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青葉城恋唄

仙台生まれ、仙台育ちの40代女性。
日々の生活で考えたことを記す雑記帳。

3・11震災の記録 原発について

2011年06月13日 | じしん
3ヶ月を経過して、今考えること。

6月10日、作家の村上春樹氏がカタルーニャ国際賞受賞のスピーチで
今回の東日本大震災、それとそれに伴う原発事故について言及しました。

毎日新聞web
スピーチ全文(上) http://mainichi.jp/enta/art/news/20110611k0000m040017000c.html
スピーチ全文(下) http://mainichi.jp/enta/art/news/20110611k0000m040019000c.html

めったにカメラの前に姿を現さない村上氏、
さらに日本語でのスピーチも珍しく、ちょっと感動した。

しかし、それだけではなく、私は好きな作家の言葉を通じて
今回のスピーチの内容について考えなければならない。


「我々日本人は核に対する「ノー」を叫び続けるべきだった」
という発言に対し、賛否両論が起こっています。
「今言うな」という批判があるのもわかります。

私自身は、今回の事故が起きるまで原発について何の疑問も持っていなかった。
でも考えてみれば、世界で唯一核の被害に遭っている国が
原子力発電を導入して、その恩恵を受けているのはなんとなくおかしい。
でもその決断を下したのは日本人自身。

今回の地震で原発の事故を起こした原因はなんなのか。
東電の事故後の対応が悪かったとか、政府の対応が・・・とか
いろいろ言われているけど、
そもそも原子力発電所が日本になければ、少なくとも加害者にはならずにすんだ。

でも事故は起こってしまった。
日本は世界に放射能汚染を撒き散らす加害者になってしまった。

これからどうすればいい?
福島第一原発の状況が収束して、その後日本はどんな選択をするの?

それって、他人事じゃないよね。
日本の発電から原子力を排除してもやっていけるのか?
自分の頭で考えて結論を出さなければ。
受け入れてしまった責任が全員にあるとしても、
だから今後も受け入れ続けなければいけないってことにはならないから。

思うところ。

2011年04月20日 | じしん
「オーケー、これは現実だ。間違いない」(村上春樹「ダンス・ダンス・ダンス」)


今日、亘理町の荒浜へ行ってきました。



最近、沿岸部の被災地へ見物目的で来る人たちが増えているそうです。
大勢で被災地を訪れ、写真を撮って帰るらしい。
時にはそれが渋滞を引き起こし、復旧作業の妨げになっているらしい。

