今朝も「梅雨の中休み」の青空が広がっています。
鳥たちの歌声がにぎやかに響いてきて
この時間は、窓から入ってくる風も涼しくって、ほんとうに心地よいですね…
昨日は、ほとんどPCを開けるヒマのない慌しい一日でした。
夜になって、ふと外を観ると、きれいなお月様が南の空に浮かんでいました。
kirikouのイネも、天候不順の気になる中で、おかげさまで順調に育っているようです。
学校のイネのことも、一生けんめいお世話しているようなので…
是非とも「お日さまの恵みと雨の恵み、そして大地の恵みを一杯吸収して」
大きな実りが得られますように~!!
さて…
いま、読んでいる本からの情報や過去に入力した記憶の引き出しに入っていることなどが
最近、私の身の回りで起きている様々な事象と結びつきながら
おぼろげなカタチ(なんらかのイメージであったり、時には言葉として)
になりそうな…そんな予感がすることがあります。
たいていは、朝の目が覚める前後のひとときであったり
歩きながらまたは電車の中で、移動している最中のことだったり
お風呂に入って、のんびりしているときだったり
これといって、思い出せないほどの何気ない瞬間だったり・・・するようです。
まぁ「小人閑居して何とやら…」という程度の
皆様にとっては、ごく当たり前のツマラナイことかもしれませんけれど
本人にとっては、それまで「わかっていなかったり、気づいていなかったこと」について
まさに、「なるほどガッテン!!」や「Aha!」と
『納得する瞬間』というのは、なんともいえない「快感」を伴うもののようですね!
そんな場面を、はっきりと意識したのが
実は、このところ「ブログの中で皆様とイロイロなお話をした時」なんです。
いろいろなことについて、アレコレと考えたり思索をめぐらせるのは
確かに一人のアタマの中ですすめる行為かもしれませんが
それを、何らかのカタチにするときには
どうしても何らかの「酵素や触媒の働き」や「化学反応を起こさせる場」が必要なのかもしれません。
(この辺りのアイディについて、詳しくは外山滋比古先生の「思考の整理学」をご覧ください。)
(チョッと抽象的で、つかみどころのないお話をしていることは承知の上で続けさせていただきますので
よろしかったら、少々ガマンしていただきながら、お聴きくださいネ…)
いまイメージしているのは…
人それぞれにたくさんの記憶や情報を入れる引き出し(またはPCのファイルのようなもの)を持っていて
それには、それぞれ「音叉」のようなもの
(私が「音叉」を観たのは、ピアノの調律の際に基準になる音を出す道具だったと思います。)
または、「チリン」って鳴るような鈴がついているんです。
それは、過去に仕入れた知識や記憶などの
何らかの知っていることについての情報が入ってくると
(時間的な相互関係などは、私には不明ですけれど)
共鳴して振動したり「チリン」って鳴って、その引き出しの中の情報を引き出すように促すんです。
ただし、その引き出しの中に入っている事柄は
同じ「名札」例えば…「子ども」という名札がついていたとしても
人によって、中に入っている内容はまったく違っているんだと思います。
私ならば…一番強烈なのは、自分が生んだ「kirikouについてのアレコレ」でしょうし
一般的な「子どもについての概念やそれらにまつわる性質や事柄など」や
実際に知っている子どもたちのことや
「もっと広い世界の子どもたち」についての知識やデータだったり
「私自身が子どもだったときのアレコレ」も入っているかもしれません。
そしてその引き出し自体は、他の引き出しともつながっていて
ひょっとすると、別の「名札」にも反応する可能性があるのかもしれません。
(逆に、自分の引き出しの中にないモノ=「知らないモノ」や
「引き出し自体がない」可能性もある場合に
それらに対する反応をつかさどる部位=「これは、何だろう?」というような信号を出すところが
どこか別のところにあるのではないかと想います。)
そして、おそらくここからが一番大切なんですけれど
同じ名札に対して個人個人で「人それぞれに持っている情報」が
みんなそれぞれに違うことが、大前提としてあって
その上で、会話をしたり意見を交わしているということなんです。
つまり、一番最初の時点から、人と人とは違う考え方や経験や感じ方をしている⇒
つまり最初から、ズレているところからスタートしているのではないのでしょうか?
