さて、小学校の記憶をたどってみるうちに…
今朝、目覚めたとき、もうひとつ思い出したことがありました。
時間を順に追って、お話しするのもいいけれど
もう少し遡ってから、何かを探してみることにいたしましょうか…
考えてみると、先日来、留守番と家の手伝いに来てくれていた私の母と
いろいろな話をしていたときのことに
もしかしたら、ちょっとしたきっかけがあるのかもしれません。
そのときは、なにか片づけものをしながら
昨日お話した「季節だより」のことを母から聞いたり、たわいのないおしゃべりをしていました。
たまたま、BGMにしていたグレングールドのピアノに、なんらかの効果があったのか
「おばあちゃん(=私の母)が、若い頃からクラシック音楽が好きだったのは
伯父さんの影響だったの~?」と、ふと聞いてみました。
すると、私の予想に反して、実は私のおじいちゃんが大のクラシック好きで
仕事をしながら、ラジオから流れるクラシックアワー(?)をよく聴いていたのだそうです。
それを、そばで聴いていた母が、「門前の小僧」さながら
いつしかクラシックのレコードを集めるようになったようです。
へ~!!そんなところに、母の音楽の趣味のルーツがあって
私自身は、よくわからない小さい頃に
耳からだけのクラシック音楽に、知らず知らずのうちに馴染んでいたようです。
とはいえ、私の子どもの頃のはやりだったのでしょうか
はじめはオルガンで、そのあと、ピアノを習っていた時期もありましたけれど
ほんとうに練習が嫌いで、弾くことの楽しさをほとんど知らないうちに
お稽古は、やめてしまいました。
いま、自分で弾くことができないのは、とっても残念ですけど
ただ、自分の好きな曲を聴いて楽しいと思う感覚だけは、どこかに残っていたらしく
今になって、そんなクラシックに詳しい方のお話を聞いて
これは、という曲や作曲家や演奏家のCDを、聴いてみたりしています。
それが何度も聴くうちに、ほんとうに不思議なくらいに耳に馴染んできて
その曲や作曲家ごとに、ゆったりしたいときや気分転換に聴くのはこれ
ちょっと集中して、考えたい時にはこれ…というように
自分だけのセレクトをしてみたりしています。
ついでに、いつの間にやら、母の若いころの話や私のおじいちゃんやおばあちゃんの話
さらには、私が小さい頃のいろいろな話などなど
いっとき、昔話に花が咲いて…
懐かしさとどこかこそばゆいような不思議な感覚に包まれておりました。
さて、お話を元に戻して
もう少し、どこからか何かをほどきながら、お話を紡いでいきましょう…
今朝も、目が覚めてから、すこしのあいだ
布団の中でカラダをソロソロと動かしながら、つらつらと考えておりました。
この時間が、私は結構好きなんです。
最近は、よっぽどのことがない限り、
目覚ましをかけなくても目が覚めるようになってしまい
かといって、夢らしきものすら、記憶にのぼることもなく
時間に余裕のあるときに、そのあとの少しのあいだ
どこからともなく頭に浮かぶことなどを、
ほんとうにただただ眺めるように観ている
そんなことをしているほんのわずかな時間が、
どういうわけかしら、一日の中でも、とても大切に思えます。
ということで、人というのは、いつしか「自らの生きてきた証し」のようなものを
意識する、しないに関わらず、どこかにそっと残していく…
または、残しておきたいと想うものなのかもしれない…
というフレーズと小学校のときに国語で書いた「生い立ちの記」の記憶が
唐突にも思える様相で、意識の中に立ち上がってきました。
その「生い立ちの記」の内容は、今ではもうほとんど思い出せませんけれど
6年生くらいの時に、それまでの自分の生まれてからのことなどを
両親に聞き取りしたり、小さいときのアルバムなどを頼りにして
作文や、写真などで構成するというものだったと思います。
今となっては、どこを探せば見つかるのかも定かではありません。
ただ、まだ歩き始めて間もない頃の、お茶目な写真や自分で描いた自画像を
切り張りして、表紙にレイアウトしたことを、ぼんやりと覚えています。
それにしても、子どもが成長する過程で、いつ頃から「自分というもの」を
そんな風に、客観的に見ることができるようになるものなのでしょうか…?