私の行為もそれと同類かもしれない。
知り合いがいるわけでもない土地に、支援物資を届けるわけでもなく。

渋滞の原因になったわけではないし、
立ち入り禁止の場所に入ったわけでもないけれど。


でも、行って良かったと思う。

これまではいくらテレビで被災地の映像を見ても
「大変だな」とは思ってもどこか他人事だった。
言うなれば、95年の神戸の地震と同じくらいの感覚だった。

毎年はらこ飯を食べに行っていた「加藤屋」さんは無事でした。
建物は。


ガラスは割れ、駐車場の一角には瓦礫が積み上げられ、
おそらく店内は津波が運んだ泥で汚れてしまっているだろう。


店に至る道路の両側は、
かつてどんな景色だったのか、思い出せないくらいだった。



「加藤屋」は父の行きつけだった店。
子どもの頃からよく連れて行ってもらっていた。

良く知っている土地の変わり果てた姿を見て、
ようやくあの津波が自分の故郷を襲った災害だったと実感できた。

今年はあの味には会えないのでしょうか。
さびしい。

大地震の記録 4月13日

2011年04月13日 | じしん
今日、我が家はガスが通りました。
同居人作の簡易シャワーもお役目終了。




その後、車を出しました。
まずは実家へ。だいぶ前に復電していたので、ブレーカーを上げて冷蔵庫を復活。

泉中央でケンタッキーへ。
お~、新メニューが出ていた。




うーん。油淋鶏ではないかも。



その後、利府から多賀城、仙台港方面へ行きました。



地震から1ヶ月。
今回の震災は、内陸部と沿岸部では被害がまったく異なる。
私は沿岸部の被害状況をテレビでしか知らない。

このまま、自分の住む場所で起こったことを見ずにいていいのか。
そんな思いが日に日に強くなっていった。

利府でガソリンを入れたついでに、ジャスコに寄ってみました。
営業再開しているとは聞いていたので、この辺りはだいぶ復興していると思っていた。
でも1階の一部のみの営業で、しかもまだこの地域は断水していたので
トイレは外に設置されている簡易トイレを使うようになっていた。

このような状態で営業を再開しているのがすごいと思った。

県道3号線に入り、塩釜から多賀城、そして45号線へ。

国道45号線は地震直後、津波が襲い、
多賀城から先は通行止めになっていたはず。

1ヶ月後の国道は一見きれいになっていて、震災の後はないように見える。
でも、海側へ1本入っただけで、景色がいつもとは違っていた。

道端に転がるタンクローリー。
空き地にぐしゃぐしゃになった車が並べられている。
ガラスがすべて割れてしまっている店舗。

「目の当たり」にはできなかった。直視できなかった。
ましてや写真なんて。
最近、被災地を観光気分で訪れる人が増えているという。
あそこで写真を撮る勇気、私にはない。

本当はもう少し海沿いの県道を南下して帰るつもりでしたが、
警察の交通規制があって入ることができなかった。
帰宅した後、後悔が残った。

もう少ししたら、もう一度行ってみます。

1ヶ月。

2011年04月11日 | じしん
あっという間でした。

あの大震災から1ヶ月が経った。
あの時間には休憩室に移動して、黙祷をしました。

地震の直後、これほどの大震災になるとは思ってもいなかった。
そして1ヶ月経った現在、自分はやっぱり被災者ではないと感じる。
時間が経つにつれ、思うことも大きくなる。



夕方、大きめの地震。その後も何度も揺れる。

気持ち悪い。勘弁してくれ~。
余震は何年も続くらしい。つらい。

大地震の記録 4月8日(今日のランチ)

2011年04月08日 | じしん
昨夜、余震というには大きすぎる揺れがありました。

当時私は青葉区北西部の実家にいて、
翌日母を9時発のバスに乗せるため、早起きをしなければいけないので、
そろそろ寝ようかと思っていた頃だった。

初めは「あ、また余震」という程度だったけど、
すぐに揺れは強くなり、
「勘弁してよ~」と言いながら本棚を押さえている内に
電灯と灯油のヒーターが消えてしまった。

「え~また停電
というのが素直な感想。

下に降りると母がガサガサとろうそくを探していた。
結局見つからず。この前まで使ってたのにね。
すぐに姉から電話。無事を報告。
私が出たので姉は混乱した模様

同居人ともすぐにメールで連絡できた。
「また片付けが大変だよ」という記述を見てうんざり。


とにかく明日はさらに早く出なければということになり、
無理やり床についた。


・・・眠れるわけがない


寝る場所が違うこと、揺れへの興奮が収まらず、ほとんど眠れなかった。

翌朝、まだ停電が続くので、冷蔵庫の中を空にして、
ブレーカーを落として出発。
心配していたほどの渋滞もなく、バスもちゃんと運行していた。

あ~でもまた信号が消えているし、電車も停まってしまっている。
まるで震災直後に巻き戻されちゃったみたい。
テープみたいに、ではなく、前のチャプターにピッて戻った感じ。


母を見送り、預かった荷物(東京滞在中の着替え)を送ろうと思ったら
ヤマト運輸では昨日の地震の影響で受付してくれなかった・・・


自宅にもどって、「巻き戻し」された感覚がさらに強くなった。
1ヶ月前にも観た光景。
何から手を付けたらいいかわからない。
しかも、先月は倒れなかった本棚が倒れていた。
しかもしかも、布団の頭の位置にあった本棚。



同居人はあの後、どうやって寝たんだろう・・・?