だから、人とお話している際には
程度の差こそあれ「ズレているのは当然」なのではないのでしょうか?
(ここで少し飛躍しますが、
日本のような「同質であることが当たり前」のように思われている(た?)中で暮らしていると
おそらく、「みんなが同じである」というところをスタートにして考えているように思いますが…)
もしかしたら…「みんなが違っている」のが当たり前なんだ…
というところからスタートすると、また違った景色が見えてくるような…気がします。
ズレているからこそ、お話をしたり意見を交わすことで
その違いを知った上で、どうしたらそのあたりを「調整したり共有することが出来るか」が
見えてくるのではないのかしら?と、私は思っています。
さて、私のイメージしている「音叉」
(本来の音叉とは、チョッと違うものかもしれませんが)のことなんですけれど…
人によって、たくさんの音程の違う組み合わせの「音叉のようなもの」を持っていて
そのバリエーションや音質なども、人によって本当にいろいろあるんです。
よく「気が合う」とか言いますが、
たぶん、ごく近い振動数(?)の「音叉」同士が共鳴するようなイメージでしょうか?
反対に、なかなかその方とウマク調子が合わせられない…と言うこともあって
(お付き合いをしないで済ませるという選択も、もちろんアリますが)
そんなときは…少しずつ「新しい音叉を見つけて自分の中に取り入れる」ことで
少しでも、お話し合いが出来るようになりたいたいなぁ…なんてことを考えています。
(こんなイメージが湧いてきた理由のひとつには
あの「ダンス細胞」の振動するイメージが、どこかアタマの隅にこびりついていて
あの面白さを、是非皆様にもお伝えしたいんです…)
なんだか…訳のわからない「見えないお話」をしてしまいましたでしょうか。
このところ、皆様からいただいたコメントに
まるで「ご一緒に、おしゃべりをしているような心もちで」
お返事しようと思っておりましたら、そんなことが浮かんでまいりました。
お時間のあるときに…気ままに、ゆっくりとお越しいただいて
私の拙い話にお耳を傾けていただくだけでも、とってもありがたいですし
率直なご意見やご感想や、さらには鋭いツッコミや辛口のお言葉をいただけましたら
とってもウレシクって励みになります。
私自身が、マダマダ至らないところばかりの未熟者ですから
お気に召すような会話が、出来ないことも多々あるとは存じますが
「それも良い経験としての養分にして、出来れば楽しく精進していきたなぁ」と
想っておりますので
どうぞ、お気軽にお付き合いいただけましたら何よりのシアワセです!!
いつの間にやら、6月も半ばになりました。
青空も…くもり空も…雨空も…それぞれの良さを見つけつつ…
皆様も、お心かろやかなお健やかな一日をお迎えくださいネ~!!
鳥たちの歌声がにぎやかに響いてきて
この時間は、窓から入ってくる風も涼しくって、ほんとうに心地よいですね…
昨日は、ほとんどPCを開けるヒマのない慌しい一日でした。
夜になって、ふと外を観ると、きれいなお月様が南の空に浮かんでいました。
kirikouのイネも、天候不順の気になる中で、おかげさまで順調に育っているようです。
学校のイネのことも、一生けんめいお世話しているようなので…
是非とも「お日さまの恵みと雨の恵み、そして大地の恵みを一杯吸収して」
大きな実りが得られますように~!!