そもそも「自分」って言っているものは、どんなものなんでしょうか?
自分自身のことを、振り返っても
どの頃だったのか、果たして今でもどれくらいそれがわかっているのか?
目の前に取り出してみて、普段のシチュエイションのなかで
何かや誰かと比較したりすることができるものなのか?
私には、よくわかりません。
(そんなことを計るテストが、もしかしたらあるのでしょうか?)
最近よく、「メタ認知」ということばが使われていて
私自身も何気なく使っているかもしれませんけど
その実、それが一体どんなものを指していて
どんなことを言っているのかを、まだはっきり理解できているとはいえません。
通級の課題でもkirikouたちも「自分の振り返り」ということをいたしますので
そういう働きがあって、とても大切なことは、理解できます。
さらに、どうすればそのことを身につけることができるようになるのか
今の段階で、どのくらい解明されているのでしょうか?
さて、またイロイロと素朴な疑問がわきあがってきてしまいました。
これから「言語発達学」「認知心理学」のスクーリングもありますので
また、イロイロな学問的なことと、実際の経験上の疑問が
どこかでつながるような、気づきや発見が待っているような…
うれしい予感がしてきます。
いつの間にやら、大幅に脱線してしまいましたけれど
人は、自分というものの成り立ちに、いつしか目を向ける時があり
自分の置かれた環境の中で、それがたとえ、ささやかなものであったとしても
実は、必ず、それは大きな世界につながっていて
決して、そこに一人で立っているのではないことに気づくときがくる…
そんなことを、思いつきました。
そして、そんな自分というものに与えられた世界の中で
何かを行い、何かを生み出し、何かを語り、何かを残して
いずれ、そのカラダは無くなっていく…
そのあとに、待っているもの…そして遺されているもの…って?
そんなことが、ふと浮かんできます。
今、自分をカタチ作っているもの・ことを
少しでも、何かしらのカタチにして、残しておきたいという想いは
人として、共通に抱く感情?衝動?のようなものなのでしょうか?
また、見えないなにものかに、行き着いてしまいました。
そろそろ今夜のお話は、このあたりまでになりそうですね…
この続きは、どうなることやら…
お話している私にも、まったく見えてはおりません…
今朝、目覚めたとき、もうひとつ思い出したことがありました。
時間を順に追って、お話しするのもいいけれど
もう少し遡ってから、何かを探してみることにいたしましょうか…
考えてみると、先日来、留守番と家の手伝いに来てくれていた私の母と
いろいろな話をしていたときのことに
もしかしたら、ちょっとしたきっかけがあるのかもしれません。
そのときは、なにか片づけものをしながら
昨日お話した「季節だより」のことを母から聞いたり、たわいのないおしゃべりをしていました。
たまたま、BGMにしていたグレングールドのピアノに、なんらかの効果があったのか
「おばあちゃん(=私の母)が、若い頃からクラシック音楽が好きだったのは
伯父さんの影響だったの~?」と、ふと聞いてみました。
すると、私の予想に反して、実は私のおじいちゃんが大のクラシック好きで
仕事をしながら、ラジオから流れるクラシックアワー(?)をよく聴いていたのだそうです。
それを、そばで聴いていた母が、「門前の小僧」さながら
いつしかクラシックのレコードを集めるようになったようです。
へ~!!そんなところに、母の音楽の趣味のルーツがあって
私自身は、よくわからない小さい頃に
耳からだけのクラシック音楽に、知らず知らずのうちに馴染んでいたようです。
とはいえ、私の子どもの頃のはやりだったのでしょうか
はじめはオルガンで、そのあと、ピアノを習っていた時期もありましたけれど
ほんとうに練習が嫌いで、弾くことの楽しさをほとんど知らないうちに
お稽古は、やめてしまいました。
いま、自分で弾くことができないのは、とっても残念ですけど
ただ、自分の好きな曲を聴いて楽しいと思う感覚だけは、どこかに残っていたらしく
今になって、そんなクラシックに詳しい方のお話を聞いて
これは、という曲や作曲家や演奏家のCDを、聴いてみたりしています。
それが何度も聴くうちに、ほんとうに不思議なくらいに耳に馴染んできて
その曲や作曲家ごとに、ゆったりしたいときや気分転換に聴くのはこれ
ちょっと集中して、考えたい時にはこれ…というように