昨夜消えてしまった電気は自宅の方は朝に復旧。
とりあえず、母の荷物をなんとかして送らなければいけないので
部屋をそのままに実家の電気の状態を確認しに出発。

実家はまだ停電したまま。

お腹がすいたな~と思いながら、近所を偵察していたら、
急に「むかご」のことを思い出した。
地震の前からしばらく行ってなかったかも。

営業しているかわからなかったけど、とりあえず車を泉ヶ岳へ向ける。

途中のGSはまたしても行列が。
みんなの頭の中では「地震」=「ガソリンなくなる」なのかな?
ちょっと頭にきた。頭悪すぎ。





・・・開いてた。
11時ぴったりに入店。客は私一人。
いつものじゃが焼きを食べながら、店のお兄さんと地震の話で盛り上がる。



帰り道、再度ヤマトの営業所に行ってみたら、今後は受付してくれた。
良かった。いつ届くかわからないけど。


自宅に帰り、再び呆然。
とりあえず、1ヶ月前と同じ手順で片付け開始。
でもまたしても、棚の上段にものを戻せなくなってしまった。


こんなこと、何度繰り返すんでしょうか??
なんとなく、1ヶ月前の本震よりも、ダメージが大きいです。

大地震の記録 4月2日

2011年04月02日 | じしん


街中も普通の週末らしくなってきました。
いや、それよりも多いのか?
普段あまり土日に出かけないのでわかりません。

母と待ち合わせてランチ。
帰りに駅をプラプラしました。

行きがけ、ここ数週間いつも行列ができていたGS前の道路がすいていた。
GSの看板を見ると「13時開店」の文字。
普通だったらすでに渋滞のはずなのに。

ガソリン供給もだいぶ落ち着いてきたのかな。
うんうん、いい傾向だ。


仙台駅はまだラッピング状態。
でも中はだいぶ入れるようになってきました。
JRも少しずつ動き出したし。

フォーラスの前でチャリティーコンサートが開かれていました。
三女高合唱部OGの「さくら」を聞いて、涙ぐみそうになった。




近所のコンビニが24時間営業になった!
「24時間営業」をアピールするコンビニ。これも非日常。



今回の地震。
これまでは「東北関東大震災」とか「東北地方・太平洋沖地震」とか
さまざまな名称で呼ばれていましたが、
正式に「東日本大震災」と決まったそうです。

名前を決めることに意味はあるのでしょうか?
そういえば、「阪神・淡路大震災」も「兵庫県南部地震」とか呼ばれていたっけ。


個人的には「東日本」とひとくくりにするのは抵抗がある。
確かに茨城や千葉という、関東も被害が大きかったらしいし
(液状化現象の起きた地域なんてうちよりひどかったのでは?)、
山形や秋田もそうとう揺れたはず。

でも、今回の地震のもっとも大きな特徴は津波だったわけで。
被害者のほとんどが津波による溺死。
家屋の倒壊も津波によるものがほとんど。

だから私は「東日本太平洋沖地震」と名付けたいね。

・・・だから名前なんてどうだっていいんだけど。

大地震の記録 3月30日

2011年03月30日 | じしん
今日は近所のコンビニが朝から開いていた。

以前は当たり前だったことが今は新鮮に思える。
コンビニがいつでも開いているとか(今はまだだけど)、
自動販売機にいつも商品が入っているとか。

昨日から職場に入っているカフェが職員向けにランチを出してくれている。
今日はそれを注文。チキンサンドに惹かれた。



結構ボリュームがあってお得。


夕方、家に帰ると姉から救援物資が届いていた。




大量の「いろはす」
コンビニで全然見かけないので送ってもらったのだ。

これで安心。