さて…
いま、読んでいる本からの情報や過去に入力した記憶の引き出しに入っていることなどが
最近、私の身の回りで起きている様々な事象と結びつきながら
おぼろげなカタチ(なんらかのイメージであったり、時には言葉として)
になりそうな…そんな予感がすることがあります。
たいていは、朝の目が覚める前後のひとときであったり
歩きながらまたは電車の中で、移動している最中のことだったり
お風呂に入って、のんびりしているときだったり
これといって、思い出せないほどの何気ない瞬間だったり・・・するようです。
まぁ「小人閑居して何とやら…」という程度の
皆様にとっては、ごく当たり前のツマラナイことかもしれませんけれど
本人にとっては、それまで「わかっていなかったり、気づいていなかったこと」について
まさに、「なるほどガッテン!!」や「Aha!」と
『納得する瞬間』というのは、なんともいえない「快感」を伴うもののようですね!
そんな場面を、はっきりと意識したのが
実は、このところ「ブログの中で皆様とイロイロなお話をした時」なんです。
いろいろなことについて、アレコレと考えたり思索をめぐらせるのは
確かに一人のアタマの中ですすめる行為かもしれませんが
それを、何らかのカタチにするときには
どうしても何らかの「酵素や触媒の働き」や「化学反応を起こさせる場」が必要なのかもしれません。
(この辺りのアイディについて、詳しくは外山滋比古先生の「思考の整理学」をご覧ください。)
(チョッと抽象的で、つかみどころのないお話をしていることは承知の上で続けさせていただきますので
よろしかったら、少々ガマンしていただきながら、お聴きくださいネ…)
いまイメージしているのは…
人それぞれにたくさんの記憶や情報を入れる引き出し(またはPCのファイルのようなもの)を持っていて
それには、それぞれ「音叉」のようなもの
(私が「音叉」を観たのは、ピアノの調律の際に基準になる音を出す道具だったと思います。)
または、「チリン」って鳴るような鈴がついているんです。
それは、過去に仕入れた知識や記憶などの
何らかの知っていることについての情報が入ってくると
(時間的な相互関係などは、私には不明ですけれど)
共鳴して振動したり「チリン」って鳴って、その引き出しの中の情報を引き出すように促すんです。
ただし、その引き出しの中に入っている事柄は
同じ「名札」例えば…「子ども」という名札がついていたとしても
人によって、中に入っている内容はまったく違っているんだと思います。
私ならば…一番強烈なのは、自分が生んだ「kirikouについてのアレコレ」でしょうし
一般的な「子どもについての概念やそれらにまつわる性質や事柄など」や
実際に知っている子どもたちのことや
「もっと広い世界の子どもたち」についての知識やデータだったり
「私自身が子どもだったときのアレコレ」も入っているかもしれません。
そしてその引き出し自体は、他の引き出しともつながっていて
ひょっとすると、別の「名札」にも反応する可能性があるのかもしれません。
(逆に、自分の引き出しの中にないモノ=「知らないモノ」や
「引き出し自体がない」可能性もある場合に
それらに対する反応をつかさどる部位=「これは、何だろう?」というような信号を出すところが
どこか別のところにあるのではないかと想います。)
そして、おそらくここからが一番大切なんですけれど
同じ名札に対して個人個人で「人それぞれに持っている情報」が
みんなそれぞれに違うことが、大前提としてあって
その上で、会話をしたり意見を交わしているということなんです。
つまり、一番最初の時点から、人と人とは違う考え方や経験や感じ方をしている⇒
つまり最初から、ズレているところからスタートしているのではないのでしょうか?
だから、人とお話している際には
程度の差こそあれ「ズレているのは当然」なのではないのでしょうか?
