Little Tree

日々のいとなみのなかで感じた子どものこと、季節の移ろいやこころに映る風景

返却する前に・・・

2008-11-01 08:54:02 | お気に入り
子育てのことは、脇に置いておいて…

返却期限も過ぎてしまった本のお話を、忘れないように書いておきましょう!

前もって予告しておきますけれど
思いっきり「私の趣味の世界」のお話ですから、慣れない方は
驚かないで、お聴きくださいね!!


(と書いてしまってから、ひょっとして「大きな誤解を招く恐れアリ」と、気づいて…
慌てて、いつもの「言葉足らず」を補うことにいたしました。

私にとって、私の書いていることが
あくまで「素人の雑感などの趣味程度の代物である」と思っておりますだけで

いろいろなことを、教えていただける方々に対しては、
ほんとうに大きな尊敬を感じておりますし
私にとって、何よりの喜びをもたらしてくださっています。

と同時に、言葉の海で溺れそうになっていることの多い私に
光を投げかけてくださっていることを、心から感謝しております…

ということで、言い訳はこのくらいにして)


9月のはじめに「脳の世紀」というシンポジウムでお話を伺った
佐々木閑先生の『インド仏教変移論 なぜ仏教は多様化したのか』を

難しい文献の言葉などは、ほとんど飛ばしながら
何とか最後まで、内容に目を通しました…


まずは、扉より引用いたしますと

『初期阿含仏教から後期密教まで、仏教はなぜこれほどまでに多様化したのか?
 全く異なる教えを説く教団が、
 お互いを仏教徒であると認めあえるのはなぜなのか?
 謎を解く鍵は、アショーカ王の時代に起こった一つの事件にある。
 この事件は、大乗仏教の発生という巨大な現象を生み出し、
 仏教を根幹から変えてしまった。
 本書の目的は、この事件の実態を追求し、
 仏教変容の根本原因を解明することにある。』

次に、序より

『バラモン主義の世界観が支配的であった古代インドにおいて、これに対抗する新たな勢力として沙門が登場する。…その中にたまたまシャカムニを創始とする仏教があったのだが、それが最初から他の沙門宗教を凌ぐ何か特別の地位にあったわけではない。おそらくは数ある新興勢力の一つとしてそこそこの力を持ったグループといったところに過ぎなかったであろう。ではその仏教が現在見られるような広大な世界宗教にまで発展した原因はどこにあったのか。(中略)
 私がこの本で示したいのは「仏教はなぜ今あるような姿で存在しているのか」と問うことには、それなりの意味があるのではないかという提言である。議論の焦点は「仏教の多様化」にしぼっている。もう少し具体的に語ってみよう。
 仏教が現在見られるような広大な世界宗教として発展した基点はどこかと考えるならまず思い浮かぶのはアショーカ王の帰依であろう。…仏教がウルマヤ帝国の国教になったとは考えられないが、アショーカが個人として仏教在家信者(優婆塞)であったことは確実であり、大いに帝国の庇護を受けたことは十分予想できる。』

(続いて、かいつまんでみると)

『そのアショーカ王の時代に起こったであろう僧団内での事件をきっかけにして
「破僧定義の変更」と変遷を経て、

「異なる意見を持つ者であっても、集団行事を一緒に行う限り全員を仏教出家者として認定する」という新たな見解が生まれたことが判明したのである。これはすなわち、仏教の多様性を仏教自らが許容するようになったということを意味する。仏教が多様化して様々な教義を一気に生み出していく、その原点ともなる新たな形態である。』(引用ここまで)


佐々木さんの論考は、用いる論理的な方法をきちんと提示しつつ
基にする資料も精査し吟味して、小さなモザイクのピースを緻密に繋ぎながら
仮説の検証に向かって、ひとつひとつ論拠を辛抱強く積み上げていく…
道筋を辿っていらっしゃるように感じました。

学問僧という言葉を聞いたことがありますが・・・

私などには、到底計り知れない数の経典や文献があって、
それらをひとつひとつ写し取って、
ほんとうに丁寧に読み解いていかれるのだろうと想像しています。


仏教といっても、最初にお釈迦様が説いていらしたコトから始まって

長い年月をかけて様々な地域を変遷し、様々な人々の間を経由して
今現在のようなカタチとなって、現れているんでしょうね。


東方の果ての日本に伝播して、時を経て

例えば「源氏物語」の時代にしても、方丈記の時代にしても…

そして現代の私たちにしても、意識するしないに関わらず

モチロン仏教だけではなく、様々な宗教や思想の影響を受けていることを

改めて感じるきっかけを頂きました。


白洲正子著「明恵上人」を読んでみたり…

そうそう、南直哉師のお書きになった「『正法眼蔵』を読む」も借りてきました!

(今年はNHKの「こころの時代」でも、月一回『正法眼蔵』を取上げていますね。

さらにしらべて観ると…松岡正剛氏も、長きにわたって読みついでおいでとか。)


それ程に畏れ多い方でいらしたとは、露知らず…

30年も前のこととなれば、学生だったかその後だったかも、今となっては定かでなく

一晩だけ、まだ雪の残る永平寺の宿坊に泊めて頂いて
和尚様からお話を伺って、一時坐らせていただいことや

お寺の中がとても広くって、何やら張り詰めた空気が漂っていたことを
思い出しておりました。


私には、どうにも難しく感じる文章の内容よりも
それらの本をお書きになった方やそのコトバを発した人を想い描きながら
それを頼りに生きていらっしゃる方々の姿が思い浮かんで
その方々の心の奥の方から湧いてくる言葉が、耳に残って仕方がありません。


そして、それらに静かに耳を傾けるうちに…

私に何かしら言えることが、あるのやら…などと、つらつらと想いつつ


そろそろ、今朝のお話を終えましょうね。


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