレンジ Clockwork Orange」をDVDで再び観た。ベートベンの第九と超暴力が大好きな18、9の少年の話である。スタンリーキューブリックは1971年か1972年ぐらいからの近未来の社会を描きたかったのだろう。「2001年宇宙の旅」を制作した監督だから、ほぼ同じくらいの時代を想定しているように思える。この映画は多くの賞を取り、絶賛された。

 今回は、脚本に注意を傾け 、さらに、インテリアや小道具にも注意を払った。脚本では、新語のオンパレードであった。おそらくいまの70代や80代の人々が若い人の使うことばが分かりにくいように、カタカタ文字がわかりにくいように、新語を作りだしていた。しかしいくら新語で溢れても映画は理解できるし、人間の暴力性や性欲や憎悪、政治的戦略や陰謀などは変わらぬものとして、新語を越えて、あった。

  一方ですこの制作時には、まだスマートフォンやパソコン、CDなどは想像できていないようだった。作家の家には、新型のタイプライターがあり、小型のカセットテープで主人公はベートーベンを聞いていた。空調や家具は30年後以上に想像されていた。

 精神医療が人間の暴力性を抜き取ることまで成功していた。

しかしながら、最近ニュースの話題にのぼる「少女誘拐監禁事件」のような「静かな異常性」とか「マインドコントロール」などのことまでは触れず、映画は医療の政治的な利用とか、人間の自由性というテーマに収斂されて行った。キューブリックがたぶん想定した2001年はとっくに過ぎている。

  iPS細胞はどうなっていくかはだいたい想像がつく。乗り物や運搬手段についても相当にわかる。エネルギーについてもだいたいわかる。自分達が死んだあと、子供たちや孫たち、ひ孫たちの生きる時代はどうなっているのだろうと考えれば、やはり、いかなる思想が登場し、普通の人々の意識がどのように変わり、政治家はどのような振る舞いをするのか、想像がつかない。キューブリックはそこへ想像力を働かせ 、当時の世に、問題を投げかけたのだろう。

       



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