(ここで少し飛躍しますが、
日本のような「同質であることが当たり前」のように思われている(た?)中で暮らしていると
おそらく、「みんなが同じである」というところをスタートにして考えているように思いますが…)
もしかしたら…「みんなが違っている」のが当たり前なんだ…
というところからスタートすると、また違った景色が見えてくるような…気がします。
ズレているからこそ、お話をしたり意見を交わすことで
その違いを知った上で、どうしたらそのあたりを「調整したり共有することが出来るか」が
見えてくるのではないのかしら?と、私は思っています。
さて、私のイメージしている「音叉」
(本来の音叉とは、チョッと違うものかもしれませんが)のことなんですけれど…
人によって、たくさんの音程の違う組み合わせの「音叉のようなもの」を持っていて
そのバリエーションや音質なども、人によって本当にいろいろあるんです。
よく「気が合う」とか言いますが、
たぶん、ごく近い振動数(?)の「音叉」同士が共鳴するようなイメージでしょうか?
反対に、なかなかその方とウマク調子が合わせられない…と言うこともあって
(お付き合いをしないで済ませるという選択も、もちろんアリますが)
そんなときは…少しずつ「新しい音叉を見つけて自分の中に取り入れる」ことで
少しでも、お話し合いが出来るようになりたいたいなぁ…なんてことを考えています。
(こんなイメージが湧いてきた理由のひとつには
あの「ダンス細胞」の振動するイメージが、どこかアタマの隅にこびりついていて
あの面白さを、是非皆様にもお伝えしたいんです…)
なんだか…訳のわからない「見えないお話」をしてしまいましたでしょうか。
このところ、皆様からいただいたコメントに
まるで「ご一緒に、おしゃべりをしているような心もちで」
お返事しようと思っておりましたら、そんなことが浮かんでまいりました。
お時間のあるときに…気ままに、ゆっくりとお越しいただいて
私の拙い話にお耳を傾けていただくだけでも、とってもありがたいですし
率直なご意見やご感想や、さらには鋭いツッコミや辛口のお言葉をいただけましたら
とってもウレシクって励みになります。
私自身が、マダマダ至らないところばかりの未熟者ですから
お気に召すような会話が、出来ないことも多々あるとは存じますが
「それも良い経験としての養分にして、出来れば楽しく精進していきたなぁ」と
想っておりますので
どうぞ、お気軽にお付き合いいただけましたら何よりのシアワセです!!
いつの間にやら、6月も半ばになりました。
青空も…くもり空も…雨空も…それぞれの良さを見つけつつ…
皆様も、お心かろやかなお健やかな一日をお迎えくださいネ~!!
たびたびのお邪魔、お許し下さい。
こちらのエントリーでおっしゃっていたこと、特に“ズレ”ということについて、私なりに、うんと感心することが幾つもありました。
他者と言葉を交わす時、私の場合、特に他者と自己との意見に多少の“ズレ”を感じながら、相手の話に耳を傾けつつ、会話を交わしているようです。そのとき、自分の脳が、歓びを感じているらしいのです。
実は、未だに、相手の意見が自分の意見とフィットしないと、何処かで反発を感じる「ナイーヴな自分」が、私の中にいるようなのです。
その「ネオテニー」(幼体成熟)というか、そういう自分を膨れ上がらせない(つまり増長させない)為に、他者の話に只管(ひたすら)耳を傾ける…。
つまり「よく聴く(聞く)」ように自らをコントロールするよう心がけています(なかなかうまくいきませんが…言うはやすく行うは難し、とはよく言ったものです)。
しかし中には、それでも、自分の好きな物事の話題には触れられたくない、とばかりに、まるで豹変したように反発される方もいらっしゃるのですものね。
風待人さまなら、ここで柔らかく受けとめられて、相手の言葉についての御自分の意見を述べられると思われますが、私の場合、なかなか、そうはいかない。
ネットで相手の意見に答えを出すのも、本当に神経を使わなくてはいけないのですね…。
ここまでの話は、あくまでネットでのチャット(会話)の場合ですが、こういう場合は、下手な反論は本当に損な方向に働いてしまいますね。