自分だけのセレクトをしてみたりしています。
ついでに、いつの間にやら、母の若いころの話や私のおじいちゃんやおばあちゃんの話
さらには、私が小さい頃のいろいろな話などなど
いっとき、昔話に花が咲いて…
懐かしさとどこかこそばゆいような不思議な感覚に包まれておりました。
さて、お話を元に戻して
もう少し、どこからか何かをほどきながら、お話を紡いでいきましょう…
今朝も、目が覚めてから、すこしのあいだ
布団の中でカラダをソロソロと動かしながら、つらつらと考えておりました。
この時間が、私は結構好きなんです。
最近は、よっぽどのことがない限り、
目覚ましをかけなくても目が覚めるようになってしまい
かといって、夢らしきものすら、記憶にのぼることもなく
時間に余裕のあるときに、そのあとの少しのあいだ
どこからともなく頭に浮かぶことなどを、
ほんとうにただただ眺めるように観ている
そんなことをしているほんのわずかな時間が、
どういうわけかしら、一日の中でも、とても大切に思えます。
ということで、人というのは、いつしか「自らの生きてきた証し」のようなものを
意識する、しないに関わらず、どこかにそっと残していく…
または、残しておきたいと想うものなのかもしれない…
というフレーズと小学校のときに国語で書いた「生い立ちの記」の記憶が
唐突にも思える様相で、意識の中に立ち上がってきました。
その「生い立ちの記」の内容は、今ではもうほとんど思い出せませんけれど
6年生くらいの時に、それまでの自分の生まれてからのことなどを
両親に聞き取りしたり、小さいときのアルバムなどを頼りにして
作文や、写真などで構成するというものだったと思います。
今となっては、どこを探せば見つかるのかも定かではありません。
ただ、まだ歩き始めて間もない頃の、お茶目な写真や自分で描いた自画像を
切り張りして、表紙にレイアウトしたことを、ぼんやりと覚えています。
それにしても、子どもが成長する過程で、いつ頃から「自分というもの」を
そんな風に、客観的に見ることができるようになるものなのでしょうか…?
そもそも「自分」って言っているものは、どんなものなんでしょうか?
自分自身のことを、振り返っても
どの頃だったのか、果たして今でもどれくらいそれがわかっているのか?
目の前に取り出してみて、普段のシチュエイションのなかで
何かや誰かと比較したりすることができるものなのか?
私には、よくわかりません。
(そんなことを計るテストが、もしかしたらあるのでしょうか?)
最近よく、「メタ認知」ということばが使われていて
私自身も何気なく使っているかもしれませんけど
その実、それが一体どんなものを指していて
どんなことを言っているのかを、まだはっきり理解できているとはいえません。
通級の課題でもkirikouたちも「自分の振り返り」ということをいたしますので
そういう働きがあって、とても大切なことは、理解できます。
さらに、どうすればそのことを身につけることができるようになるのか
今の段階で、どのくらい解明されているのでしょうか?
さて、またイロイロと素朴な疑問がわきあがってきてしまいました。
これから「言語発達学」「認知心理学」のスクーリングもありますので
また、イロイロな学問的なことと、実際の経験上の疑問が
どこかでつながるような、気づきや発見が待っているような…
うれしい予感がしてきます。
いつの間にやら、大幅に脱線してしまいましたけれど
人は、自分というものの成り立ちに、いつしか目を向ける時があり
自分の置かれた環境の中で、それがたとえ、ささやかなものであったとしても
実は、必ず、それは大きな世界につながっていて
決して、そこに一人で立っているのではないことに気づくときがくる…
そんなことを、思いつきました。
そして、そんな自分というものに与えられた世界の中で
何かを行い、何かを生み出し、何かを語り、何かを残して
いずれ、そのカラダは無くなっていく…
そのあとに、待っているもの…そして遺されているもの…って?
そんなことが、ふと浮かんできます。
今、自分をカタチ作っているもの・ことを
少しでも、何かしらのカタチにして、残しておきたいという想いは
人として、共通に抱く感情?衝動?のようなものなのでしょうか?
また、見えないなにものかに、行き着いてしまいました。
そろそろ今夜のお話は、このあたりまでになりそうですね…
この続きは、どうなることやら…
お話している私にも、まったく見えてはおりません…