昨晩遅くに降ってきた雨も上がって、路面も乾きはじめて
昨日のような青空を心待ちにしておりましたが…
今は、グレー混じりの水色が覗いています。
今日は、やや不安定な空模様になるのでしょうか?
昨日は、お話の途中で3期目の「短歌の実作」講座に出かけました。
今回は、継続して参加される方ばかりとのことで
また、皆様とお顔をあわせることができて、楽しい時間が過ごせそうです。
毎年、学園祭の時期に合わせて、皆さんの作品を冊子にしてくださるそうで
作品を8月末までに、生徒さんのお一人にお送りして
先生が少し手も入れてくださって、10首に選歌をしてくださった原稿を戴きました。
どれも拙く、恥ずかしいものばかりですが…
どこかしら・・・「わが子にも似て」何とはなしに愛しさが感じられます。
また、機会をあらためて…まとめて皆さまにお読みいただけたら…と想っております。
毎回、今井恵子先生から
短歌の歴史的背景や近代短歌から現代の短歌の置かれている状況なども踏まえた
短歌のたどった潮流を丁寧に読み解いていくような講義が伺えます。
言葉というもののもつオモシロさ奥深さに、きっと先生も魅せられて
そして短歌という表現方法の可能性や行く末を見守っていきたいという
お気持ちがあるように、私には感じられました。
(今井先生が雑誌「現代短歌 雁」2007年8月号にお書きになった
「リレー連載 歌の方位 『韻律と時間』」のご紹介が講義の中でありました。
とても興味深いお話でしたので、皆さまにもお知らせいたします。
どこかでお目に留まったら、ぜひご覧ください!)
そうでした!
昨日の講義の中で
近代以降の日本における「われ」の持つ意味を探るうえで
「個人を規定する時」日本人の思考においては「内向的求心的方向性を持ち」
欧米では「外向的遠心的力」がはたらいている、とのお話がありました。
さらに「道行き」についてのお話があって(先ほどの雑誌のお話の中から引用すると)
…能や歌舞伎に出てくる<道行き>も、日本式思考経路の典型的な造形様式であった。たとえば、『熊野』では花見の宴が行われる清水寺、『曽根崎心中』では徳兵衛とお初が心中する露天神の森というように、設定された目的地へ向かう途上の情景情趣を、登場人物の視点を移動させながら並列に繋いでゆく。(中略)
このような思考経路は、日本の、建築・宗教・政治・芸能・芸術などあらゆる分野において指摘することができるだろう。そしてそれは日本語の文章の仕組みと照応している。 (引用ここまで)
ということで…ここで「なるほど、合点!!」と思ったのは
私自身が、ブログの記事を書きながら
「コッチからアッチまでお散歩したことを、
何で、こんな風につらつらと書いているのかしら~?」
まどろっこしいような気もしつつ
けれど書いていると、どうしてもそのように流れていってしまう…
「どうしてなのかなぁ?」と不思議に感じていたからだったんです。
(もしかしたら…私の一人合点で、皆さまには、ちっともおかしくも楽しくもないかも知れず…)
そのあたりのことも気にかかりつつ…またまた、時間となりました。
ようやく、東のほうから明るいひかりがさしてきました…
この分でしたら…青空も観られそうですね~!!
では…この続きは、また後ほど…
昨日のような青空を心待ちにしておりましたが…
今は、グレー混じりの水色が覗いています。
今日は、やや不安定な空模様になるのでしょうか?
昨日は、お話の途中で3期目の「短歌の実作」講座に出かけました。
今回は、継続して参加される方ばかりとのことで
また、皆様とお顔をあわせることができて、楽しい時間が過ごせそうです。
毎年、学園祭の時期に合わせて、皆さんの作品を冊子にしてくださるそうで
作品を8月末までに、生徒さんのお一人にお送りして
先生が少し手も入れてくださって、10首に選歌をしてくださった原稿を戴きました。
どれも拙く、恥ずかしいものばかりですが…
どこかしら・・・「わが子にも似て」何とはなしに愛しさが感じられます。
また、機会をあらためて…まとめて皆さまにお読みいただけたら…と想っております。
毎回、今井恵子先生から
短歌の歴史的背景や近代短歌から現代の短歌の置かれている状況なども踏まえた
短歌のたどった潮流を丁寧に読み解いていくような講義が伺えます。
言葉というもののもつオモシロさ奥深さに、きっと先生も魅せられて
そして短歌という表現方法の可能性や行く末を見守っていきたいという
お気持ちがあるように、私には感じられました。
(今井先生が雑誌「現代短歌 雁」2007年8月号にお書きになった
「リレー連載 歌の方位 『韻律と時間』」のご紹介が講義の中でありました。
とても興味深いお話でしたので、皆さまにもお知らせいたします。
どこかでお目に留まったら、ぜひご覧ください!)
そうでした!
昨日の講義の中で
近代以降の日本における「われ」の持つ意味を探るうえで
「個人を規定する時」日本人の思考においては「内向的求心的方向性を持ち」
欧米では「外向的遠心的力」がはたらいている、とのお話がありました。
さらに「道行き」についてのお話があって(先ほどの雑誌のお話の中から引用すると)
…能や歌舞伎に出てくる<道行き>も、日本式思考経路の典型的な造形様式であった。たとえば、『熊野』では花見の宴が行われる清水寺、『曽根崎心中』では徳兵衛とお初が心中する露天神の森というように、設定された目的地へ向かう途上の情景情趣を、登場人物の視点を移動させながら並列に繋いでゆく。(中略)
このような思考経路は、日本の、建築・宗教・政治・芸能・芸術などあらゆる分野において指摘することができるだろう。そしてそれは日本語の文章の仕組みと照応している。 (引用ここまで)
ということで…ここで「なるほど、合点!!」と思ったのは
私自身が、ブログの記事を書きながら
「コッチからアッチまでお散歩したことを、
何で、こんな風につらつらと書いているのかしら~?」
まどろっこしいような気もしつつ
けれど書いていると、どうしてもそのように流れていってしまう…
「どうしてなのかなぁ?」と不思議に感じていたからだったんです。
(もしかしたら…私の一人合点で、皆さまには、ちっともおかしくも楽しくもないかも知れず…)
そのあたりのことも気にかかりつつ…またまた、時間となりました。
ようやく、東のほうから明るいひかりがさしてきました…
この分でしたら…青空も観られそうですね~!!
では…この続きは、また後ほど…