普通の、お互いに顔を見ながらの会話では、相手の顔の表情を見つめながら話を聞けるので、、ネットの場合のような失敗をしないように気をつける事が出来ます。
とにかく、生の対話でも、ネット上のチャットでも、お互いの意見の違いを感ずることで、それぞれ、会話力とコメント力を磨き、自分を鍛練する事が出来るものと思っています。
風待人さまもいわれているように、相手と自分とは考えがズレて(違って)いて当たり前だ、というところからスタートすれば、見える世界も違ってくるかもしれないということは、大切なことのように思えます。
本当に「ヒトのお話を聴く」ことは
大切だなぁと思うと同時に、確かに難しいことでもありますね・・・
よく「お母さん僕の話を聴いてよ~!」って子どもにも言われtれしまいますもの。
分かっているのに、意識して聴こうとする努力が
私も必要だなぁ、って痛感しています。
でも、そうやって気をつけていると
少しずつ、言葉だけではない(言葉のウラにある)気持ちにも
気がつける時が、たまにありますし
それも時には、大きくハズシテしまうことも多々ありますし・・・
その意味では、ストレスもかかるしドーパミンもたくさん出るし・・・
きっと『会話』というのが、とても脳の機能を活性化させる行為だと
いわれる所以かもしれませんね。
ひとついえるのは『失敗を恐れるな!!』でしょうか?
やってみなければ、何もわからないし
前向きな目標や志向性や意志を持って、取り組んでいくことであれば
たとえ失敗したとしても、
そこから新しい創意工夫が生まれるんだと思います。
銀鏡反応様のおっしゃっている
『会話力とコメント力を磨き、自分を鍛練する事』は
私も、心がけていきたいなぁってつくづく思いました!!
コメントいただいて、本当にありがとうございました!!
成る程…たしかに無関係な第三者が稚拙なズレた陰口叩いてますね。
ズレてもいいけど、他人を傷つけたりしちゃダメでしょ!
他人の揉め事が楽しいなんて最低!ちゃんと意見を述べている人間を認められないなんて最低!
風待人さん、銀メッキはげまくりな陰口聞いて楽しかったですか?
もう気がすんだ?
貴方もよくこういうコメント載せたまま、色んな人にblogの宣伝してくれましたね。
色んな人から情報流れてきましたよ。
それから、掲示板に参加するしないは個人の判断です。
自分がした事棚にあげて私のせいにするなんて、言い掛かりはやめて!私が気が済むなんて有り得ませんから!
これって誹謗中傷ですよ!
抗議はコレが最後です。
次は規約違反で通報します。
正直に申し上けることをお許しいただけたら、ありがたいのですが
どうも、私の察しが悪いようで・・・私自身もほんとうに困っております。
私が、申し上げることばが
あなたを「傷つけたり、誹謗中傷している」とお感じなんですね・・・
あなたを傷つけたり、困らせたりするつもりは私にはまったくありませんし
良い関係を構築することは難しいとしても
できれば、お互いに存在することを認め合えるようになりたいと思っています。
「他人の揉め事」というのは、私とあなたの間でのことをさしているのでしょうか?
「ちゃんと意見を述べている人間を認められないなんて最低!」とのこと。
ちゃんと意見をお話になれるし
イロイロなことをマジメに考えていらっしゃるMarei様のことを
私は、とても素晴らしいと思っております。
皆様のコメントを残したままにしてあるのは
せっかく書いてくださった方のお気持をできれば大事にしたいからですし
目に見えるような「言葉」になっていれば
私自身もあとから、振り返ることも出来ますので
「言った、言わない」ということで齟齬が生じることが少なくて良いかしら?
と思っているからです。
それから、ブログの宣伝というほどの大げさなことはしておりませんので
ほんの身近な方の数人ですので・・・その点はご安心ください。
ただし、インターネットとの付き合いについては
私の子どもたちも避けては通れないと思っておりますので
その意味では、きちんとその行方について
私なりに検証できるようにしていきたいと考えておりますし
あまりネットについて良くご存じない方々にも
何らかのお役に立つこともあるかも知れませんね。
これが、何らかのトラブルだとしたら・・・
私には、楽しむ余裕などまったくありません。
こういう場合の解決策は、誰に相談すればいいのでしょうか?
イロイロと予想はしておりましたが
何かしら良い方法が見いだせるかどうか、きちんと考えてみますので
少々お時間をいただけますよう、よろしくお願い申し上げます!!
私もショックです。
身体も壊しました。
もう…疲れました…
って、続けて読み取れちゃったんじゃないのかなぁ。
ここは一呼吸、空いてるんだよね。だから改行したんでしょ?
だったら悲劇だよねぇ。誰も悪くないのに。
ブログを開ける時間が取れなくって・・・
お返事が遅くなってしまって、スミマセンでした。
私自身の「言葉の力」=「表現することと読み取る力」の
足りないところがあると思いますので
その不足を補うためには、何度も言葉を重ねたり
そこに誤解があるとしたら、誤解を解くために
イロイロなやり取りが、必要だろうなぁ・・・と想っております。
面と向かって会話をしている場合にも
相手の方と「どれほどのものを共有することができるのか?」
という疑問や課題は、おそらく私だけではなく
多くの方が感じていらっしゃるのではないかと私は感じておりますが、
皆様は、いかがお考えでいらっしゃいますでしょうか?
掲示板やブログでのコメントの行き来だけで、
意志を通じ合うことのムズカシさは、よくよく承知した上で
私としては、それでもなお「何らかのコミュニケーションの可能性があること」を
信じて、もう少しトライしていきたいと想っております。
(まったくの私的なことですけれど・・・
ブログを始める頃は、私の中に
「言葉を使うことに対する大きな畏れ」のようなものがありました。
完璧な表現など、私には到底できない・・・ということが、
いやというほどに身にしみて感じられる中で
『それでも、この不完全な言葉を使って表現していくしかない』
ということを、ある意味で覚悟いたしました。
想っていることを、言葉にすることのムズカシさは・・・ほんとうに手強いですね…
こんなふうに、言い換えてみても、
どうにも心もとない感覚は消えませんし…
私としては、『誰しも人を傷つけようとして、言葉を発するのではない』
『解り合えるまで、できればあきらめたくない』『失敗を畏れずに、何度でも』
『できる限り、相手の気持に近づく』ということを前提にして
試行錯誤をしてみようと思っております。
なかなか上手くはできませんが・・・
もう少しの間、お付き合いいただけましたら、本当にありがたいです。)
私から何らかのお声をおかけするのも、ご迷惑かもしれませんけれど・・・
なによりも、Marieさまのお身体やお気持が、安らかに良くなられますように
心よりお祈りしております。
(私も誤解があるのは、ほんとうに悲しいです。
一つ一つの言葉を取って、何か申し上げることはいたしません。
「クオリア日記」やCafeは、時おり覗きにいって
皆様のコメントを読ませていただいたり、
気が向いた時に、TBを送るくらいにしようと想っております。)
私自身が気がつかずにいた点を、率直に教えてくださって
ほんとうに、ありがとうございました。
私自身が気づいていなかったり意図していない「ことば遣い」や「表現」が
読んだ方に誤解や嫌なお気持をもたらす・・・ということを
改めて、つくづく知ることができました。
「自分の考えたり思っていたり感じているようには
他の方は考えたり感じたりしていない。こともある」
ということを、前向きな意味で肝に銘じておきます。
『誰も悪くないのに。』って、おっしゃっていただいて
「私も、本当にそうだと良いなぁ」と思っています。
そこで・・・何らかの解決の糸口が、見えてくるといいのですけれど。
私も、当分の間そのことを考えながら・・・
インターネットを覗いたり、言葉を発してみようと思っています。
よろしかったら、お気づきの点など
また教えていただけたら、とてもありがたいです。
どうぞ、よろしくお願いいたします!